北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【雄武】田口源太郎 (下)

 

岩野泡鳴

 

道議源太郎と文豪岩野泡鳴

 

陸軍教導団の仲間と漂々隊をつくり、北オホーツで一旗揚げた源太郎は、道議会議員となって開拓に尽力しました。その様子を明治文豪・岩野泡鳴が自伝小説に書き残しています。そこには自然主義文学の大家によって描かれた等身大の源太郎がありました。

 
 

■文豪岩野泡鳴、従者となる

 道議会議員として田口源太郎がオホーツク地域に果たした役割は大きく、道路開削、橋梁架橋、立木払下げ、軽便鉄道敷設速成、国費弁済道路改修並びに変更、漁港修築など多岐に渡っています。なかでも北見十勝連絡道路速成、幌別原野を通じ枝幸を経て網走に達する鉄道の誘致、渚滑士別道路開削、湧別川の根本的治水事業等をおしすすめ地域を水害から救いました。
 
岩野泡鳴といえば、明治大正期を代表する自然主義文学の大家ですが、明治41(1908)年に北海道にロマンを求めて道内を転々としています。後にこの時の様子を描いた『放浪』『断橋』『憑き物』といった自伝小説を発表しています。泡鳴はふとした縁から田口源太郎(作中では遠藤長之助)の道議としての視察に同行(泡鳴は作中では義雄)することになりました。
 

「なぁに、今度道会議員の遠藤長之助君が、土木勧業調査員 として、胆振、日高、天塩、後志、渡島などを巡廻するので、丁度いいから、うちの社長が遠藤君に説き勧めて、君に随行を頼むことにしたんだ。君も、不服はなかろう――費用は、すべて、遠藤君が道庁から受け取る分から出るんだ」
 
という会話から源太郎と泡鳴の2人旅が始まります。札幌の別邸を訪れた泡鳴は、源太郎をこのように見ました。
 
義雄は主人の話し振りや人物に注意した。強いて落ち着いてはいるが、両の肩の上で動く様子が、多少、過激な精神を持っている人と見えた。そして主人は
 
「一緒に行って下さることになると、あなたの評判の自然主義のお説も道々伺いたものですが、馬はどうでしょう」と問う。
 
「それは、なあに」と、義雄は心配させないように答えて、「下手ですが、大丈夫です。子供の時に落ちた経験も二三度ついていますから」
 
「それならけっこう」[1]

 
 

■源太郎の理想

明治40(1907)年代の道議の視察は馬によって行われたようです。源太郎と岩野泡鳴、そして道庁の技官の3人による視察隊は、札幌駅から記者で岩見沢に行き、そこから汽車を乗り換えて日高路を目指し、現在の厚真町で下車。そこから馬の旅となりました。現在の東静内まで来たとき、源太郎はこう言います。
 

「どうです。この辺の田園的風致は! わたしの理想は北海道中至るところにこういう村をあつらえさせたいのです」[1]

 
これに対して泡鳴は「進んで簡単に淡路団来道当時の事情」を語って聞かせます。東静内は、淡路島徳島藩の洲本城代家老稲田邦植の旧家臣546名が開いたまちです。そして岩野泡鳴は洲本城に出仕ししていた徳島藩士の家の生まれだったのです。稲田家が北海道に渡ることになった事情を誰よりも知っていました。
 

「は、はぁ」遠藤は感心して「そういう悲惨なことが原因になって、こういう美し村落ができたのです、なぁ」[1]

 
岩野家は稲田家を監視するように徳島藩から遣わされた家らしく、この稲田家騒動では迫害されたようです。
 

周囲20里、面積1万3200町歩、放牧区域72区、各区をめぐる牧柵の延長70里に逹する大牧場――。高台の放牧地は、天然のままだが、造った様に出来ていて、あたかも間伐したかの如く、樹木がいい加減に合いを置いて生えている地上には、牧草が靑々と育って、実に気持ちのいい景色だ。
 
