北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (1)

日本を救い、徳川を救う 徳川慶勝の戦い

 

渡島管内八雲町・八雲町は徳川御三家筆頭・尾張徳川藩により拓かれました。主従の強い繋がりによって進められたこの事業は士族開拓の模範例として讃えられますが、尾張藩が北海道に進出した背景には徳川家一門を薩長政府から救うという強い動機がありました。
 

■士族授産問題

慶応3(1867)年10月の大政奉還、明治2(1869)年6月の藩籍奉還によって家禄を削減された士族は、生活に大きな打撃を受けるようになりました。明治4(1871)年の廃藩置県とともに士族の家禄は明治政府が保証することになりましたが、このため国庫の負担は増大し、新政府を圧迫しました。明治8(1875)年7月に、明治政府は家禄奉還を一時差し止め、翌9年8月には家禄・賞典録を全廃したため、士族の授産が社会的な大問題となりました。
 
尾張徳川家は徳川御三家の筆頭であり、諸大名の中で最高の格式を持っており、表石高は61万9500石という大藩でした。幕末には御目見以上2368人、御目見以下281人の藩士を抱えていたといいます。明治になってこれら家臣の授産が問題となったのは徳川御三家筆頭であっても同様だったのです。
 
こうした問題以上に、尾張徳川家には御三家筆頭ならではの切迫した事情がありました。

 

名古屋城天守①
城の管理が疎かになった維新後の写真

 
 

■紀州と尾張の相克

尾張藩では、後継ぎがいなくなると美濃高須藩松平家から養子を迎えることが慣例として行われてきました。享保元(1716)年、尾張徳川家のライバル紀州徳川家の徳川吉宗が将軍職に就くと、吉宗の血を引く歴代の将軍は尾張家につらくあたります。
 
尾張徳川家9代・徳川宗睦は世継に恵まれませんでした。幕府は慣例であった須藩松平家から世継を迎えることを許さず、寛政11(1799)年、吉宗の系譜を継ぐ御三卿一橋家の一橋斉朝を後継者に指名しました。この後13代まで紀州徳川家の系譜の藩主が続きます。
 

徳川慶勝②
文久元(1861)年9月撮影、ハイカラな慶勝は日本で最も早く写真撮影を行った費一人で
この写真は慶勝自らが被写体となって家臣に撮らせたもの

  

嘉永2(1849)年、こうした中で14代尾張藩主に就いた徳川慶勝は、50年ぶりに高須藩松平家から迎えたプロパーでした。
 
高須藩の10代目当主松平義建は子だくさんで、優秀な子どもたちを有力家に養子に出しました。このうち次男が尾張家14代当主・徳川慶勝であり、5男・松平茂徳は後に一橋徳川家10代当主となり、6男容保は会津藩9代藩主、8男定敬は伊勢国桑名藩13代藩主となります。
 
この4人はそろって幕末維新で活躍したことから「高須4兄弟」として知られます。
 

徳川茂徳③
文久3(1863)年頃撮影

松平容保④
文久2(1862)年冬に撮影

松平定敬⑤
文久2(1862)年頃撮影

 

■徳川慶勝の謹慎と復活

長い間、吉宗系列の藩主押し付けられていた尾張藩で慶勝は熱狂的に迎えられました。藩内の強い支持に背を受け、慶勝はペリー来航から始まる幕末政局で積極的に行動します。しかし、水戸藩の前藩主斉昭とともに大老井伊直弼の政治責任を追及したことが反感を買い、隠居・謹慎を命じられてしまうのです。安政5(1858)年、世に言う「安政の大獄」です。

 

尾張藩では、高須藩松平家から慶勝の弟茂徳を迎えて15代藩主としました。ところが安政7年の「桜田門の変」で義勝を謹慎に追い込んだ井伊直弼が暗殺されます。これで義勝の謹慎が解けると、元治元(1864)年、茂徳は兄に遠慮して義勝の子である義宜に16代目尾張徳川家藩主の座を譲りました。
 
