北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【雄武】田口源太郎 (上)

 

添田龍吉(出典①)

 

陸軍教導団の無念と漂々隊の活躍

 

今回紹介するのはオホーツク管内雄武町の開拓功労者、田口源太郎です。『雄武町史』(1962)は「雄武の開拓事業の先駆者であるとともに政界にも勇名を馳せ、いくぶん伝説化されながら今に語り継がれている田口源太郎」と筆を起こしています。開拓排斥のなかで忘れられてしまいましたが、昭和の前半まではオホーツクでは誰もが知る伝説の人物でした。

 

■陸軍教導団

田口源太郎は慶応2(1866)年に岡山窪屋郡管生村に生まれました。もともと田口家は瀬戸内海の水軍で源平の合戦で源氏に付き、壇ノ浦の合戦で源氏が勝利した最大の功労者であったといいます。初代は軍功により岡山県壺屋郡に領地を賜り、田口家を起こしました。源太郎は少年時代から、壇ノ浦の合戦で祖先が活躍する様子を描いた『日本外史』を読み聞かされて育ったといいます。
 
「彼は少年期から田口の家系の最高を夢見たが、『日本外史』は、その後の軍人志望、渡道の動機、大規模な開発事業、政界進出など生涯を通じての指標となり、子息達にも素志を吹き込もうとしたものと思われる。未開発の雄武はその格好の舞台であった」
 
こうのような育ちをして青年になった源太郎は軍人として身を立てようと、海軍兵学校、陸軍士官学校を受けましたが、体格が基準に達せず、いずれも不合格となります。それでも軍人への夢は断ちがたく、横浜で代用教員をした後に陸軍の「教導団」に入団しました。
 
陸軍教導団は、明治3(1870)年、教導隊として大坂の兵学寮内に置かれた下士官の養成機関です。明治5(1872)年に教導団となって東京に移されました。修学年限は12カ月で、卒団後は伍長になることができました。さらに成績優秀者は、試験の上、陸軍士官学校への入学が認められていました。源太郎の入団した動機も士官学校への再挑戦でした。
 
しかし、中途半端な位置づけからか、陸軍の中で存在感を次第に失い、志願者も減り、ついに明治32(1899)年に廃止されてしまうのです。不運な兵隊学校でしたが、卒業生達は逆に強い連帯感で結ばれていました。
 
源太郎は、卒団とともに名古屋鎮台に配属され、さらに弘前に移って1等軍曹に昇進しました。しかし、教導団の存在感が薄くなるとともに、教導団出身者は陸軍の出世コースから外されていきます。陸軍人になったものの、士官学校への道も、昇進の道も大きく制約された源太郎は、陸軍を辞めて北海道開拓に情熱を傾けることを決意します。
 
 

■漂々隊のオホーツク開拓

教導団出身者には源太郎と同じ気持ちを抱く者が多く、陸軍に見切りをつけ北海道に渡った者も多数にのぼりました(こうした歴史は研究されていないと思います)。新潟出身の堀川泰洋も教導団の出身で、明治23(1890)年、27才で軍隊を辞めて北海道に渡り、オホーツク紋別の渚滑川流域を有望と見て、教導団で習い覚えた測量術を駆使し、渚滑平野の区画測量をすすめ1000町歩の未開地の貸下願いを道に出しました。あまりの面積の広大さに道の担当者を驚かしたといいます。
 
翌年、貸下げが認められると堀川泰洋は教導団の同志である田口源太郎と野津幾太郎、賀上熊之助を呼び寄せました。『雄武町史』はこう言います。
 
「いずれも一騎当千のつわもたちが、陸軍の檻から放たれたのであるから、その豪放闊達、奇言奇行ぶりでたちまち紋別の名物男の一団となった。この四人のグループが即ち「漂々隊」である。 泰洋は野津を水産学校出身という触れ込みで又十藤野に使ってもらうことにしたが、又十の支配人も敬意を表して、カンピ(帳場あるいは監督)にして月給も過分に支給することにした。ところが当の野津は気位ばかり高く、ヤン衆に向かって兵隊に号令をかけるような態度であったから、支配人も閉口したという話しは、いかにも漂々として漂々隊の面目躍如たるものがある」[1]
 
 
陸軍教導団の4人は「漂々隊」というグループをつくって共同して渚滑原野の開拓に乗り出しました。その派手な活躍は、オホーツクの話題をさらったようです。まもなく漂々隊のメンバーは、野津幾太郎は湧別方面、賀上熊之助は鉱山事業、そして源太郎は雄武で漁業と担当を分けました。この間の事情を『雄武町史』が引用する「田口源太郎略伝」はこう述べています。
 
「ある年のこと、アキアジの大豊漁で、今のカネにして数百万円の利益を上げた。そこで漂々隊を解散して、お互いに独立して事業を進めることに話が決まり、財産を三分した。ここで田口氏の事業への情熱は急激に燃え広がったのである」[1]
 
こうして源太郎は雄武に移住しますが、行ったのは漁業だけではありません。源太郎はアイディア豊富な事業家で、こんな事業がヒットしたといいます。
 
「雄武に来た当時は、アイヌにならって石北国境の山中に入って鷲を獲り、その羽を東京に持っていって金にした。上等のものはボンネットの飾りに、悪いものは羽ペンとして面白いように売れた。捕獲法はアキアジをエサにして罠をかけ、雪の上に白い毛布をかぶって隠れているのだが、かかれば鷲の足を引っ張って生きたまま羽を抜くというもので、雄武に入地以来3年間ほどこれを続けた。その後事業が伸び、多忙になってやめたが、彼は晩年に至るまで当時を追想し、その楽しさを語って飽きることがなかった」[1]
 

