北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ①

 

  

丹羽五郎 7つの祝福 

 
 

当サイトは8月15日で3年目に入ります。そこで2周年記念特集として北海道開拓史を彩る大物を紹介します。北檜山の開拓功労者・丹羽五郎です。昭和43(1968)年の北海道百年からこの50年、北海道は大きく道を誤ってしまったのですが、もし、道に迷うことながなければ、丹羽五郎の名前は道民であれば、子どもでも知る名前となっていたでしょう。それほどの功労者であり、開道百年までは全国的にも知られていました。
 
丹羽五郎伝を開始するにあたって、大正15年に財団法人丹羽部落基本財団から『我が丹羽村の経営』に掲載された「丹羽五郎自叙略伝」を元資料としています。本書は当時の若き昭和天皇に天覧の栄をいただきました。
 
今回は、会津藩時代の家臣であった鈴木重正が寄贈した序文を紹介することで、丹羽五郎の経歴、人となりを紹介します。

 

公一日語りて日く、丹羽家を嗣ぎ、しかしして戊辰役家禄千石を失う。後に必ずこれを挽回せんと、ついに空拳開拓を企て、爾来三十五年、七十五歳の今日に至るまで、早出晚退、終始一日の間断なく独カ奮闘。ついに能く今日の功を奏せらる。
 
その間、障害百出するも、一難を経るたびに勇気百倍し来り、常人の身てもって冒険となし、無理とためすもの、公に在りては日常茶飯事に属し、何等滞るところなく平易に遂行せらるるを常とす。
 
蓋公は精進一番、神人一助の域に達し、全く生死の外に超越せらるるをもってなり。これをもって幾回死生の巷に出入して死せす。古来稀なる亀鶴の齢を重ね来りて、古来稀なる不朽の功業を立てられ、赫々年と共にその光輝を発するものまた怪むに足らざるなり。[1]

 
丹羽五郎は嘉永5(1852)年に会津藩の家老の家に生まれています。しかし、ここにあるように会津藩が戊辰戦争で薩長軍の標的となってしまった結果、丹羽は家財を失うのです。明治23(1890)年にから瀬棚の利別原野の開拓に尽力しますが、それは朝敵との汚名を着せられ、失った丹羽家の誇りを取り戻すためでした。
 

重正、ついに公の古稀を賀せんと欲し、沈吟數日、幼にして公より每朝四書の素読の敎を受けしことや、日新館のお伴をなし、帰途主人の馬に騎りて落ちたる事など、それからそれへと追憶になり、 慕情の感極りて筆を執ること能はず。しかしして止みたりき。
 
今ここ記念祭にいたり記憶を枯腸に探りて、祝福すべきもの七を得たり。重正、これを七福神に擬し、左にこれを列記して寿章に代へ、宴会席上、公から失笑を買はんと欲するなり。[2]

 
ここで引用している序文の筆者・鈴木重正がどういう人物か調べ切れていませんが、「日新館のお伴をなし、帰途主人の馬」という記述を見ると、丹羽家の家臣だったようです。日新館は会津藩の藩校です。『
會津藩校日新館』というサイトがとても参考になります。
 
さて、鈴木重正は丹羽五郎を偉大さについて「七福神」にかけて7つのポイントを挙げています。それぞれどのようなものでしょうか?
 

戊辰役 国藩戦死、約三千と称す。しかしして公万死に一生を得たり。これその一なり。[3]

 
戊辰戦争における会津藩の悲劇と云えば白虎隊が知られていますが、丹羽五郎本人は白虎隊には加わっていません。藩主松平容保が優秀な丹羽を放したくなかったからといいます。それでも、二人の従兄弟を始め丹羽の親族がこの戦い犠牲となりました。丹羽は白虎隊に加わることができなかったことに強い負い目を感じ、生涯を白虎隊の無念を晴らすために送ったようなところがあります。
 

西南役 警視抜刀隊を率て出征。田原坂、木留の凶賊を屠り、弾丸胸に中りて戦袍を貫けども、幸に弾丸はお守札に止まりて傷つくにおよばざりき。これその二なり。[4]

 
丹羽五郎はどんなところでも頭角を現す優秀な男です。戦後、会津に居場所を失うと、名前を田村五郎と変えて東京に出て巡査から警察畑を歩みますが、西南戦争の多原坂の戦いで抜群の軍功を上げます。このとき敵の銃弾が身につけていたお守り札に当たり、命が救われたとのこです。そして丹羽は神田泉橋警察の署長にまで上り詰めますが、多原坂の戦いで命が救われたのは、北海道開拓に捧げるためだと思うのです。
 

開拓の始め 熊出没、人畜を害し人民悶々たり。一夜ー丈熊、厩馬を捕へさると聞き、公単身銃を取り追うてこれを射つ、熊傷に怒りて反撃し来り、公の身ほとんど危し。公連擊、これを射止むることを得たり、これその三なり。[5]

 
帝都の治安を預かる警察幹部となった丹羽ですが、そのまま東京で人生を全うすることは選ぶ道ではありませんでした。警察を辞めて明治23(1890)年に北海道に渡り、瀬棚の利別原野の開墾を始めます。前回、標茶町の名ハンター伊良子藤雄さんのエピソードを紹介しましたが、丹羽五郎も伊良子さんと同じ体験をしているということです。
 

