北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

様似冬島─維新に刃向かった幕臣たちの逃避行

 

■永坂庸行、榎本軍に参加

 
幕末の動乱で、榎本武揚は明治新政府に恭順することに抵抗し、明治1年8月、幕府艦隊8隻を奪って脱走。函館に向かいます。このとき、元若年寄永井玄蕃、元陸軍奉行松平太郎、渋沢誠一郎率いる彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、フランス軍事顧問団を脱走した砲兵大尉ブリュネ、伍長カズヌーヴなど、榎本と行動を共にした者たちは、総勢2000人に上るといいます(函館市史)
 
そうした旧幕府軍の一人に永坂庸行がいました。江戸生まれの永坂は代々徳川家に仕えた旗本で、明治新政府に降ることを潔しとせず、榎本武揚の呼びかけに応えました。
 
函館に上陸すると、土方歳三を長とする800名の松前城攻略部隊に加わりました。榎本武揚が五稜郭を占拠し、蝦夷新政府を樹立したとき永坂庸行は、松前に残り松前城を守備していました。
 
翌明治2年、新政府軍の反撃が始まります。4月9日、新政府軍は4隻の戦艦と2隻の雇外国商船と1500名の兵士を引き連れ、日本海岸の乙部に上陸。江差で軍を3つに分けて、三方面から進撃を開始しました。
 
永坂庸行のいる松前城守備隊は江差守備隊を加え、江差奪還を決意します。11日には茂草村で新政府軍を撃破しました。その勢いのまま江差奪還に向かおうとしたところ、五稜郭の本陣から引き返すように命令が。兵站が伸びすぎるという理由でした。戦況を大きく左右する指示でした。
 
箱館戦争_福山城攻防戦

箱館戦争_松前城攻防戦(出典①)


 

■永坂庸行、官軍に追われ女性宅に逃げ込む

 
前線の状況を把握していない本陣に翻弄され、松前城守備隊は右往左往します。17日、さらに援軍を加えた新政府軍の攻勢にさらされ、松前城は陥落。永坂庸行も城を捨て、追走する新政府軍と戦いながら後退し、やがて味方は散り散りに。ついに松前城下で一人だけになってしまいました。そこに敵兵の足音が迫り、永坂は堪らず近くの民家に駆け込んだのです。そこには若い女性が一人だけいました。以下は『様似町史』(1962)の引用です。
 
女は事情を聞かずに、駆け込んできた永坂庸行をとっさの判断で押し入れに隠した。追跡してきた官軍に、サア出せ、と詰めよられたが、女は平然として否定した。官兵もなかなか承知しないで押し問答になった。
 
「ここは女一人の家です。それほど疑うなら、家探しをして、疑いを晴らしてください」
と、毅然として微笑した女性を見ては、官兵も手出しができずそのまま引揚げていった。
 
これが縁となって、女は庸行と生涯同棲することになった。この女性こそ、庸行といっしょに、(様似)冬島のコトニに来て永住し、庸行が晩年になって内地で客死した後もなお、孤閨を守り通した肥田ナツ女であった。
 

■平田篤胤の愛弟子、北を目指す

 
いつ、どうやって二人が様似に現れたのか、町史は伝えていませんが、永坂庸行と肥田ナツは昆布漁で成功を治め、明治8年には様似郡の組頭として地域のリーダーになっていたことが知られています。
 
様似町史によれば、明治7年には、江戸出身の芦沢光憲が様似郡六大区戸長となっていましたから、この人を頼っての逃避行だったのでしょう。町史は芦沢光憲も明治新政府に反対した幕臣であったことを示唆しています。
 
面白いもので、永坂庸行のもとには池田弥白という人物が身を寄せています。彼も嘉永6年に秋田郡秋田川に生まれた士族です。
 
この池田家は、累代の旧家で、郷里では相当重きをなし、彼はその六代目の末喬である。弥白は幼少のときから学問を好んだ。幕末の国学者として有名な平田篤胤の愛弟子であったともいわれている。
 
と、このような来歴をもつ人物です。師匠である平田篤胤(あつたね)も秋田県久保田藩出身の国学者で、尊王攘夷論の精神的主柱と言われました。その愛弟子である池田弥白も佐幕派であったでしょう。
 
池田弥白は国学の研究に従事していましたが、明治維新と江戸幕府の崩壊を見て思うところがあったようです。
 
彼は決意するところがあって師の許を辞し、根室を目ざして、北海道に渡ったが、途中様似まで来たときには、少しばかりの旅費を使い果して、裸一貫になってしまった。さすがに彼は困って、そのころ冬島村のコトニで、昆布採取業をやっている永坂庸行の許で、雇夫になって住み込んだ。
 
様似町冬島

様似町冬島(出典②)

元来、体躯は頑丈であるが、今まで文筆に親しんだ生活であったため、労働には不慣れで、当時は相当の苦労をしたらしい。しかし堅忍持久をもってその仕事に専念した。雇主の庸行も、榎本の部下として、五稜郭で九死に一生を得た幕臣であったから、弥白の人物を見抜き、妻女(肥田ナツ)の妹ハナと彼を結婚させた。このハナも、なかなかの女であった。
 

■昆布場の雇夫から戸長へ

 
「弥白に一女二男があった。長子鹿造は池田家をつぎ次男俊三は永坂家をついだ。両家ともに栄えている」とありますから、永坂庸行は妻の妹を池田弥白に嫁がせ、その子供を永坂家の跡取りにしています。同じような背景をもつ、永坂庸行、芦沢光憲、池田弥白の3人は互いに協力しながら、明治初期の様似で頭角を現していきます。
 
弥白はその妻女の協力によって、家業の方も良くなり、彼が人物である噂も村内にひろまってきた。明治十三年二月、浦河郡役所管下に各村戸長役場ができて、誓内の芦沢光憲が様似郡各村戸長となった時、庸行と光悲との親交もあったから、弥白は光憲に所望されてその筆生として奉職し、戸長の実務はほとんど弥白によって裁断されたようなものであった。
 
弥白は認められて三代目の戸長になり、彼の素質と今までの経験を生かした。一見鈍重のような風格が、かえって人をひきつけ、日高、十勝管内で随一の戸長といわれ、郡長の信任も厚かった。
 
と、池田弥白は明治初期の日高地方で重きをなしていくのです。
 
明治初期の様似で、どうしたわけか、永坂庸行、芦沢光憲、池田弥白と幕府軍の生き残りが村政の重鎮として君臨したというお話でした。開拓初期の北海道では、彼らのような旧幕府軍の生き残りが歴史のアクセントとして活躍します。折に触れご紹介していきたいと思います。
 


【文献】
『函館市史 通説編第2巻 第4編』函館市/函館市地域史料アーカイブ・https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0120205100
『様似町史』1962・様似町
 
【写真出典】
①『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』国立国会図書館デジタルコレクション
②『アポイ岳ジオパークガイドブック』2018・様似町

 

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