北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【旭川・比布】 上川盆地の水稲耕作の発達 ②

屯田兵・末武安次郎 タコアシを発明する

 

中山久蔵の「赤毛種」を得て上川盆地での稲作の可能性が開けます。いくつかの試行のあと、上川農事試験場が本格的な稲作試験を開始します。このとき生まれた「タコアシ」と呼ばれる種まき器が北海道の稲作を飛躍的に発展させました。

 

黒田式水稲直播器(タコアシ)①

 
入植者によるいくつかの先行的な試みはありましたが、実質的に上川盆地での稲作を始めたのは上川農事試験場の主任の黒沢信良です。この上川農事試験場は、実に上川盆地発展の起点とも言うべき事業所でした。『比布町史』は言います。
 
上川開発の第一を道路の開さくに求めたが、それと同時に農民をこの地に移住させるためには気象を測り、適切な農作物を選んで農民を指導する観点から、農事試験所を設け、測候所や水測所を置く方針を明らかにしたのである。この方針にもとづいて、明治19(1886)年に上川仮道路の実測を命じられた高畑利宜は、いまの旭川市神居町字忠和の地を選んで4月4日に忠別作試験所を設置する準備を進め、建坪44坪1棟(一説に54坪ともいう)を建てたうえ、道庁技手福原啓作を担当者として5月8日から試験畑の耕作に着手させることにした。
 
このように上川農事試験場は、まだほとんどが原生林に覆われている中、上川盆地の開拓のために、農場よりも先に作られたのでした。そうしたなかで農場は上川盆地に農業を根づかせる重い責任があったのです。こうした中、農場主任として着任した黒沢はさっそく米の栽培試験に取り組みました。
 
明治26(1893)年12月に上川農事試験場の主任となった黒沢信良は、就任と同時に試験川水田2反歩余を造成し、翌29年から水稲の移植・直播比較試験に着手したのである。
 
黒沢が取り組んだ「移植・直播比較試験」とはどのようなものでしょうか? 現在の方法では種もみを苗床である程度育ててから田に植えます。この方法が「移植法」、それに対して種もみを直接田んぼに蒔くのが「直播」です。明治の初期、どちらの方法が北海道に適しているのか、まだ分からなかったのです。この「移植法」「直播法」について『比布町史』は次のように説明しています。
 
本道稲作の栽培方法には大きく分けて二つの転機があった。そのーつは本道独自の直播栽培が普及した時期であり、今一つは昭和初期の連続的な冷害凶作の経験から生れた温冷床による育苗が普及した時期である。
 
すなわち、北海道の稲作は最初は苗床を使わない「直播法」から普及していったというのです。そして「直播法」の普及に大きな影響を与えたのが黒沢信良でした。
 
この比較試験の背景には、東旭川屯田兵村の末武安次郎がタコアシ型もみ播器の模型をつくり、これを旭川村の板金業黒田梅太郎(いまの旭川市三条平和通)に製作させたうえ、すでに明治28(1895)年から直播栽培を試みていた事実があったことを見逃すわけにはいかないであろう。
 
『比布町史』は、東旭川屯田兵村の末武安次郎が「タコアシ」という種まき機を考案し、これが普及したことで米の「直播栽培」が北海道の主流になったといいます。「タコアシ」は種もみをいれたケースから「タコ足」のように何本も管が伸びたもので、農業者はこれを首から下げることで、立ったままの姿勢で種蒔きが可能になった画期的な器具でした。
 
直播栽培は、東旭川屯田兵村の末武安次郎が明治28(1895)年から試用したクコアシ型もみ播器に負うところが大きいといわなければならない。末武安次郎が考案したタコアシ型もみ播器は、その権利を譲りうけた旭川村の板金業黒田梅太郎によって改良が加えられ、明治38(1905)年10月12日に専売特許(水田もみ播器第9520号) を得てから一般に普及した。
 
この黒田式直播臨に続いて、寺門千我吉が考案した通称「カチカチ」と称する寺門式直播器や、細川嘉吉が考案した細川式直播器なども一般に広く普及するようになって、それまで府県在来の水苗代や北海道庁が指導した短冊苗代・共同苗代・通し苗代等による育苗農法に代って、本道独自ともいうべき直播栽培の体系が確立されるようになったのである。
 
画期的もみ播器「タコアシ」は、黒沢信良が米の栽培試験を始めたときに協力した屯田兵・末武安次郎が発案し、これを旭川村の板金業黒田梅太郎が改良して特許を取得。さらに寺門千我吉、細川嘉吉などが使いやすく独自の改良を加えて、全道に普及していきました。
 
「タコアシ」を用いた「直播栽培」は「移植法」に比べて次のような特徴があったと『比布町史』はいいます。
 
①移植に比べて種もみが多く必要である、②除草に労力が多くかかる、③ドロットムシの影響を受けやすい、などの欠点を持ちながら、播種期における労働力の節約や、稲作限界地においては普通苗代栽培に劣らない収穫を上げうるという利点を持ち、限界地体の造田化を助長したことは否定できない。
 
「直播栽培」は、「移植法」に比べ多くの欠点を持ち、反当たりの収量が低くても、本州に比べ土地があった本道では、田んぼの面積を広げることで欠点をカバーすることができたのです。そしてこの「タコアシ」が広大な面積への効率の良い種蒔きを可能にしたのでした。
 
試作期における用水の施設はまったくなかったから、各試作者とも移住地内の湿地とか沢水を利用してわずかな面積に作付する程度で、用水の確保は共通の悩みとなっていたが、明治26(1893)年の春に神居村雨紛原野の石橋農場が約100町歩の水田開発を計画し、同年9月に1800間のかんがい溝を完成して用水問題解決の途を拓き、これが刺戟となって各地に私設の水利組合を組織する動きがあらわれはじめていた。
 
ここで私たち道民が誇りたいのは、この「タコアシ」の発明から改良、普及まで民間の手で行われていったという事実です。北海道の開拓史に対して官依存の批判を聞くことがありますが、この北方米作の歴史を見ると、そうした批判がまったく見当違いであることがわかります。私たちの先祖は自らの創意と工夫で北方稲作の限界を押し広げいったのです。
 
このように杉沢繁吉が試作に成功してから5年たらずの間に上川地方の稲作に対する気運は急速にたかまり、明治29(1896)年における反当り収髭は2石3斗9升6合に逹し、全道平均の1石1斗5升6合を上まわる成績をあげ、翌30年にはすでに52ー町5反9畝歩の水水田が造成されるに至ったのである。
 
次回は北方稲作を可能にした品種改良の歴史を見ていきます。
 
 

 


【引用出典】
[1] ~[8] 『比布町史』1964・418~432p
①北海道博物館 https://jmapps.ne.jp/hmcollection1/det.html?data_id=216

 
 

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