北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 
第4章 和牛導入─疲弊する白老農業を救う

 

■町長の使命とは何か

 選挙中の無理がたたって義市の病は長引き、当選後もすぐには勤務ができなかった。村長としての仕事始めは十月に入ってから。病床に伏していた約5カ月の間、義市は〝町長と何か〟〝町政とは何か〟を考え続けた。そしていたってシンプルな答えにたどり着く。
 

白老浜で漁港構想を描く浅利義市(出典②)

村長(昭和29年に白老は村から町になる)の仕事はまちを豊かにすることだ。まちを豊かにするにはどうすればよいか。基幹産業の農業と漁業が発展すること。そして、新たな働き場所があること。すなわち、町長の仕事は、基幹作業と新規産業の振興に務めること──。義市は、このように目標を定め、7期28年間、脇目も振らず、この目標に努力し続けた。
 
かつては北海道一貧しいと言われた白老。軍馬生産に取り組むようになって、ようやくまちづくりは安定期を迎えようとしていた。しかし、1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言の受託によって大日本帝国陸海軍は瓦解。まちを支えていた軍馬生産は音を立てて崩れ落ちた。
 
1947(昭和22)年の村長選挙で、まちのこれからを担う若者たちが浅利義市を担ぎ出したのは、義市が獣医としてまちの実情を誰よりも理解しているという期待感からだった。義市もこの期待に真っ正面から応えようと決意する。
 

■北海道に初めて和牛生産を導入

 農業再生のために暗中模索を続けていた1954(昭和29)年、年初に島根和牛の販売先を求めて島根県北海道訪問団が立ち寄った。訪問団の話を聞けば、和牛の生産地である山間部は、気候条件も厳しく、雪も降るとのこと。義市はもともと獣医である。直ちに島根に向かい、和牛を調査した。〝これはいける〟との自信をつかんだ義市はすぐに議会を説得し、受け皿となる畜産農業協同組合を組織、黒毛和牛44頭を導入した。黒毛和牛が本格的に北海道に導入された最初である。
 
白老に和牛がきたものの、飼育の難しさを知る馬産農家、酪農家は手を出そうとしない。義市は一計を案じ、親しい漁師に頼んで牛を飼ってもらった。当時は前浜も不漁続きで、税金を納めることのできない漁師も多数いたのである。漁師から和牛飼育家が出るようになって、馬産農家、酪農家も恐る恐る和牛を導入し始めたという。
 

島根から移入された和牛(出典①)

和牛を普及させるために義市は、家畜管理条例を設けて「子返し制度」を導入した。農家に牛を無償で貸し付け、生まれた雌牛を村に納入することで、借りた牛がタダになる制度である。当時、酪農普及のために行われていた制度だが、義市は和牛を対象に白老の独自制度として実施した。
 
当時の白老の財政規模は8000万円程度。1958(昭和33)年度までに実に8222万円もの町費を投入して253頭の島根牛を買い、農家に貸し与えた。一頭平均32万円。牛の価値は血統によって決まり、優秀な血統の牛ほど高い値が付けられている。どれほど経費がかかろうと最高の血統を──。獣医として血統の大切さよく知る義市にしかできない決断だった。
 

■苦節30年─白老和牛全国一

 これからだんだん生活が良くなる。必ず食生活も洋食化していく。肉牛は必ず良くなる──こう説いて義市は和牛振興を図るが、乳牛飼育のノウハウは和牛に通じない。経験不足から栄養失調で足腰が立たなくなる「コシヌケ」という牛も現れた。
 
貸付先で高価な牛がバタバタと倒れる。義市は怯まなかった。技術が足りないのならば習えばよい。義市は島根県庁に技師の派遣を要請し、1956(昭和31)年には藤井善明、58年には堀尾博義が着任し、濃密な技術指導を行った。
 
無ければ創る。足りなければ補う。無理なら説得する――。義市は、白老町和牛生産組合の設立、牧場施設の増設と草地造成、家畜市場、肉牛繁殖センターの建設と、ブルドーザーのような力強さで「白老牛」の道を切り開いていった。
 
