北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 
第6章 ウポポイ前身 ポロトコタンの創設

 

■アイヌの生活向上を目指して──3つの抜本対策

 1960(昭和35)年、大昭和製紙白老工場が操業を開始し、1964(昭和39)年には増え続ける学童対策として誘致を進めていた北海道日大高校の開学が決まった。全力を傾けてきた二大事業に目鼻がつくと、浅利義市は大昭和製紙白老工場の立地によって得られた資金をアイヌコタン対策に注ぎ込む決意をする。
 
白老アイヌコタンには大きく分けて3つの課題があった。義市はそれぞれに対して抜本的な対策を打ち出した。
 

  • 一つは、市街地にあったアイヌコタンの狭隘化と環境劣化の問題。これに対して、
  • 風光明媚なポロト湖畔に公園を造成して、コタンの全面移転を行い、近代的な観光地に生まれ変わらせる。
  •  
  • 一つは、観光事業の実権がアイヌ以外に握られ、経済的な利益になっていないこと。これに対して、
  • 観光諸団体を統合し、アイヌの人たちも経営に加えた第3セクター「白老観光コンサルタント株式会社」を設立して観光事業の実権を握る。
  •  
  • 一つは、嘆かわしいアイヌ文化の商業化、通俗化の横行。これに対して、
  • 学術的な裏付けをもったアイヌ民族資料館を建設し、正しい知識の普及と本物の提供を図る。

 
ウポポイ(民族共生象徴空間)の基本的なコンセプトは、ポロトコタンの立ち上げのときに、浅利義市によって確立されていたと言ってよい。 
 
義市は、旧来のしがらみを断ち、新時代にふさわしい観光エリアとしてアイヌコタンを生まれ変わらせるには、この三本柱の実現は不可分で、かつ同時実行しなければならないと考えた。
 

■豪腕町長、不可能と思われた移転を実現

ポロトコタンのオープンで
挨拶する浅利義市(出典①)

 複雑に絡み合った関係者から移転の合意を取り付けるのには大変な苦労があった。白老アイヌの長老、山丸武雄は『浅利義市伝─根性』に次の一文を寄せている。
 
私は白老漁協の組合長をしていた関係で漁港の問題など一緒に陳情に同行したり、自宅にもよくお邪魔したものである。コタンの移転のときも大変な目に会ったが計画したことは執念を持って敢行してくれた名誉町民(浅利義市)には我々は大変にお世話になった。生涯ご恩は忘れません[1]
 
1963(昭和38)年よりポロト湖畔で公園造成が始まり、1965(昭和40)年、アイヌコタンが移転して「ポロトコタン」がオープンした。運営にあたる「白老観光コンサルタント株式会社」には、野村義一、山丸武雄という白老アイヌのリーダーが専務理事として経営陣に加わった。野村義一はアイヌ民族として初めて国連総会で演説を行った伝説の人物である。
 
アイヌ民族資料館はやや遅れて1967(昭和42)年6月「白老民俗資料館」として開館した。白老ばかりでなく全道各地各地から貴重な展示品が収集され、高倉新一郎、犬飼哲夫、横山尊雄といった、北海道史研究、アイヌ史研究野の専門家が指導した(『新白老町史 下巻』550p)
 
新コタンに反発し、旧コタンに残って営業する者も少なくなく、難事業であっただけに決して順風満帆の滑り出しではなかったが、70年代に入ると「ポロトコタン」は安定した軌道を走るようになった。1972(昭和47)年には初めて観光入込150万人を超え、今の「ウポポイ」のように民族共生空間としての期待が膨らんでいった。
 
ところが、1974(昭和49)年3月9日──。浅利義市は役場町長執務室で「アイヌ観光反対」を叫ぶ、和人の22歳に刃物で襲われるのである。
 

■白老町長襲撃事件──浅利にオレが死刑を執行する

 1974(昭和49)年3月9月午前11頃、身長165センチ、学生風の長髪の若い男が白老町役場を訪れ、「町長に合わせろ」と受付に詰め寄った。約束もない不審な男を通すわけにもいかず、案内を断ると、男はいきなり駆けだした。止めようとした職員を振り切り、まっすぐに町長室に向かった。
浅利町長襲撃事件を伝える北海道新聞