『あれをみな買おうと思いますが、なア』と、遠藤は物思わしげに云う。
 
遠藤を北見に一大牧馬揚を持っている。それが、昨年不時の大雪の為めに、放牧の馬と共に、一夜のうちにー丈ばかりも下に埋められた。そのまま凍死した馬が多かったが、少数 は積雪の中から首だけ出していたので、辛うじて掘り出すことが出来た。その埋め合せに、一層いい種類の馬を買いたいので、渠は御料牧場をーつにはおもな目的にして来たのだと語った。
 
「人間なら、とても、そんな馬鹿らしい真似はしておりますまいが」と、渠は矢ッ張り凍死した馬どもを思いやる様子をして、「然しそこがまた馬の可愛いところです。いつも人間を信じて、人間の云いなり放題になっておるところへ持って来て、いきなり、ひどい雪に会うたのだから、溜らない。強い奴こそあせって、首だけでも出しておったから助かったものの、弱い奴は丸でもがき死をした様なものだ」[1]

 
 
こんな話ししながら、今夜の浦河の宿に一行は入りました。名士の来着に歓迎会が開かれます。
 

その席で、遠藤は、一場の演説をしたが、その紳士的態度に義雄も少なからず感服して、それに花を持たせるため、義雄自身には融資から頼まれた演説も断った。これは、一つには、北海メール記者とばかり思い過たれるのを好まなかったにも拠るのである。[1]

 
文中の「北海メール」は「北海タイムス」(現在の道新)と思われます。文学者であった泡鳴は北海タイムスの同行記者として源太郎の視察旅行に随伴し、そのレポートをタイムスに送るという任務もあったのです。
 
ここで臨時の道議会が開かれることになり、源太郎は一旦札幌に戻ることなります。そして十勝地方を視察して自分に報告してくれるよう泡鳴に頼みます。
 

■源太郎と様似山道

泡鳴は、十勝から狩勝峠を通って旭川に出て、そこから札幌に戻りました。
 

遠藤は食事中であったから、暫らく義雄を待たせたが、『やア』と、出て来てさし向いになるや否や、『どうだった?』
 
義雄は西舎の牧場で遠藤と西、 東に別れてからの視察を、遠藤の仕事に必要なことだけ、 簡単に語った。浦河から様似に至る山道は、西舎に至るそれと同様、排水用意がしてないので非常に崩れているところがあったこと。
 
冬島村字中山、オホナイあたりには殆ど道という道がついていないこと。また、とてもつけられないこと。各村役場に於いて、農、牧、漁業の状態を取り調べたこと。襟裳岬附近では、雪が降らない為め、最も自由な放牧をやっていること。猿留山道のこと。などは、すべて、遠藤が義雄に託した調査事項であった。
 
遠藤は注意して聴き終ったあとで、
 
「それじゃぁ、どうしても、浦河からさきは本道路はつきません、な―。よし、つけたところで、幌泉までの狭い道でよいのでしょう。日高から十勝の連絡は、あの猿留の難道が厄介物だから、矢ッ張り、浦河支庁の計画線通り、あれをよけて通すより仕かたがない」
 
「そりやァ そうでしょう――あすこをまわる必要はないでしようから」
 
「無論です、な――。時に十勝原野の紅葉はどうでした?」
 
「全盛でした― 。 もう、神居古潭に来た時は遅過ぎたです」
 
「そして、次の旅行はどうなりました?』
 
「道会は一週問で終るのだが、それが済むと、或会社の依頼で北見、天塩(〇国境にある山林を見に行きます。そうこうしていると、もう雪が降り出しますから、なア!―」
 
こう聴くと、義雄はこれで関係がなくなるわけだ。[1]

 
ここで語られているのは「様似山道」のことでしょう。当時の道議会議員は多少強引であったとしても自らの選挙区に事業を持ってくることを使命としていましたが、源太郎はたとえ北海道全体の発展を考え、道議の仕事に邁進していたことが伝わってきます。
 

様似山道

 
一方の岩野泡鳴は、文学者として多少名前が知られるようにはなっていましたが、まだ自分探しの段階で、樺太で事業を思いつくと出資者の紹介を源太郎に求めたり、東京から
 

義雄は云いにくかったが、いっか話した通り、 東京から関係者が一人来ていて、それを病院に入れなければならないからとうち明け、少しまとまった金を借りたいことを述べる。
 