この後、茂徳は幕府の重臣として徳川慶喜らとともに幕末の政治に活躍し、慶喜の信頼を得ました。慶喜は水戸家の出身ですが、弘化4(1847)年に世継の絶えた一橋家の養子となって家督を継ぎました。
 
慶応2(1866)年、慶喜が第15代将軍に就くと、茂徳が一橋家当主を継承しました。戊辰戦争では茂徳は徳川一族の代表者格として薩長政府と交渉に当たります。
 

慶勝が暮らした二の丸御殿の幕末期⑥

 

 

■明治維新 影の功労者

尾張徳川家では16代義宜が藩主となりましたが、このときわずか6歳。実権は隠居から復帰した慶勝が握りました。こうした経緯から徳川御三家の筆頭でありながら尾張徳川家は尊皇攘夷派の旗色を強めます。
 
復権後の慶勝は度々京都に上洛して幕末の京都政界で活躍します。もともと慶勝は、吉宗の血統が将軍職にある江戸幕府には批判的で、元治元(1864)年、雄藩の最高実力者からなる預会議への加を命じられますが拒否しました。
 
この年、第一次長州征伐が行われると慶勝は討伐軍総督に命じられます。長州藩が早々に休戦を求めると、慶勝は厳罰を命じる幕命に反して長州藩に寛大な処置を行いました。このことで長州藩の勢力が温存されます。慶応2年の第二次長州征伐では、慶勝は再討伐に反対し、弟の茂徳の征長総督就任も拒みました。
 
一方幕府では慶応2(1866)年12月、一橋家出身の一橋慶喜が最後将軍に就きます。これで尾張徳川家の長年のライバルであった紀州徳川家の血統は断たれ、慶勝の実弟茂徳が慶喜の跡を継いで一橋家を継いだように尾張徳川家と一橋家は強い友好で結ばれていきます。
 

徳川慶喜⑦
慶応3(1867)頃撮影された最後の将軍

 
慶応3(1867)年、15代徳川慶喜により大政奉還が行われると、慶勝は上洛して徳川家サイドから王政復古を推進していきます。この働きが認められ、大政奉還後に慶勝は新政府の参議となります。しかし、薩長勢力が実権を握る新政府では徳川宗家に対して強硬論が高まります。新政府のなかで慶勝は徳川宗家の擁護に努めました。
 
慶勝は、薩長政勢力と旧幕府勢力との対立を必死に抑えていましたが、慶応4(1868)年1月ついに京都の鳥羽・伏見で両勢力の激突が起こり、戊辰戦争へと発展します。そして慶勝は責任を取って謹慎生活に入りました。
 
慶応4(1868)年1月、謹慎中の慶勝に対して薩長政府は「姦徒誅戮」の命令を下します。これに従い尾張に戻った慶勝は藩内に残る佐幕派を粛正、さらに東海道・中山道沿線の大名・旗本に使者を送り、新政府への恭順を説きました。
 
幕末の戦乱のなかで、江戸で大きな戦乱が起こらず、江戸城が平和裏に新政府へ明け渡されたことで勝海舟の功績が称えられますが、実際ところ徳川慶勝の功績が大きかったのです。
 
しかし、幕末維新史で徳川慶勝の功績はあまり評価されません。なぜでしょうか?
 

■「高須4兄弟」の助命に奔走

「高須4兄弟」の1人で慶勝の弟の松平容保は、弘化3(1846)年に会津藩主の松平家に迎えられ養子となり、嘉永5(1852)年には9代藩主となっています。
 
松平容保は幕末の政局では京都守護職として徳川政権の維持に腐心します。尊皇派の志士を多数の誅殺した新撰組も松平容保の指揮下にあり、松平容保は尊皇攘夷派の仇敵とされました。
 
戊辰戦争が起こると松平容保は徳川慶喜に請われて行動を共にして家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲りますが、会津藩は新政府軍と激しく戦いました。戦争は薩長政府の勝利で終結。松平容保は朝敵とされ、処分を待つ身となりました。このとき慶勝は弟の救命に尽力しました。
 

