北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

よみがえる世紀の祭典「北海道百年 」


1968年 北海道百年 記念事業② 野幌森林公園 北海道開拓記念館

 

天然林は過去を偲び、平野は発展に思いを馳せる

 

昭和43(1968)年の「北海道100年」事業のメインは野幌に「道立自然公園」と設け、そこに「北海道開拓記念館」と「北海道百年塔」を建設したことです。これらは大正7(1918)年の「開道50年記念北海道博覧会」を引き継ぎ、イベント終了後とともに撤去された大正7(1918)年に代わって恒久的な展示を目指すものでした。「北海道開拓記念館」と「北海道百年塔」は一体不可分なものとして計画されましたが、「北海道百年塔」についてはコーナーを改めて細述します。ここでは自然公園を開拓記念館をご紹介します。
 
 

■なぜ野幌が選ばれたのか? 町村知事の想い

「北海道開拓記念館」と「北海道百年記念塔」、そして野幌の「道立自然公園野幌森林公園」の造成は一体のもので「北海道百年記念事業」全体のメイン事業でした。これらの健立は早くも昭和37(1962)年1月の準備委員会設立時から実現を念頭に議論が行われていました。
 
「北海道100年」の陣頭に立った町村金五知事は、昭和56(1981)年の『北海道開拓記念館10年のあゆみ』の寄稿文で経緯を振り返っています(当時は参議議員)。北海道百年全体を理解する上でも貴重なものです。
 


 

昭和37(1962)年ごろと思うが、私は本道もまもなく開道100年を迎えるので、この100年の間北国に新天地を求めて移住してこられた先人たちの血のにじむような苦闘の跡を忍び、その素晴らしい開発の実績をつぶさに物語ることができる記念事業を行うべきであると考えた。

 

このため道民各層の有識者のお考えを承ることが適切な案を得る道であると考え、先覚の方々にお集まりいただき、いろいろ貴重な御所見を伺ったのである。
 
この会合では、北海道には道立の博物館がないので博物館を設けることが記念事業としては最もふさわしいと力説される方が少なくなかった。
 
また戦後長らく道庁の拓殖計画課長をされた橋本東三さんは博物館のような過去を振り返る資料館よりも、今後、ますます飛躍して止むことを知らぬ北海道の前途を象徴するような、中空に高くそびえる塔を建てるべきだと熱心に述べられた。
 
記録によると明治以前の北海道は、近藤重蔵らによるの蝦夷地探検と日本海に散在する鰊漁場を統括する松前藩が存在した位で、歴史に残るような目ぼしい事蹟はなかったようである。
 
しかし、明治政府は蝦夷地を北海道と改め、政府内部に北海道開拓使を設け、警備を固めるとともに北海道の拓地植民に大いに力を注いだ。
 
爾来、先人のたくましい奮闘努力と、明治政府の強力な開拓政策によって、北海道は百年という短期の開発では、世界にも類を見ないと言われるような見事な発展を遂げた。
 
私はこのようなことを念頭におきながら、有識者の方々の貴重なご意見を拝聴した末、先人の厳しく激しい苦闘の歴史を子孫に伝える開拓記念館と北海道の洋々たる前途を象徴するような記念塔を建設することを北海道百年事業として採用することを決めたのである
 
さらに、この両施設の場所については私は特に心を砕いた。
 
この事業が決定すると、道内各地から適地を提供したいとの申し出があったが、結局私は東南端の野幌の天然林に隣接し、西北は広い石狩平野を一望の中に臨むことができる現在地が最適の場所と考え、野幌森林公園に決定をした。
 
北海道は、開拓の鍬が入れられ以前は、全体が千古斧鉞を知らぬ原生林に覆われていたことを思い起こし、後方の天然林は過去を偲び、前方の平野は将来の発展に思いを馳せると言う念願を込めての選定であった。
 
本年は開拓記念館の創立10周年を迎えるのであるが、入場者数は毎年30万人を超え、道外はもちろん国外からもの観覧者も少なくないと聞く。
 
私は、青少年の諸君が、開拓記念館や百年記念塔に込められた記念事業の趣旨を理解し、先人の苦労を学び、さらに、自らの手によって偉大な北海道の建設にあたろうとの意欲を燃やされんことを心から念願するものである。[1]
 