「どなたです?」
 
「なアに」と、少し云いよどんだが、「一人の婦人です」
 
「それはお困りです、なア」と軽く応じて、
 
遠藤は別に深く追窮することもなく直ぐ心よく懷中を開らいて見て、十円札三枚を出し、
 
「只今、 これだけしか御座いませんが、 御用に立つなら、どうぞ」
 
「済みませんが、それでは、出来ますまで― 」
 
『なアに、御心配には及びません」[1]

 
と気前の良いところを見せています。
 

様似山道ルートマップ

 

■議長殴打事件

さて田口源太郎は、この後、義会活動に熱心な余り、道議会史上に残る「議長殴打事件」を起こして失職します。明治42(1909)年当時、道議会議員は札幌の料亭「松月」に拠った「松月組」(道政調査会)と、「丸新」に拠った「丸新組」(同志会)で対立していました。
 
源太郎は松月組に属していましたが、明治42(1909)年の第9回義会で警察経費をめぐる論戦の中、同じ松月組の同僚に暴言があったため、議長は松月組の発言を禁じました。源太郎は議員としての正規の発言を求めましたが、許可されず、議長は無視したまま議事を進行させました。これに怒った源太郎は議長席に突進して議長を突き落としてしまったのです。議場は騒然となり、源太郎は退場を命じられたうえ告訴され、札幌地方裁判所で懲役2カ月(執行猶予2年)の実行判決を受け、議員の席を失います。
 
ちょうどこの時、岩野泡鳴が北海道生活に見切りをつけ、帰京するあいさつに田口邸を訪ねました。泡鳴の『憑き物』はこう記しています。
 

その足でつづいて遠藤の家を見舞った。渠は今検事局の取り調べを受ける身となっていた。と云うのは、今度の道会で、多数党が勝手次第の決議をしたので、少数党の新進弁舌家なる遠藤は義憤を発し、演説壇上に飛びあがって、議長を椅子から引き摺りおろした。そして、殴打罪に問われているのである。たださえ忙がしい人が、またその跡始末でここ二三日滅多に在宅しないと云うので、義雄は巻き紙と封筒を借りて、帰京の日と世話になった礼とを書き残した。[1]

 
源太郎が道議に復帰したのは大正13(1924)年でした。この後、源太郎は興浜線誘致に政治生命を賭けて奔走しますが、陳情の為の上京中に脳溢血で倒れました。そして昭和17(1942)年11月3日、療養中の東京市杉並区で亡くなります。
 
 

■源太郎、房子を射止める

最期に『雄武町史』が語るちょっと面白いエピソードを紹介して閉じます。田口源次郎婦人田口房子とのなれそめのエピソードです。房子は函館遺愛女学校出身のクリスチャンで札幌北星学園創設のクリスチャンとして知られます。この房子を巡って遠軽の地にキリスト教による理想都を建設しようとした北海道同志教育会の会長の信太寿之と争い、房子のハートを射止めたという話が、源太郎の評伝『道政七十年』からの引用として紹介されていました。
 

信太寿之

 

北星高女学校長ニス・シー・スミスの秘蔵弟子に川崎房子といふ才媛があった。日耀日の日本基督教会は川崎房子来るとあって賑はったものである。如何なる幸運児がこのオ媛を獲るものぞ。けれどスミスの監督が厳重なるため擬似クリスチャンも根気がつきて退却したが、頑強なる二人の競争者があった。田口源太郎と信太寿之であった。
 
信太は後年の道会議員で、これは押川方義の子分で、ともかく信者であった。田口は教導団出身の軍曹で北見に漂々隊といって友人等とピストルなど携へて漂白し、農漁業と様々なことに手を出し成功の緒についた男だ。
 
将を得んとすれば馬だ。スミス婆さんの首を縦に振らせるにはキリストを拝まなくてはならぬ。そこで速成の信者となって接近し、信太をはるかに後に見てゴールインしたのである。今の田口源太郎夫人がそれである。源太郎はその後イエス様を拝まない。それもそのはず彼は耶蘇とはおよそ縁の遠い法華だ。[2]

 

 


【引用参照文献】
[1]北海道文学全集 第二巻「漂泊のエレジー」
[2]「雄武町史」1962

 
 

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