北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[美瑛町] 小林 直三郎

 

小林直三郎(出典①)

 
北海道各地「草分けの人」、今回は「丘のまち」美瑛を紹介します。明治初期、北海道には西洋型近代農法を実現しようとする野心家、米国のピルグリム・ファーザーズを北海道で実現しようとしたキリスト教徒がフロンティアの二大潮流をつくりますが、これらの人々が同時期あらわれて拓いたのが美瑛でした。美瑛の北海道らしい魅力は、実はこうした北海道開拓の象徴ともいうべき起源にあるのではないでしょうか。『美瑛町史』(1957)よりご案内します。
 

 
■米国式農業を夢見て

明治20年道庁権属福原鉄之輔により上川原野の殖民地選定事業の成就されたことはさきに述べたが、これにもとづき、同27年道庁技手千葉良作の一行、約20名(中にアイヌ族5~6名を交えていた)が殖民区画設定のために来り、数カ月滞在の後、区画数462面積576万4233坪を決定し、帰庁した。これでいよいよ移住民入地の前提はととのえられたわけであるが、その時、第一陣に入地したのが兵庫県人小林直三郎であった。
 
彼は、この前年(明治27年)9月15日、雇人3名を伴い、辺別原野に来たのである。従って彼は美瑛における入地第1号であり、草分け(狭義)となるが、しかも他の保護移民とはもとより、自由移民とも撰を異にし、初めからここに北米式大農場を建設せんとするいわば理想移住者とも言うべきものであったのである。
 
すなわち彼は、明治23年頃、カナダおよびアメリカ合衆国に遊学して農牧業を研蹟した。
 
帰朝後、この北米式農牧業を日本で試みるべく、資本金6万円(当時の貨幣価値よりすれば、少くもこれを1500倍じて推算せよ)の合資会社を組織し、事業地として、本道を選定したのである。
 
そこで27年、早々同志、浜本久八郎(姫路市の本社業務担当者)と共に渡道して、各地を視察した末、5月下旬、忠別原野に来り、この地を最適地として貸下の手続をとった。
 
しかるに右選定地が、たまたま屯田兵村の追給地に編入せられていることがわかり、己むなく変更して、辺別川河畔に適地を求め、予定存置の手続を終了して帰国した。そして万般の準備を整えた上、雇人3名と辺別川河畔に入地して来たわけである。
 

■陰森蒼涼たる〝丘のまち〟

この時、河畔に立って、いまの旭農場のあたりを見渡すと
 
「一望茫々たる草原には萩、芒等の秋草いまをさかりと咲き乱れ、また古来嘗て斧斤の痕なき諺蒼たる樹林こもごもその前途を擁して、殆んど方向さへも弁ずる能はざる状なりき」
 
と彼はその著『剰嵯だより』に書いている。
 
幸いにも付近に土人の漁舎を発見して一夜をそこに明かし、
 
「翌16日倉皇木を伐り、丸太を組み、葡萄蔓を結びて縄に代え、芒、蕗の類を蔽ひて僅かに雨露をしのぐべき仮小屋を建つるこどを得たり」。
 
かくして第二夜は、その仮小屋の中で過ごしたのである。
 
なお同書にいうところによれば、入地を9月にしたのは「あらかじめ冬期における気候を経験」すること、および「明春移住せしむべき小作人のために必要なる準備をなさんがため」であったと、農場経営者の細心と用意のほどを語っている。
 
もちろん旭川からここに来るまで4里の間には、ほとんど人影なく「ただわずかに御料地の一部に春来移住せる小作人数戸ありしのみ──まことに陰森蒼涼たる当時の様が思われるのである。
 

キカラシ畑と哲学の木(出典②)


 

■不良入植者、事務所を襲う

この時彼が貸下を受けたのは、畑目的85万1000余坪、牧場目的48万9000余坪で、一応の下準備が出来るとともに翌28年3月、まず兵庫県下より第1回の小作入を募集した。
 
渡道費、小屋掛費、農具費、米味噌等を貸与し、畑地5町歩を配当して開墾小作せしめるというのであるが、募集を周旋屋に任せたため、質のよくない者も中にあり、話にもいろいろ食違いがあって紛争を起した。しまいには事務所の来襲騒ぎまで起し、彼の熱心な慰留も効なく、同年6月、35戸の小作人のうち、18戸の退去者を生ずるに至った。
 