浅利町長襲撃事件を伝える北海道新聞(出典②)


浅利義市は出張や外勤で不在なことの多い町長だったが、偶然なのか、入念な下調べがあったのか、この日は町長室で来客対応にあたっていた。男は町長室をドアを開けると、いきなり義市に駆け寄り、ナイフで首筋を切りつけた。身体をひねって致命傷を避けようとする義市。複数の役場職員が町長室に雪崩れ込み、男を押し倒した。直撃を避けたといっても義市の首には長さ13センチ、深さ3センチの傷が刻まれた。全治1週間の軽症で済んだのは奇跡と言うべきである。
 
パトカーと町立病院の救急車がほぼ同時に到着し、騒然とした雰囲気の中、義市は病院へ、犯人は手錠を掛けられ白老警察に連行された。男は右手のナイフ、左手に書状を握っていた。手にしていた書状には
 
浅利町長はアイヌを観光の道具に使って食いものにしている。オレが死刑を執行する[2]
 
という趣旨の文章が書かれていた。
 

■北海道神宮放火事件

 警察で犯人は「Y・T 22歳」とだけ名乗り、一切の供述を拒否した。白老町では前年8月14日から17日まで、若い男が「町長はアイヌを商品化している」との横幕を掲げて座り込む事件があった。この時男は「鳥取県の坂本しんじ」と名乗ったが、「坂本しんじ」が町長襲撃犯と同一人物なのかは未だに分かっていない。
 
警察の調べで男の言う「Y・T 22歳」は正しく、広島市出身の元島根大学生であったことが判明した。Y・Tは1952(昭和27)年1月に広島市に生まれ、1970(昭和45)年に島根大学農学部に入学したが、学校にはほとんど顔を出さず、家にも帰らなくなっため、1973年5月、両親が大学と話し合い、中退の手続きを取ったという。
 
Y・Tは、森永ヒ素ミルク事件を非難する「森永を告訴する会」に所属し、ヒ素ミルク患者の救済活動やデモに参加していた。いわゆる左翼過激派ではなく、市民運動家というべき経歴だった。Y・Tは最後まで口を開かず、札幌地検は3月30日、犯人黙秘のまま殺人未遂容疑で起訴した。
 
Y・Tの個人的犯行かと思われた白老町長襲撃事件だが、1974(昭和49)年11月10日9時40分、北海道神宮本殿が何者かによって放火される事件が起こった。ご神体はなんとか持ち出せたものの、1889(明治22)年に造営された由緒ある本殿、祝詞殿、内拝殿が全焼した。
 
11月12日、北海道新聞に「アイヌモシリ」と名乗る組織から犯行声明が届き、北海道神宮を「カムイを冒涜する者」として非難し、白老町長襲撃事件の犯人Y・Tの即時釈放を求めていた。放火事件の捜査は難航、未解決事件となってしまいY・Tとの関係は不明である。
 

■成長から取り残された白老観光

 二つの事件は、連合赤軍事件など、70年代に左翼過激派と呼ばれる人たちが起こした一連の事件の一つとして処理されているが、70年代になってアイヌの一部若者や和人支援者から「観光はアイヌを見世物にすることだ」「観光はアイヌ差別・人権侵害」との声が上がっていたことは事実である。Y・Tの犯行はこうした動きに触発されたものと考えられている。
 
白老町長襲撃事件の翌日、さっそく北海道新聞は3月10日の朝刊に「問われるアイヌ観光」という解説記事を掲載している。そこには次のように述べられている。
 
9日昼、胆振管内の白老町で「アイヌの観光を売り物にするな」という文書を持った男が、執務中の浅利義市町長を刺した事件は、同じようなアイヌコタンの観光地を抱えた道内各地にショックを与えている。
 
