北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【稚内・稚内】 三船殉難事件 留萌沖に消えた1700名

 

ロシアによるウクライナ侵攻は、連日新聞テレビで紹介され、戦争の悲惨さを伝えているところですが、なかでも戦場から避難する市民を標的にした攻撃には強い憤りを覚えます。今から77年前、北海道でも同じ風景がありました。突然侵攻したソ連軍から避難した樺太住民の避難です。『稚内百年史』(1978)からお届けします。

 

 

■樺太住民の総退避

昭和20年8月8日、モスクワ在住、佐藤駐ソ大使は深夜にソ連政府に呼び出され、宣戦の布告を受け取ります。突然の日ソ戦開戦でした。
 
時を合わせ、遠く離れた樺太では、国境を越えたソ連軍の襲撃を受けます。この時、樺太には第五師方面軍傘下の第88師団および方面直属部隊約2万人が配備されていましたが、アメリカ上陸に備えて態勢をとっていたので、樺太国境を守っている将兵は第25連隊4000人程度にすぎませんでした。
 
第25連隊は南下してきたソ連軍に善戦しますが、8月15日、日本軍は連合国に無条件降伏、師団本部から停戦命令が届いたのは8月18日でした。大隊長が白旗を掲げて降伏し、19日午前9時に武装解除に応じます。
 
しかし、20日の朝になって、真岡付近に上陸を開始したソ連軍は、停戦交渉の向かった第25連隊の使節を射殺したので戦闘が始まりました。
 
第25連隊第三連隊が応援に向かい、23日に師団命令が届くまで戦闘が続きました。この他にも指揮系統の切断から指示が届かず樺太の各地で戦闘が続き、完全に終わったのは8月28日とされます。
 
終戦の翌日8月16日、大津樺太庁長官は「五十万州民に告ぐ」という布告を出して冷静に対処するように呼びかけるとともに、婦女子、幼老者の北海道総退避を決断します。島内に残るありとあらゆる船を使っての大脱出作戦が始まります。
 
終戦の聖断が下ってからの稚内所在の海軍部隊は、多忙の毎日を過した。海軍陸上務員は、引きも切らず入港してくる棒太からの脱出漁船や機帆船の繫留援助に追われ、陸軍部隊も着のみ着のままで脱出してきた引き上げ者の保護に任じた。
 
樺太庁は軍の強力を得て、島民の本土緊急疎開要綱を作り、15日間に16万人を輸送するため、宗谷丸のほか、可能な限りの汽船、漁船、機帆船に集結を命じ、奥地の戦災民を最優先に、主として大泊、本斗両港から本道に疎開させることにした。
 
計画による島民の救出は、13日、大泊を出港した第1船宗谷丸に始まって、23日のソ連の航行禁止令が出た翌朝稚内に入港した宗谷丸が最終船となってしまったが、この間に戦火に追われながらも本島にたどり着いた島民は約8万人といわれる。
 
このとき、海上において作戦中、任務が変更されて稚内に集結を命じられた艦艇を含めて、次の艦艇が一刻も早く、一人でも多く、同胞を祖国へと、緊急輸送に従事したと記録されている。
 
以上のほか記録にはないが、宗谷防備隊では緊急徴用した善宝丸(越川漁業部)に艀2隻を曳かせて海馬島を往復させ、また所属舟艇で能登呂防備衛所の撤収は23日でソ連の進駐とは間一髪の差であった。
 

■三船殉難事件

8月23日、樺太全島を掌握したソ連軍は島民の脱出を禁じます。ソ連の侵攻からこの日まで、極度の混乱によって多くの悲劇が起こりました。真岡郵便局では、ソ連兵が庁舎内に入ってきたとのでなんとかしてほしいとの打電のあと、8人の女子交換手が青酸カリで自殺、この後、真岡ではソ連兵による殺戮、暴行、傷害、略奪などで、生き地獄の様相を呈しました。
 
そうした地獄図は、樺太だけではなく、北海道近海でも繰り広げられたと『稚内百年史』は伝えています。
 

小笠原丸①

 
前期の稚内入港艦艇のほか、稚内の収容能力が限界を越えていたため、大泊から留萌、小樽に仕向けられた艦艇、船舶も多かった。それぞれ宗谷海峡を乗り切り、納沙布岬を左にかわして沿岸近くを小樽に向かっていた。永住の地と定めていた樺太を追われた引揚者に、祖国の山河に抱かれた実感を持ってもらうかのように…。
 
22日4時22分頃、増毛町カムイト岬沖6.4キロを小樽へ向けていた小笠原丸は、浮上潜水艦の雷撃を受け、一瞬にして沈没した。犧牲者は、翠川信遠船長と海員を含め641人、生存者は61人だった。
 
小笠原丸が沈没した直後の4時55分頃、増毛から北方40キロの鬼鹿沖を南進中の、第二新興丸にも潜水艦が襲いかかった。雷撃で右舷を大破した第二新興丸は、船首を傾けつつ艦長萱場松次郎大佐の「何としてでも留萌までたどりつけ」の叱吃に、乗組員は必死に船を護った。
 
そのとき、右後方に二隻の潜水艦が浮上をはじめ、傷ついた獲物を射るように機銃を掃射してきた。完全浮上を待っていた艦長は、艦載の12センチ砲2門および機関銃に射擊を命じた。命中! 1隻は水煙を上げて沈んでいく。あとの1隻は慌てて急潜航していく。
 
海面には静寂が戻ったが、船内は死者、傷者の血が、肉片が惨劇を物語り、肉親を求める号泣が舟足の遅くなった第二新興丸を一刻も早くと留萌港に急がせた。死者行方不明400人、負傷者100人にのぼった。
 
第二新興丸に続いて大泊を出港した泰東丸は、10時20分頃、小平、大椴沖を航行していた。突如、浮上した潜水艦に追われて泰東丸は白旗を振ったが、潜水艦の射った1発の砲弾は機関部に命中、間もなく沈没した。
 
前日、樺太引揚者を留萌に下船させ、母港大湊への回航を準備していた特設機雷敷設艦高栄丸及び敷設艇石崎は、急を聞いて現場に急行したが、わずかな漂流者を救助したにとどまった。泰東丸の犠牲者は667人、生存者は113人であった。
 
同じ日の午後、大阪商船所属の能登呂丸は、西能登呂岬沖でソ連機3機の雷撃を受けて沈没したが、同船は本斗から大泊への回航途中で、乗船者がなかったことは不幸中の幸いであった。
 
この3隻を襲った潜水艦は今も「国籍不明」となっていますが、樺太に続き北海道を占領しようとしていたソ連が派遣した探査潜水艦と考えられています。8月15日の終戦から1週間の間に、北海道の近海でこのような惨劇が行われていたことは、あまり語れていません。
 


【引用文献】
『稚内百年史』1978・稚内
①https://ja.wikipedia.org/wiki/

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