■源太郎、道議会へ

明治34(1901)年に北海道会法と北海道議会選挙例が発布され、遅ればせながら北海道にも地方議会による自治制が敷かれると、源太郎は北海道議会議員として地域の発展に貢献します。
 
「当時議員は名誉職で、いずれも志士を持って認じ、それを誇りとした。任期は3年。 議員も政党意識よりも水産側は海派、農業側の陸派と別れて抗争するという初歩的な段階であった。この第1期の道会に田口は補欠選挙で登場したといわれるが、その詳細は不明である。第二期の総選挙は明治37(1904)年8月13日3区16支庁管内で行われた。その結果、網走支庁管内は定員2、有権者871名に3名立候補し、田口源太郎は39票(原文のママ)を獲得して当選した」[1]
 
開拓途上の明治北海道にあって、限られたリソースをどのように振り向けるか、道会議員には今とは比べようもない地域の期待感があったようです。第1回義会選挙、第2回義会選挙は、地方議会の意義が住民に認知されておらず、とくに網走管内ではほとんどの住民が開拓の重労働に追われて選挙を顧みるゆとりはありませんでした、
 
しかし、開拓が進み地域でのまちづくりがすすんで、北海道においても代議制民主主義の意義が知られていくと、地域を発展をかけた争いとして、代表者による激しい選挙戦が戦われるようになります。
 
明治40(1907)年8月の第3期選挙では、網走管内定数2に対して、現職の源太郎、古屋憲英のほか、前田駒次、信田寿之、飯田嘉吉、高野庄六が名乗りを上げました。
 
このうち前田駒次は坂本龍馬の甥である坂本直寛とともに北見を開いた北光社のリーダーとして、信田寿之は遠軽の開基となった学田農場を開いた北海道同志教育会の創設者として著名ですが、高野庄六は紋別の海運事業家です。すなわち「海派」の代表として選ばれたのでしょう。
 

■飯田嘉吉の立志伝

飯田嘉吉は「北海道開拓倶楽部」としては注目すべき人物ですので、明治39(1906)年の北海道庁の「移住成績調査」から来歴の概略を簡単に紹介します。
 
嘉吉は明治5(1872)年、徳島県那賀郡長生村の農家の5男に生まれました。明治24(1891)年に実家が水害にあたったことで故郷を出ることを決意し、はじめ道南の長万部に入ります。ところが
 
「出願許可地の全部は旧土人給与地にして全部返還するのをやむを得ざるに至れり」[2]
 
となって新たに土地を求めます。横道にそれますが、旧土人保護法によるアイヌ人給与地ですが、和人によって不当に奪われたなど悪しき話題が聞かされますが、逆に和人入植者の土地が取り上げられる例もあったことは覚えておきたいものです。
 
入植地を取り上げられた嘉吉は、いったん歌棄郡作開村(現寿都町)の農場で小作となって働き、資金を貯めます。明治31(1898)年、オホーツク紋別の渚滑原野に長万部時代の仲間7戸とともに移りました。
 
「当時の渚滑原野は区画測定したるのみにして樹木多く地上一面に笹密生して歩行自由ならず。交通不便を極めたり。嘉吉は同行者とともに地形を案して28線において6万坪の貸付を受け、直ちに18坪の草小屋を建設し、雇人4名を入れ、ともに開墾に着手し、翌31年には6町歩余をを新耕し、主に玉ねぎ、麦、小豆等を作付けしたる」[2]
 
こうして嘉吉は原生林に分け入り、拝み小屋からの開拓を始めますが、すぐに悲劇が襲います。
 
「8月、渚滑川出水に際し、多大の損害を受け、麦類少量を収穫したるのみにして、他は悉く腐敗したり。食糧は皆紋別より購求せしが、この時にいたり資金欠乏をきしたるも、千辛万苦、糊口を凌ぎ、翌32年11町歩を余りを開墾作付けし、相当の収穫を得、さらに数回に未開地14万44117坪の貸付を受け、雇人とともに勉励したる結果、漸次多少の余裕を生ずるにいたれり」[2]
 
渚滑川の氾濫によって開拓の成果が洗い流されるという悲劇に見舞われるものの、これに耐えて開拓を成功させ、さらに馬産に転進して財を成すのです。「移住成績調査」はこう締めくくっています。
 
「故郷出発の際は多少の資金を携帯せしも、他の災害に遭遇して資産の全部を消費し、あるいは洪水のため多大な損害を被りたりも、忍耐よく精勤し、ついに今日あるにいたれるもの実に異常の成功と言わざるべからず。 性堅忍温和にして質素を旨とし、村総代に挙げられて精勤すること数年、今村会議員の公職を帯び、もっぱら公共のために尽力する」[2]
 
さて第3回同会選挙は、雄武、北見、遠軽、紋別の海派と陸派が網走の議席2を巡って激しい選挙戦が繰り広げられました。選挙当日、洪水のために投票不能となった部落が出たので投票が延期になる事態もありましたが、開票の結果、前田駒次363票、田口源太郎282票となり、源太郎は議席を維持しました。
 


【引用参照文献】
[1]「雄武町史」1962
[2]「移住成績調査」1906・北海道庁

 
 

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