農場では、この年5月、野火のため小屋3戸を焼失し、いままたこの小作人の大量退去に会して、御難つづきであったが、彼はいささかも屈することなく、新式の農具を入れ、「耕馬及び開墾機械貸与規則」を設け、4戸を1組とし、これを貸付けて開墾を勧奨したのが成功して、小作人も漸く落ち付きを取りもどして来た。
 
その後、道内から小作人の募集などして、20余戸の小作人は、絶えず農場内に現住して居たが、ただややもすれば土着心が薄く、飲酒賭博等の悪風もあるので、これを矯正すべく、31年10月「旭農場共同貯蓄規定及び申合規約書」を作り、励行せしめることにした。農場より土地若干を無償貸付し、小作人が共同耕作して、それから得られた収入を貯蓄し、天災、疾病等の場合における救済と、併せて共同事業の資本に充てようというのである。
 
また小作人の子弟に対しては、夜学を開いて、管理人が自ら教育にあたる等で、弊風も漸く跡を絶ち、小作人の移動もまた無くなった。
 
苫小牧より南部産雑種牝牛4頭、札幌農学校農園よりホルスタイン牡牛1頭、牝牛2頭を購入して、牛舎を建築し、牧草を播種し、蕃殖と改良をはかるとともに、川添町八に支場を置き、33年にはさらに近文1線1号区画外にこれを移し、同年本場に接続する丘陵地190万坪を放牧地として貸付を受けた。
 

■キリスト教の理想的農場を作らん

 

三沢藤助

三沢藤助(出典③)

 
記述は再び明治28年(1895年)当時にかえる。
 
この年2月、小野怛が、美瑛原野1線より4線に至る間において、200町歩の土地貸付の指令を得た。この小野はキリスト教の伝道師で、その信者のみの理想的農場を作らんとして、この企に出たものである。
 
この時彼が頒布した農場開設趣旨書を見ていたく感激し、さっそく美瑛原野に開墾の鍬をふるわんとしたのが、山形県人三沢藤助で、単身渡道して旭川に至り、そこから小野の雇人小出良蔵ほか1名と、少しばかりの食料、器具等を携え、目的地に向って出発したのである。
 
時は明治28年3月29日、当時西御料地第17線までは名のみながら道路があったが、それから先は全く荒野で、荊棘と樹林を踏みわけて行くの外なく、ようやく辺別川の岸までたどりついた。そして魚釣りが宿ったと思われる小屋を見付つけて一宿した。
 
この小屋は前記、小林直三郎が雇人3名とともに前年9月に宿泊した漁舎と同じものではあるまいか。美瑛川とはちがい、硫気のない辺別川には、魚族が棲んでいたろうから、アイヌたちが作って共用していたものかも知れぬ。
 
翌30日、起出で見れば淡雪が降っている。その上を踏みながら、美瑛3線南8番地の、通称平蔵と呼ばれた小野の雇人が、建てかけた開墾小屋に到着することを得たのである。
 
 
※こうして美瑛の開拓が始まります。今、北海道の中でも内外のあこがれを誘う美瑛が、アメリカ式近代農業を実現すべく北米大陸から帰朝した小林直三郎と、キリスト教による理想郷の建設を夢見た小野怛、三沢藤助という理想主義開拓者によって拓かれたというのは感慨深いものがあります。
 
とはいえ、(毎度のことながら)美瑛町のホームページに彼らの名前を探してもまったく出てきません。美しい「丘のまち」、ラベンダーのまち、美瑛として知られていますが、こうしたフロンティアスピリットあふれる開拓者によって開かれたまちであることをつけくわえると、美瑛の魅力はもっと増すのではないでしょうか。
 
今回は〝草分け〟のところだけ紹介しました。これらの開拓者、中でも小林直三郎は北海道開拓史の重要人物ですので、機会を改めて紹介したいと思います。
 

 

 


【引用出典】
『美瑛町史』1957・美瑛町・61~64p
【写真出典】
①③『美瑛町史』1957・美瑛町・61~64p
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