新道開削踏測の際、午餐に当たり、鳥側に来り、 徘徊去らず。公これを憐み弁当を割愛せらる。この日天候急変、風雪山を埋め路に迷ひ、予定の行動を取る能はず。雪寒交々到り、寸歩も致す能はず。たまたま烏あり、何物かを口にし来り、全前に投下して、梢に啼く、その狀言ふものの如し。試みにこれを手にすれば兎股なり。すなわちこれを食して勇気を鼓舞し、ようやく活路を得たりこれその四なり。[6]

 
丹羽五朗が鈴木に語った開拓時代のエピソードです。新道開削工事の監督をしてるときに、野鳥が五郎のまわりを巡りました。五郎も野鳥を憐れんで弁当の残りをあげます。後に、五郎は吹雪にあい、一歩も動けなくなりました。このとき、あの野鳥が現れて五郎を救ったという話です。
 

重正かつて高木盛之輔翁訪問の折、翁日く、丹羽は肺患に懸かり、もう駄目だ。開墾の前途も如何あらんかと然れと。しかれども、公日く、およそ病の治し難きは多く飲食起居、医家の言を守らざるによる。吾はすなわち自らを信じ、自ら行はんと決したることにおいて、一として行い得ざるものなしと。公はその信条をもって能く病を征伏し、心身共に旺盛を加えるはその五なり。[7]

 
丹羽五郎は昭和3(1928)年に77歳で亡くなりました。当時としては大変な長生きです。丹羽の健康の秘密が語られています。「そ病の治し難きは多く飲食起居、医家の言を守らざるによる」とは今の生活習慣病のことでしょう。とても現代的なな感覚の持ち主だったことがうかがえます。
 

長万部海岸において吹雪に逢い、飛雪路を埋め、寸前暗黒、行路を認め難し、時ようやく黃昏強めて步めば、方向に迷い行き倒れとなるの恐れあるをもって、ついに露宿、否、海岸に徹夜の意を決し、防寒のため新聞紙をもって手足身体を覆う心情、おちつけば、睡眠催し来り、堪えべくもあらず。しかれども睡眠の後に来るものは凍死なれば、ー方唾を防ぐと共に一方暖を取るとの二点より、終夜体操を続けて天明を待ち、ことなきことをえたりはその六なり。[8]

 
これも開拓期のエピソードです。長万部の海岸で丹羽五郎はまた吹雪に遭ってしまいました。進むことも下がることもできない。立ち止まれば、睡魔に襲われ、凍死の危険。朝まで体操をして助けを待ったというエピソードです。
 

今春東京において、大患に罹るるや、令姉北村刀自より承るに今度の病気は太郎の看病に無理をなし、疲労せし上、落膽せるおり、発症したることなれば、到底助からぬものと断念しおれり、とのことに茫然自失せしか、間もなく北還せられしとの報に接し、事の意外なるに驚き、その真相を大関榮作氏に問合せたる返書に日く、「旦那様は病は気をもって自ら治し得らるるものと信じえらるるもののごとく、実際奇蹟的に御回復。現に今日拙宅まで御来訪あいなり」云々。実に公の行路には奇跡的に補助ありて、終始これを一貫するもののごとく、いかなる病魔も障害も何等ためす能はずして、その進路は常に坦々砥のごとくならすんはこれその七なり。[9]

 
この本が出版されたのは丹羽五郎が亡くなる3年前です。さしもの丹羽も晩年は寝たり起きたりの暮らしになったのでしょう。重体の報に接し、心配した鈴木重正が問いあわせると「奇跡的に回復」。当時は丹羽ほど高齢の人が元気をの取り戻すことは珍しかったのかもしれません。健康回復を丹羽五郎の偉大さ7番目のポイントにあげています。
 
なお下に出てくる「大熊侯の125歳説」とは、早稲田大学の創立者である大隈重信が「人間は125歳までの寿命を持っている」と語ったことを言っています。
 

公、すでに二百戸の植民を了し、単に家禄を復して宿志に酬いたるのみならず。家族的なる理想的の丹羽村を建設し、大日本帝国の大問題たる人口、糧食の前途に向って活模範を提示せられたることは、祖先神霊の最も喜び、喜みしたまうところならんと祝すべきなり。
 
公の現行、心の欲するところしたがって矩を超わす。右心鐵腸その強壮、年と共に加わわる。大熊侯の125歳説も、公において始めてこれを実現するをえべく、自ら今、公の君国に貢献せらるる功業、蓋測り知るべかざさるものあらむ。重正また自愛加餐、五十年、百年の記念祭に於いて重ねて寿章を献せんことを希う。慎みて無言を述べて序となす。
 
丹羽村開村三十五年記念祭日
岩代田大沼郡旭村 鈴木重生 謹誌 [10]

 
さてみなさま、北海道開拓の偉大なヒーロー・丹羽五郎について概略をつかんでいただけたでしょうか? 次回から5~6回に分けて「丹羽五郎」の自叙伝から偉大な足跡を紹介します。
 

 


【引用出典】
[1][2][3][4][5][7][8][9][10]『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団・79-82p

 
 

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