 

会津若松城天守⑧
明治元年から7年の間に撮影された。戊辰戦争で官軍の砲撃を受けた痕跡が残っている

 

「高須4兄弟」の末弟・松平定敬は、幕末の政局で兄松平茂徳とともに徳川慶喜と連携して行動し、戊辰戦争では江戸城で勝海舟ら恭順派と対立する徹底抗戦派の筆頭として活動していました。
 
最終的に勝海舟ら恭順派が城内で主導権を握ると、定敬は江戸を逃れて仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ。箱館戦争の終結前に従者と共にアメリカ船に乗り、上海に渡りますが、これ以上の逃亡を断念。明治2(1869)年、帰国して新政府に出頭しました。この弟の助命にも慶勝は奔走しています。
 
鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長軍は、これから本格化する戦乱=戊辰戦争で罪を問うべき敵を5等級に分けました。第一等はもちろん徳川幕府の首領・徳川慶喜ですが、それに次ぐ朝敵第二等に「会津藩」「桑名藩」が挙げられています。いずれも藩主は「高須4兄弟」であり、徳川慶勝が助命に奔走した実の弟2人ででした。
 

■姦徒誅戮 青松葉事件

薩長土肥という地方勢力が強大な幕府に打ち勝つことができたのは、御三家筆頭の尾張徳川家が尊皇攘夷派に好意的だったことが大きな要因だったと評価されています。しかし、慶勝は薩長政権から見れば徳川の人間。まして弟2人は朝敵第二等です。慶勝は薩長政権に目に見えるかたちで忠誠を示さなければなりませんでした。
 
江戸城無血開城後、江戸で謹慎していた慶勝に新政府は藩内の「姦徒誅戮」を命じました。慶勝が中央政治に携わっている間、尾張藩内では慶勝の子で16代当主である徳川義宜を担いで幕府側に付いて薩長と対立しようという動きが高まります。薩長政権は命令はこの動きを懸念したものでした。
 
慶応4(1868)年1月20日に尾張に戻った慶勝は佐幕派の筆頭で家老の渡辺新左衛門ら3名に斬罪を命じます。この事件では家臣14名が斬罪、禁固・隠居に処せられた家臣は20名にのぼりました。渡辺新左衛門の別名が「青松葉」だったことから「青松葉事件」と呼ばれます。
 
この事件の背景は複雑で、「安政の大獄」で慶勝は隠居を命じられ、弟の茂徳が一時的に藩主につきますが、茂徳に付き従った一派が勢力を持ち、国事に奔走する慶勝の留守に勢力を拡大していたことも大量処罰につながったとされています。
 

■尾張徳川家当主に再承

慶勝の子で16代藩主の義宜は病弱で、明治8(1875)年、18歳で病没しました。この時、政府は士族への家禄廃止に向かって動いており、大藩として多くの家臣を抱えていた尾張藩旧家臣を納めることができるのは、慶勝以外は考えられません。慶勝は尾張徳川家17代当主を再承するのです。そして翌年には謹慎の解けない徳川慶喜に代わり、徳川一門の宗主となるのです。
 
明治11(1878)年、慶勝は、新政府に目に見えるかたちで忠誠を示し、維新政治に不満をいただく家臣を鎮めて、授産の道を拓くのは北海道開拓であると決意します。もちろん、幕藩時代から明治へ時代を動かした中心人物の1人として、北方から迫る欧米列強の脅威から日本の独立を守るには北海道開拓が急務であることを誰よりも深く認識していた慶勝ならではの決断でした。
 

 

高須四兄弟⑨
明治11年9月に撮影された慶勝兄弟。
左から定敬(33歳)、容保(44歳)、茂徳(48歳)、慶勝(55歳)。
激動の時代を生き抜いた兄弟が再会を果たしたことを記念した貴重な写真。
この写真に幕末から明治維新の歴史が凝縮されている

 

 


 【引用参照出典】
 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館 

 
 
 

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