北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 
第5章 奇跡の企業誘致 大昭和製紙白老工場

 

■日本競馬界のドン・吉田善哉との出会い

 白老には社台という地区がある。「浜川の林の川」を意味するアイヌ語の「シャタイペッ」から来た地名で、1918(大正7)年に徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜から家督を付いた徳川慶久が牧場を開いた。徳川家による牧場経営ははかばかしくなく、経営は札幌月寒で牧場を経営していた吉田善助の手に移る。善助は住まいを札幌から白老に移し、本格的にサラブレッドの生産を始めた。これが今日本競馬界に君臨する社台グループの出発である。
 

木村幸治著『吉田善哉 倖せなる巨人』
2001・徳間書店

1941(昭和16)年、吉田善助は千葉県に持っていた富里牧場に三男の善哉を送った。1944(昭和19)年、戦争の激化によって千葉県の牧場経営が難しくなり、善哉は白老の本場に戻った。1945(昭和20)年に父善助が亡くなり、善哉は社台の牧場を受け継いだ。
 
戦後、善哉は「社台ファーム」と名乗って一族から独立。1955(昭和30)年にはアメリカに渡って最先端の生産・育成法を学ぶ。帰国後、千葉県の富里牧場と白老の社台牧場を使った二元育成法を確立し、強力な競走馬を次々と送り出した。外国の優れた種馬の導入にも積極的で、1961(昭和36)年にアイルランドより導入した種馬ガーサントによって国内最有力の生産者の地位を確立した。
 
現在、社台グループには、社台ファーム、ノーザンファーム、追分ファーム、白老ファームといった牧場が連なり、JRA重賞レースの勝ち馬の約半数は、これら社台グループの生産馬が占めるという。日本競馬界に君臨する大帝国を築いた人物こそ吉田善哉だった。
 
獣医として浅利義市が白老に赴任したのは1938(昭和13)年。吉田善哉が空知農学校を卒業し、父の経営する社台牧場に入ったのが1939(昭和14)年。運命が引き合わせたように二人は出会う。浅利義市は見てきたような人物。一方、吉田善哉は「歩くカミナリ」と恐れられた頑固者で、こんな言葉を残している。
 
「わたしはね、自由競争というのが好きなんだ。競争することが大好きだから競馬の仕事が合っている。私が面白いのは文化よりも優劣勝敗だ」
 
まさに似たもの同士。牧場主と獣医、有力者と町長――、時代によって立場は変わったが二人は強い信頼で結ばれた。
 

■善哉、大昭和製紙を引き合わせる

 さて、この吉田善哉の遠縁に、大昭和製紙の創立者、斎藤知一郎の長男で1961(昭和36)年に2代目社長となった斎藤了英がいた。吉田善哉の実妹の嫁ぎ先が斎藤了英夫人の従弟だったのである。斎藤了英は静岡の地方製紙会社だった大昭和製紙を日本有数の大企業に育て上げた実業家で、バブル期にゴッホとルノアールの絵画を最高価格で落札し、世界を驚かせた。縁戚関係に、馬主と牧場主という関係を加え、二人は親密さを増していった。
 
義市が誘致企業を求めて歩き回っていた頃、大昭和製紙は、さらなる発展を求めて広島県福山市に新工場の計画を進めていた。1958(昭和33)年、この計画が地元に知られ、特産の海苔養殖が打撃を受けるとして地元漁協が反対の声を挙げた。地域の政治対立も関わり、反対運動は日に日に大きくなり、8月、大昭和製紙はついに計画撤回を発表した。
 
新工場の計画を父である創業社長から一任されていていた斎藤英了副社長にとっては耐え難い挫折だった。この悔しさを親しい吉田善哉に漏らしたのだろう。1958(昭和33)年の夏、善哉は誘致企業を求めて虚しく東京をさまよう義市を呼び止めてこう言った。
 
「大昭和製紙を訊ねてみたらどうか。広島での新工場計画が暗礁に乗り上げている。副社長を紹介できる」
 

浅利義市(中央左)と斉藤知一郎(中央右)(出典①)

義市はすぐさま行動を起こした。本社を訪ねること数度。1958(昭和33)年11月17日、ついに大昭和製紙として正式に白老町に打診する日を迎えた。本社役員室に大昭和製紙を一代で立ち上げた創業者斎藤知一郎を筆頭に経営陣が並ぶ。まず斎藤知一郎が口火を切った。
 
「町長さんね、うちの幹部は北海道というとみな修学旅行ぐらいしか行ったことがないのですよ。それでまず北海道の話をしてもらえませんかね」
 
白老から5人の町代表を率いて上京した浅利義市による一世一代のプレゼンテーションが始まった。
 
大昭和製紙にとっての最大の懸念は地元住民の動向。福山工場が地元漁業者の強い反対にあって頓挫しただけに、白老漁民の反応が気になって仕方がない。
 
心配ありません――と義市は胸の内を見透かすように即答した。長年にわたって漁師と交遊を続けてきた義市には漁業者を抑える自信があったのである。経営幹部には異論もあったようだが、斎藤知一郎社長が最後に述べたこの言葉で大勢が決した。
 