開館直後の北海道開拓記念館と北海道百年記念塔(出典①)

  
前方に開けた石狩平野があり、後方に原生林が残る野幌の地に開拓記念館ならびに記念塔が建てられことは、まさに北海道開拓の象徴として町村知事が決めたことでした。
 

■野幌森林公園〜現代人に開拓当時の森を偲ばせる

野幌森林公園計画図(出典②)背景の空撮写真を見ると開発が
進んでいる様子が伺える。野幌の森は「北海道百年」が蘇らせた
のである


開拓記念館と記念塔の場所は、知事の強い想いから野幌に選ばれました。この当時は札幌営林局が管理する国有林でした。札幌近郊に残る数少ない開拓当初の面影を留める貴重な原生林ですが、戦後に一部が緊急開拓により農地となり、宅地化も進むなど、天然林の保全について将来が心配されていました。
 
知事の意を受けた道は昭和37(1962)年から営林局と協議を重ね、昭和43(1968)年までに計画地内の民有地297ヘクタール、江別市の公有地120ヘクタールの買収を行い、昭和37(1962)年6月、国有林1600ヘクタールとあわせた2040ヘクタールを「道立自然公園」に指定しました。
 
翌年から北側180ヘクタールを記念施設地区と定め、開拓記念館と記念塔建設を前提に公園造成を開始しました。
 

記念施設建設前(出典③)
森林が再生された


自然公園としての基本計画は、東京大学工学部の著名な建築家であった高山英華教授と東大農学部林学科の加藤誠平教授が担当しました。高山は昭和39(1964)年にオリンピック代々木競技場の設計で日本建築学会賞特別賞を受賞しています。野幌森林公園の計画を依頼されたときは、日本建築学会会長の要職にありました。開館記念出版『北海道開拓記念館』で広田基彦北海道百年記念施設建設事務所長はこう述べています。
 
農地を逐次森林に復元し、既存国有林と間に生息する動物を保護育成し、市民の健全な憩いとして、また道民に開拓の先人達のパイオニア精神を偲ばせるよすがとして、永遠に残そうとしたものである。[2]
 
すなわち、野幌の大森林は、開拓時代から遠く離れる中で、開拓以前の北海道の姿を残すことで開拓の苦労を道民が偲べるようとの思いを込めて保全され、再生されたのです。野幌の貴重な大森林が、その後にすすむ札幌の急激な都市化に飲み込まれず、守れたことは北海道百年事業の隠れた功績でしょう。

野幌森林公園記念施設地区(出典④)

 

■北海道開拓記念館〜道民の〝労苦と英知と努力〟をテーマに

開館当初の北海道開拓記念館(出典⑤)

昭和41(1966)年3月に「北海道百年記念事業実行方針」が定まり記念事業のメイン企画として記念館と記念塔の開設が盛り込まれると、道はすぐに具体化に向けて北海道大学北方文化研究施設に展示構想の研究を委託。翌42年に杉野目時貞北大学長を座長とする開拓記念館開設協議会が設けられました。
 
なお、昭和37(1962)年に策定された「第2期北海道総合計画」には「博物館施設の新設」が盛り込まれ、民間でも昭和38(1963)年7月に「北海道博物館建設促進委員会」が作られるなど、「北海道博物館」を求める声は強くありましたが、この記念館を博物館という名称にすべきだという意見はほとんど聞かれなかったと言います。『北海道開拓記念館10年のあゆみ』はこう述べています。

 

記念ホールのタペストリー北海道の四季
と開拓が描かれている(田中忠雄作・出典⑤)

開道百年記念事業協議会によって最終意見が集約された過程において総合博物館的施設として「開拓記念館」の名称には大きな異論はなかった。北海道百年の記念事業として取りあげたこと、そして、北海道百年は明治新政府が蝦夷地を「北海道」と改め、新天地「北海道」の開拓を重視し、「開拓使」を置いて開柘に力を注ぐようになってからの百年、その記念である。しかし、「拓記念館の名称については今流に「開発記念館」という言葉もなかったわけではない。[3]
 
