北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

よみがえる世紀の祭典「北海道百年 」


6 1968年 北海道百年 記念事業① 事業概要

とくに若い世代に開拓当初の先人の労苦を銘記させる

 
昭和43(1968)年の「北海道百年」については記念祝典と大博覧会をご紹介しましたが、これらは「北海道百年事業」のほんの一部です。この他にもさまざまな事業が行われ、北海道の戦後史をこの年で区切ることができるほど、北海道に大きな影響を与えました。事業の全容をつかむため準備段階で出された「実行方針」と「準備計画」の概要をお伝えします。
 

■昭和36(1961)年4月、北海道百年の準備始まる

「北海道百年」の準備は昭和36(1961)年4月、「北海道史編集審議会条例」の公布による「新北海道史」の編さんから始まりました。
 
翌昭和37(1962)年1月、道の内部に「開道百年記念事業準備委員会」が設けられ、本格的な準備が始まりました。開道百年の昭和43(1968)年に先立つ5年の前のことです。
 

町村金五知事(出典①)

翌37年1月、道の内部に開道百年記念事業準備委員会が設けられた。同委員会は知事を会長に、各副知事・各部長・知事室長・教育長をもって構成し、その下に幹事会をおいて委員会の事務を処理させることにした。
 
幹事会は各部代表課長および若千の関係課長で構成し、総務部文書課が委員会事務の総括窓口となった。
 
その設置にあたって定められた準備要綱は、記念事業を
 
「単なる祭典にとどめず、……とくに若い世代に開拓当初の先人の労苦を銘記させるとともに、後代にその歴史・文化の遺産を引き継ぎ、さらに都府県のみならず諸外国にも本道の発展を顕示する、真に実質的な記念事業とする……」
 
と方向づけ、知事は準備委員会開設の意図を次のように述べた。
 
「この記念事業は、ひとり道庁だけでできるもではない。全道民あげての事業として準備し、実施するため、道と民間とが一体となった組織をいずれ設ける必要があるが、その前段階としてとりあえず庁内に準備委員会を設け、道の考え方というものの素案を作っておきたい」[1]
 
昭和43(1968)年の「北海道百年」は当時の町村金五知事の熱い想いと強いリーダーシップによって行われました。なかでも知事の示した「若い世代に開拓当初の先人の苦労を銘記させる」は「北海道百年事業」全体を貫く基調となりました。
 

■全道で全道民が──準備委員会実施方針打ち出す

町村金五北海道知事を会長とする準備委員会は、「当面は、道の各部と教育庁から提出された案を中心に、過去の開道記念事業や本州府県・市の事例、道行政に対する各界・各地域からの陳情事項など」の検討を続けます。
 

記念の昭和43年の元旦、道庁幹部と
北海道神宮の開拓神社に詣でて記念
事業の成功を祈る町村知事(出典①)

 

昭和40(1965)年9月、道は知事を会長とし、学識経験者、道議会議員、関係行政機関職員など53名の委員が加わる「開道百年記念事業協議会」を立ち上げて、記念事業の基本的な考えと事業案、推進体制など基本的なスキームを検討しました。
 
この段階で道内にしか伝わらない恐れがあるとして呼び方を「開道百年」から「北海道百年」に変え、昭和41(1966)年3月「北海道百年記念事業実行方針」が定まりました。その前文を紹介します。
 

北海道百年記念事業を取り上げる基本的な考え方について

北海道が今日のように国民経済の発展に重要な位置を占めるとともに、今後開発の一層の進展によってさらに高い役割を期待されていることは、過去百年にわたる北海道の開発を進めてきた先人の労苦の賜ものであり、その成果は内外の注目するところである。
 
蝦夷地を北海道と改め、近代的な開発を進めるようになってから百年を迎えるに当たり、先人労苦のあとを道民が斉しく銘記し、次代を担う人がこれを反省の資料として北海道の開発発展に役立たせてゆくことは極めて重要なことである。
 
北海道開発の経緯とその実績を顧みるとき、百年記念事業は、単に道の一事業としてではなく、道民全体の参加をえて行なうことは勿論、さらに本道開発の意義に対する認識を国の内外に一層高めるよう実施されなければならない。
 
以上のような観点から、記念事業は国・道・市町村・各種団体がそれぞれの立場から協力して推進されるべきものであるが、道が自ら行ない、或は協力し援助する事業が北海道百年記念事業の中心をなすことは言うまでもない。
 
この意味において、北海道百年記念事業として道が主となって計画するもの、およびの協力を至当とするものは次の諸点に留意して選定することとする。
 
(1)記念事業は北海道開発の歴史を回顧し、開発の偉業を記念するとともに、将来の発展展望に役立つもので後世に残し誇りうるるのであること。
 
(2)計画は遠大なものであることが望ましいが、現実において実現可能と考えられるものであること。
 
(3)全道的意義があり、道民が斉しく参加しうるものであること。
 
(4)北海道の開発の意義を国の内外に認識せしむるにふさわしいものであること。
 
(5)行事は道央に集中せず、地域における関心を高めるよう留意すること。[2]

 
50年前の「開道50年」は盛大に行われましたが、札幌(一部小樽)だけに留まったことから、「北海道百年」は「次代を担う人」の育成を念頭に、全道民、全道各地が等しく参加できることを目指しました。
 

■記念事業準備計画

この「実行方針」あわせて「準備計画」が定められ、記念事業のメニュー出しが行われました。高倉新一郎北大名誉教授を委員長とする小委員会が63件にも及んだ記念事業案を整理し、次のような事業の大枠を示しました。
 