ここ2、3年、アイヌ問題が議論されるたびに「観光とアイヌ」はアイヌ系住民と和人との関係ばかりではなく、アイヌ系住民内部の問題として告発され、あるいは反省の材料とされてきた。また黙秘している犯人の行動には当然「許せない」という声が圧倒的だが、アイヌ観光についての受け止め方はさまざま。
 
また、これとは別に、下火になりかけたアイヌ問題にまた火を付けた最近の一連の事件の背景に首をかしげる人もいて、犯人の背後関係がわからないだけに各方面に複雑な反響を呼んでいる。[3]
 
アイヌコタンの実権を奪い返すために設立された「白老観光コンサルタント株式会社」は、事件のあった1974(昭和49)年の9月に「使命は達成された」として年度内の解散が決められた。
 

白老町観光入込推移(1968-85)

伸び盛りの白老観光は冷水を浴びせられたかたちになった。下のグラフは1968(昭和43)年から1985(昭和60)年までの白老町の観光入込を示したものである。1968(昭和43)年まで白老の観光は急成長を遂げたが、白老町長襲撃事件のあった1974(昭和49)年を境に成長は鈍化する。北海道の観光は右肩上がりの成長を続るなかで、北海道を代表する観光地であった白老は取り残されていった。
 
北海道ではアイヌ観光を前面に打ち出すことに躊躇が広がる。事件までアイヌの人々をモチーフにした観光ポスターがどこでも見られたものだが、事件の記憶、アイヌ支援者たちの抗議を恐れて、どこもアイヌ民族の扱いに慎重になっていく。敬遠ムードの中で、阿寒アイヌコタンや旭川近文コタンなど、道内アイヌコタンも北海道観光の主流から外れていった。
 

■何が差別か 何が共生か

 アイヌ観光は、アイヌ自身の手によって創り出されたビジネスであるにもかかわらず、70年代から80年代にかけて、一部のアイヌと多くの和人支援者たちから激しい攻撃を受けた。
 
アイヌ観光は差別である──というアイヌ支援者たちの主張は、結果としてアイヌから観光業という所得向上のための最大の手段を奪うことになった。アイヌ支援者たちは、アイヌと和人との経済格差が民族差別の表れとして攻撃する一方で、観光という生活向上を図る具体的手段の存在を認めなかったのだ。
 
1974年に浅利義市を襲った襲撃事件は、過激派の起こした事件のひとつとして、全く存在しなかったかのようにアイヌ史から削除されてしまい、今もって検証されていない。そのことによって私たちは、アイヌ観光は差別なのか、何が差別で、何が差別ではないか、という問題を考える機会を失った。
 
2019年、アイヌ政策推進法が制定された。そして2020年には「ポロトコタン」を引き継ぐかたちで、「ウポポイ(民族共生空間)」がオープンする。1997(平成9)年制定のアイヌ文化振興法に基づいて打ち出された「伝統的生活空間(イオル)の再生事業」を受け継ぐものだが、アイヌ文化振興が高らかにうたわれている一方で、アイヌ観光をどう位置付ければ良いのか、いまだに霧に包まれたままだ。
 
今日、ウポポイを関わるピーアールに浅利義市の名前はまったく登場しない。しかし、もし浅利義市が昭和22年に白老町長になっていなければ、彼が誘致に成功した大昭和製紙白老工場が白老にもたらした豊かさとともに、ウポポイが誕生していなかったことは明らかだ。
 
民族共生空間はアイヌ文化だけが世界に発信される場であるはずはない。浅利義市、満岡夫妻……、民族の共生と名乗る以上、白老の発展に尽くした人々、アイヌ文化を護った和人たちの功績も、同時に発信されていくべきではないだろうか。(終)
 

 

【参考文献】

『新白老町史』1992・白老町
[1]『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
『札幌日本大学学園 創立50周年記念誌』2013・札幌日本大学学園
【写真図版出典】
①『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
[2][3]②『北海道新聞縮刷版』1974・北海道新聞社

 
 

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