「あなたね、この仕事はうちの社員になったつもりで、やってもらわないとできませんよ」
 
社長の意を受けた斎藤了英副社長はさっそくこの月の下旬に専務、建設部長、秘書課長を伴い最初の白老訪問を行った。
 

■まちを救った一台のリヤカー

 吉田善哉の側面支援もあり、大昭和製紙の新工場はほとんど白老に決まったかと思われた。ところが1959(昭和34)年2月、誘致は突然暗礁に乗り上げる。
 
巨大な製紙工場を建設しようと思えば、工場用地の地盤は強固でなければならない。大昭和製紙による地耐力調査の結果がこのとき明らかになり、白老町が用意した工場用地は地盤が弱く、工場には適さないとの結果が出てしまったのである。
 
弱り目に祟り目というべきか、試験結果を聞いたわけでもないのに、突如として深川が誘致に名乗りを上げた。深川は地盤は良好、石狩川から豊富に水が取れ、道央圏にあって原木集めも容易、工場用地も無償で提供するという好条件だった。
 
大昭和製紙白老工場の夢はまさに風前の灯火。義市はすぐに上京し、「もう一度、見て欲しい」と説得を続けた。
 
1959(昭和34)年4月22日、義市の粘りに大昭和製紙は斎藤喜久蔵技術部長を派遣することにした。名目は工場予定地の再調査だったが、帯びた社命は「白老進出の断念」と穏便に伝えること。断念が技術的な理由だったため技術部長が適任とされたのである。
 
大昭和製紙の変心を感じ取った義市は、ここで部長を帰してしまえばすべてが終わってしまうと執拗に食い下がり、「実はまだ用意できる土地がある」と、隠し球である「萩野」地区に部長を連れ出した。
 
日はすでに傾き始めていた。ジープに乗った一行が萩野地域に入ってすぐ、春先の雪解け水で道が塞がれ、前に進めなくなってしまった。仕方なく車を降りてあたりを見渡す。斎藤部長の目には、切り札とされた萩野も、不適の結果が出た白老地区、社台地区と同じにしか見えない。
 
斎藤部長が車に戻ろうときびすを返した時、赤茶けた土を乗せたまま放置されていたリヤカーに目が止まった。駆け寄り、土を調べた部長は「スコップはありませんか」と言った。義市は部下を走らせ、付近の農家からスコップを借りてこらせた。掘っても掘っても出てくるのは赤土。部長は息を弾ませながらこう言った。
 
「町長、これはひょっとするといけるかもしれませんよ」
 
地質の専門家であった斎藤部長は「この土がこの当たり一帯に広がっているのならば、地盤は悪くないはずです。もう一度調べてみましょう」と言うのである。
 

■白老原野に大工場出現

 1カ月後に明らかになった再調査の結果は「合格」。
 

大昭和製紙白老工場を引き継いだ
日本製紙白老事業所(出典②)

斎藤了英副社長は再度北海道を訪れて深川市よりも白老が望ましいとの報告をあげた。1959(昭和34)年6月2日、斎藤知一郎臨席の取締役会は正式に大昭和製紙白老工場の建設を決定した。後々まで義市はこう言ったという。
 
「あの砂を積んだリヤカーの持ち主は誰だろうか。あのリヤカーがなかったら工場の誘致が無かったことを考えると、本当に持ち主に感謝したい」
 
総工費74億円、工場敷地面積約200へクタール。工場建物面積13万平方メートル。月に2万7000立方の原木を使い、新聞用紙で250トン、段ボール原紙で150トンの紙を毎日吐き出す巨大工場が白老町萩野の原野に出現した。
 
合わせて従業員住宅350戸、120人収容の独身寮がつくられ、白老チップ、大昭和紙工産業、大昭和技研工業など関連企業も白老に進出。またたくまに白老の人口は10倍になった。人口の増加。消費の拡大。税収の向上――。破産寸前であった白老の町は、たった1台のリヤカーによって救われたのである。
 
こうして企業誘致に目途がたつと義市は、残された最大の課題、観光開発に力点を移す。それは、白老アイヌコタンの移転という誰も手をつけることのできなかった難事業に取り組むことだった。
 

【参考文献】
『新白老町史』1992・白老町
『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
『札幌日本大学学園 創立50周年記念誌』2013・札幌日本大学学園
【写真図版出典】
①『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
②日本製グループHP>https://www.nipponpapergroup.com/sp/about/branch/factory/npi/shiraoi/

 
 

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