●計画理念
百年記念事業の準備の初めから開拓記念館について検討してきた道は、昭和41(1966)年から北海道の歴史、自然、民族学などの学識経験者を集めて構想を検討し、昭和42(1967)年10月に開拓記念館開設協議会(杉野目時貞座長)において展示構想・収集計画を策定しました。その「展示計画作成基本方針」は、

 

記念ホールの壁、開拓の功労者である農耕馬
を慰霊するため馬蹄が装飾されている(出典⑥)

①展示の目的
えぞ地が北海道と改名されてから、ここに百年、めざましい発展を示した北海道開拓の歴史と、今日の課題を関係資料により展示し、開拓の歴史の理解と開発課題の認識を高めることを目的とする。
 
②展示のテーマ
「人は、きびしい北国の自然にいかに対応し、これをのりこえてきたか。輝かしい未来をつくるために、いかに想像しつつあるか。」という考えを基調とし、「人間の英知と労苦と努力」を中心テーマとする。

 

2階展示室「模擬林」、入植者が最初に
挑んだ立木を示した(出典⑥)

③展示の範囲
(1)展示の範囲は、記念館の性格に鑑み.最近百年の開拓の経緯と事蹟、その努力を重視して扱い、えぞ地時代以前については、百年の開拓の理解を深める前提として扱う。
 
(2)人の事蹟については、特定のコーナーを設け、その人や事蹟を顕彰するような形で行わず、一般の展示の中で自然に事蹟が理解されるよう配慮する。
 
(3)北海道開発の未来像や、開発成果の想像図などについては、碓定的な計画以外使わないものとする。[4]
 
というものでした。
 
●建築設計
「北海道開拓記念館」は昭和43(1968)年11月から、建築費10億円余りをもって建設が始まりました。設計は加藤武夫建築事務所が担当し、建築施工は丸彦渡辺建設と戸田建設が担当しました。

 

北玄関脇グリルを通して塔を望む(出典⑦)

加藤武夫は明治32(1899)年に名古屋に生まれ、早稲田大学で建築を学んだ人物ですが、父が軍人で旭川で暮らしたこともあります。早稲田大学大隈講堂を恩師とともに設計したほか、官庁建築で優れた作品を残しました。今の旭川市庁舎も加藤氏の作品です。
 
公園とともに設計は道内に限定せず、日本の最高権威に委託されました。加藤武夫建築設計事務所で設計の実務を担った宮入保は設計の理念を開館記念出版『北海道開拓記念館』で次のように語っています。
 
過酷な大自然との格闘の歴史と輝かしい未来の創造を盛り込む器としての開拓記念館は、この建築自体が北海道を開拓した先人たちの偉業を想起し、未来への建築の意欲を象徴する記念碑でありたいという発想に出発点を求めた
 
先人のたゆまざる開拓の精神と、未来を開くたくましい力を象徴する建物は、大地に根ざした素朴な力強さと大いなる開拓の偉業を讃える記念性によって表現されないされなければならない。[5]
 
すなわち「北海道開拓記念館」は「北海道百年記念塔」と一体不可分であり、建築物として北海道開拓の偉業を後世に伝える記念物だったのです。
 

 
開拓記念館は百年記念塔を前提として設計された
正面から入りホールを抜けると百年記念塔が遠望できる
(出典⑧)

 
●展示設計
展示室の設計は栗谷川建一が担当しました。栗谷川は明治44(1911)年岩見沢に生まれた札幌在住のデザイナーで、札幌オリンピックの招致ポスターなどを手がけ、世界的な評価を得ました。専門学校「北海道デザイン研究所」を創設し、北海道におけるデザイナー養成の嚆矢となっています。
 

壁画『開けゆく大地』今は装飾壁画として黙殺されているが、かつてはこの前に開拓の様相を示すさまざまな展示があった(出典⑨)

 

日本の超一流が集められた施設計画でしたが、栗谷川は札幌在住ながら全国的にも最高水準にあると認められたのでしょう。開拓をメインテーマとした展示設計で、開拓そのものを知る栗谷川の生い立ちにも期待されたのでしょう。

失われた展示『開拓使仮庁舎の門』(出典⑩)

 

この依頼を受けた栗谷川は昭和44(1969)年8月20日から46日間にわたってヨーロッパ、米国、メキシコの博物館美術館を巡りました。そしてメキシコシティの国立人類学博物館の展示に範を求めたといいます。

 