●記念式典

記念祝典に臨まれた昭和天皇・
皇后陛下(出典③)

式典の挙行日・方法は、昭和41(1966)年度中におよその予定を決める。式典堆行月日は、過去の天候の確率などを勘案し、昭和43(1968)年8月ないし9月の適劣な月を選定する。また式典学行方法は学識者などの意見を得ながら検討する。[3]
 
天皇陛下、皇后陛下をお迎えして、昭和43(1968)年9月2日に「北海道百年記念祝典」として開催されました。
 
参照リンク
1968年 北海道百年 記念祝典編 ① 入場〜開会
参照リンク
1968年 北海道百年 記念祝典編 ② 式辞〜青少年の誓い
参照リンク
1968年 北海道百年 記念祝典編 ③ 天皇陛下のおことば
 
●博覧会

北海道大博覧会開会式(出典④)


産業見本市および共進会などを含め、道内数地点においてそれぞれ特色をもたせて開催することとし、開催場所・規模・内容などは41年度のなるべく早い時期に予定するよう関係市町村・産業団体などと協議する。[4]
 
「北海道大博覧会」として昭和43(1968)年6月14日から8月18日前の66日間、札幌市真駒内で行われました。当初は「地域性を配慮する」という記念事業推進協議会の意見にもとづき、少なくとも4地域程度で分散開催する方針で、主要市に打診しましたが、各地とも恐れを成したのでしょう、積極的な回答は得られませんでした。そこで北海道新聞社が中心となり、民間主体で行われることとなりました。
 
参照リンク
1968年 北海道百年記念 北海道大博覧会①
参照リンク
1968年 北海道百年記念 北海道大博覧会 ②
 
●スポーツ祭典
各種競技を地方ならびに中央で全道規模で実施することとし、41年度中に開催要領をかためるようスポーツ団体などと協議する。
 

記念スポーツ大会(出典⑤)

●記念植樹
市町村・民間団体が行なうもの。計画構想を41年度中にかためる。
 
●道民のうた
41年度に民間を中心に募集する。また作文・論文などの記念意識を盛り上ためのものについては、42年・43年に処置する。[5]
 

 

道民の歌披露会(出典⑥)

全道各地で協賛のスポーツ祭典が行われましたが、特にスポーツを事業の中に取り入れたのは、全道の若い世代に事業に参加して欲しいとの思いからでした。
この他、多数の事業が行われました。これらについては後に「記念業編」でご紹介します。
 
●歴史の保存
・『新北海道史』の編集
・『北海道回想録』『開拓功労伝記』の刊行
・開発振興功労者の声の録音
・開拓記念物の調査
これまでの計画に従って推進し、『新北海道史』のほかはおおむね記念式典当年における完成を目指す。
市町村郷土館の建設
引き続き助成するとともに、明治建造物などの保存についても対策を検討する。[6]
 
 

開拓功労者へのインタビュー(出典⑦)


〝未来指向〟を謳う「北海道150年」では見事に無視されましたが、「北海道150年」では歴史の保存と継承が大きな焦点でした。なかでも、この時点では存命していた開拓第一世代、開拓功労者の記録保存が大規模に行われました。
 この記念事業の前後、官民含めて北海道の歴史にまつわる多数の書籍が出版されました。
 
●記念施設
・開拓記念館・記念塔
1年度中にその性格・規模・内容の構想をかためるとともに碁本設計を行ない、42年度に実施設をして43年に着工、45年に完成させることを目標とする。開拓記念館の収蔵物については、41年度から準備を進める。
 
 

建設中の北海道開拓記念館(出典⑧)

・森林公園
関連区画のすみやかな取得を図り、公園計画構想をかためるとともに一般の利用度のの高い地区から整備・保全を図る。
 
記念地区は記念館・記念塔の建立を予定することを勘案しできるだけすみやかに用地収得事務を進め、41年度中に取得を終えるとともに全体利用構想をかため、42年に園地を造る。なお、後年に明治建造物などを記念地区へ移転、保存することを予定する。
 
・赤レンガ道庁舎
修復した上で保全を図る[7]
 

道庁赤レンガの塔はこの時に復元された。写真は改修前の道庁

 

改修後の道庁・後の現庁舎も開道百年にあわせて建てられた(出典⑨)

 
 
このなかで 「後年に明治建造物などを記念地区へ移転、保存」は「北海道開拓の村」として実現しました。開拓の村は昭和58(1983)年オープンですから、「北海道百年事業」は昭和43(1968)年からは昭和58(1983)年まで5年に渡って続いたということができます。昭和36(1961)年の新北海道史編さん開始を含めると8年に渡って「北海道百年」関連事業が続きました。
 

 


 

【引用出典】
[1]『北海道百年事業の記録』1969・北海道・47p
[2]『北海道百年事業記録資料編』1969・北海道・1p
[3][4][5][6][7]『北海道百年事業の記録』1969・北海道・50-51p
【写真出典】
①『北海道開拓記念館 開館記念誌』1971・北海道・3p
②『北海道百年事業の記録』1969・北海道・57p
③『北海道百年事業の記録』1969・北海道・26p
④ 北海道大博覧会事務局『北海道百年記念 道博』1968・北海道新聞社
⑤『北海道百年事業の記録』1969・北海道・118p
⑥『北海道百年事業の記録』1969・北海道・102p
⑦『北海道百年事業の記録』1969・北海道・96p
⑧『北海道百年事業の記録』1969・北海道・98p
⑨『北海道百年事業の記録』1969・北海道・98p
 

 
 

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