1988(昭和63)年、島根県から始めて黒毛和牛が導入されてから34年経った年、白老町の和牛頭数は2800頭を数え、白老は名実ともに北海道屈指の肉牛生産地となっていた。
 
この年の9月3日から、白老牛の故郷島根県で「全国和牛能力共進会」が開かれた。5年に一度開かれる畜産のオリンピック。5238頭もの和牛が全国各地の予選に出場し、そのうち324頭が本大会に出場した。ここで白老の武田正吾氏が出品した白老牛の雌牛「けんせい1号」「ふじひめ号」「しんもり号」のトリオが全国一に選ばれたのである。白老牛が名実ともに全国で認められた瞬間だった。
 

■誘致陳情に全力を傾ける

 義市の積極策はまちの財政を圧迫した。『根性─浅利義市追悼集』に収められた座談会での元役場職員の発言である。
 
役場に者を売ったら半年は(代金が)貰えなかったのは事実である。資金繰りのために拓銀苫小牧支店に30万円の借り入れ申し込みをしたらお断りされたことがあるくらいですから。役場職員の給料支払いも大変なことであり、私も時々借金を頼まれました。一般職員の給料支払いが大変でしたから、給料は遅配続きで、貰った給料が何月分なのか分からなかったものですよ。
 
職員給料も満足に支給できないほど町財政は追い詰められる。しかし義市は緊縮財政を選ばず、企業誘致によって税収を上げる道を選択した。時は高度経済成長の真っ只中、全国各地で工場立地が進んでいた。
 
義市はまちのセールスマンに徹した。東京の地理を良く知り、トレードマークのコートをヒラヒラさせながら、1分の隙もなく足早に用務をこなす義市に、北海道から同行した随員は誰一人としてついていけなかったという。陳情に同行した職員のこんな証言が『根性─浅利義市追悼集』に残されている。
 
陳情しようとする人の人相、風体をよく調査しており、同行した者たちにもこれらのことを前もって教えておき、その方の部屋の前で待っており、他町村の陳情団など一切構わずに部屋に入り、十年の知己のようにやあ…やあ…と握手を求め、北海道白老町長の浅利ですという早業に我々もびっくりしたもんである。
 
小学校の改築が必要になったが、財政難で建築費が捻出できない。そこで義市は、建築用材を業者に支給することで建築費を抑えようと図る。用材を確保しようと国有林の払い下げを札幌営林局に申請したが、当然のように撥ね付けられてしまう。
 
浅利義市はこんなことであきらめる男ではない。ターゲットを林野行政の頂点、農林大臣に定めた。当時の広川農林大臣は朝食時に日本酒を嗜むことを日課としていた。この時間が最も機嫌が良いと聞くと、大臣宅に朝駆け陳情を繰り返し、ついには「浅利君、もう分かったからこなくていいよ」と言わせた。国有林の払い下げが許可されたのは、それから間もなくだった。
 

■財政難と新規事業の狭間で

 こうして何社にも断られながらも、ようやく製糖工場の内定にこぎ着けた。しかし、それも道内1カ所という政府の方針転換によって檜山地区に奪われてしまう。続いてハードボード工場の誘致に取り組むが、諸条件が整わないとしてまたしても振られてしまった。当時の白老は普通高校一つない、北海道で最も貧しいと言われた田舎町。いくら高度経済成長時代とは言え、そんなまちに工場を置こうとする会社はなかった。
 
義市は怯むことなく、以前にも増して足繁く企業を回り、白老をアピールし続けた。財政負担を最小に留めようと随員は最小限に抑え、ときには賄い付きの宿に泊まり、自炊した。もともと義市は体が丈夫ではない。朝から晩まで東京を駆け回り、宿に戻るとぐったりと倒れ込む。日に日に悪化する財政と成果の出ない新規事業との板挟みで苦しい日々が続いた。
 
そんな義市を、いや白老のまちを救うことになったのは、今や日本競馬界に絶対的な巨人として君臨する社台グループの創設者、吉田善哉との出会いだった。
 


【参考文献】
『新白老町史』1992・白老町
『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
『札幌日本大学学園 創立50周年記念誌』2013・札幌日本大学学園
【写真図版出典】
①②『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会

 
 

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