失われた展示『昭和の坑道』(出典⑪)

歴史をバックボーンとし、ここに展開される展示は如何にあるべきか、観院者をして真に開拓の感動にひたらしめ、先人の労苦に対して感概を新たにするとともに,未来えの希望に、連なるものを息づかせねばならない。コミュニケーションの本当の意味を失うことなく、素直に理解される展示でなければならない。[6]

現在の北海道博物館の目玉展示
アイヌ復元住居は開館当初のもの(出典⑬)

 
施設の計画設計に携わるすべてが「開拓の偉業をいかに次代に伝えるか」を考え抜き、かたちにしたのです。
 

2階特別展示室(出典⑭)

 
●開道50年を引き継ぐ
最後に「北海道開拓記念館」における「開道50年」との連続性に触れておきます。『北海道開拓記念館10年のあゆみ』はこんな記述があります。
 

ニシン漁のジオラマ(出典⑮)

なお、注目しておきたいのは北海道開拓記念館の性格なり機能なりに影響与えたものに、「北海道拓殖館」がある。「北海道拓殖館」は昭和5(1930)年に札幌市中島公園の一角に設けられ、昭和18(1943)年頃、第二次世界大苛烈となり、建物が軍に接収され閉鎖され、以降秀蔵資料展示資料等は霧散したが、道民の先輩有識者に強い印象と郷愁を与えていたことは事実である。
 

開道50年記念博覧会の「拓殖・教育・衛生館」
中島公園に残され「北海道拓殖館」となった(出典⑯)

拓殖館は大正7(1918)年「開道50年記念北海道大博覧会」の中島公園会場陳列館の1つ「拓殖教育衛生館」として誕生したもので、当時同館は将来「拓殖記念館」として残し、北海道拓地植民事業の資料を収集し、展覧をするために建設された。

 

開道50年記念博覧会「水産館」のジオラマ(出典⑰)

博覧会後も商品物産展示と合わせて運営され、上記のように昭和4(1929)年「北海道拓殖館」として記念博物館の性格を明確にしたものである。
 
木造モルタル塗り2階建て850平方メートルほどのものであったが、黒田開拓次官の開拓視察の等身大模型、植民地選定区画測量、移住開墾等の苦心をパノラマ、ジオラマの手法を用い、各器具産物を配し、ダイナミックに陳列展示した。
 
こうした経過と事実が「北海道開拓記念館」の名称や性格を道民に違和感なしに受け入れさせるのに大きく役立ったことは否定できない。[7]
 
「北海道博物館」ではなく、開拓記念館という名称にした背景には「拓殖記念館」の存在があったというのです。野幌の北海道開拓記念館と北海道百年記念塔は、大正7(1918)年の「開道50年記念北海道大博覧会」の姿を引き継ぎ、恒久的に残そうとする──ということができます。
 
しかし、今、野幌の森に北海道開拓記念館はありません。
 
高橋道政は「開拓」の二文字がどうしても目障りだったのでしょう。こうした先人の思いにもかかわらず「北海道開拓記念館」は平成27(2105)年、「北海道博物館」となり、北大に招聘される平成18(2006)年まで北海道と縁の無かった関西の文化人類学者が館長を務める施設となり、展示からも開拓は排除されました。
 

 


【引用文献】
 [1]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・177P
[2]『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・8P
[3]北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・11P
[4]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・213P
[5]『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・22P
[6]『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・50P
[7]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・11P
 【写真出典】
①『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・口絵
②『北海道百年事業の記録』1969・北海道・66p
③『北海道百年事業の記録』1969・北海道・71p
④『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・4P
⑤『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・18P
⑤『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・33P
⑥『北海道開拓記念館』1971・北海道・7P
⑥『北海道開拓記念館』1971・北海道・15P
⑦『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・36P
⑧北海道開拓記念館』1971・建築画報社・36P
⑨『北海道開拓記念館』1971・北海道・14P
⑩『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・54P
⑪『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・58P
⑬『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・55P
⑭『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・59P
⑮『北海道開拓記念館』1971・建築画報社・57P
⑯「開道五十年記念北海道博覧会名誉記念写真帖」1918・維新堂書房
⑰「開道五十年記念北海道博覧会名誉記念写真帖」1918・維新堂書房
 

 
 

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