北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【旭川・比布】 上川盆地の水稲耕作の発達 ④

「交雑育種法」という革命

 

大正4(1915)年、札幌琴似の北海道農事試験場本場が導入した「交雑育種法」は稲作の品種改良に革命をもたらしました。これにより「坊主」は「走坊主」に改良され、稲作の北方限界をさらに北へと押し上げます。そして上川は北海道稲作のセンターとなりました

 

大正7年の「開道百年北海道大博覧会農業館」に展示された穀物標本①

 
上川農事試験場が導入した新しい「分離育種法」多くの成果を産み、中山久蔵の「赤毛」から「坊主」という品種を生み出したことは、北海道における寒地稲作の事実上のスタートとなりました。
 
道内品種改良時代は「分離育種法」によって代表されるが、上川支場がこの分離育種法を採用した大正4(1915)年には、本場において当時としてはもっとも新しい学理を応用した「交雑育種法」が採りあげられている。[1]
 
上川農事試験場が成果を挙げているとき、札幌の琴似にあった農事試験場の本場では「交雑育種法」という当時最先端の品種改良法が導入されました。これは異なる品種を人工的に掛け合わせる方法です。
 
「分離育種法」は1つの品種を多く植え付け、その中から成績の良かった稲を選抜して育てる方法です。あくまでも自然の力に人間が手助するものでしたが、「交雑育種法」は自然任せでは生まれない品種を生み出そうとするものです。
 

加藤茂苞②

 
この「交雑育種法」を日本で初めて導入したのは、山県の農事試験場で品種改良にあたった加藤茂苞(しげもと)という技師であったようです。「荘内日報社」の「郷土の先人・先覚51:我が国品種改良の父・加藤茂苞」によれば明治37(1904)年に日本で初めて20組み合わせの稲の人工交配に成功し、明治41(1908)年には、交配組み合わせは235に達したそうです。
 
それでも「人工交配による育成種は次第に、全国で栽培されるようになるが、育種は時間のかかる事業であり、大正前期にはその成果が現場までなかなか到達していなかった」[2]といいますから、大正4(1915)年の段階で琴似の北海道農事試験場本場が「交雑育種法」を導入して次々と成果を挙げていたことは、加藤茂苞に続く快挙だったでしょう。
 
こうした先駆的な交配により「坊主」をさらに改良した「走坊主」が生まれ、稲作限界をさらに北に押し上げました。下記には「45日も早熟」とありますが、農耕のできる期間の限られた北海道では「早熟」であることは絶対条件でした。
 
すなわち、本場では「魁×坊主」 「坊主×十勝黒毛」「札幌白毛×赤毛」「札幌白毛×坊主」など、計5組合せの交配がはじめられ、大正13(1924)年には「魁×坊主」から育成された「走功主」が優良品種として決定されたが、この「走坊主」は母方品種の「魁」よりもさらに45日も早熟であり、この出現によって稲作の限界地帯は上川北部はもちろん、天北地方あるいは北見などの地域にまで北進拡張の要因となった。[1]
 
札幌の本場にややおくれ、大正末期に上川支場が「交雑育種法」を採用します。そして上川支場は農林省からセンター指定を受け、琴似に代わって北海道の水稲改良の中心地になっていくのです。
 
上川支場が品種改良にこの「交雑育種法」を採用したのは大正15年で、その翌年の昭和2(1927)年から第二期拓殖計画が実施されるに及び、上川支埸では農林省指定の新品種育成試験を開始することになり、本道における本格的な「交雑育種法」による品種改良事業は上川支場を中心として計画され、ここに昭和初年から同10年までの期間にわたる「府県品種血統移入時代」がはじまったが、その中心となったのは昭和4(1929)年10月に玉山豊の後任として支場長となった山口謙三である。[1]
 
『比布町史』は、上川支場が中心となって交雑育種法を行った時代を「府県品種血統移入時代」と呼んでいます。異なる品種の交配が可能になり、この時代に上川支場は、全国から多数の品種を取り寄せ、道内品種との交配試験を無数に行いました。
 
上川支場を中心として計画された品種改良事業においては、毎年府県産品種と道内品種を10~89組合せ交配を行って1400内外の系統を栽植し、渡島支場にそのF2あるいはF3以後のもの400系統内外を移して、育成を行うカ法がとられたが、上川支場では道内品種改良時代に本場で交配育成された「走坊主」を移して純系分離を行い、昭和7(1932)年には「赤坊主1号」、「走坊主2号」をそれぞれ優良品種としており、この年、本場育成のものでは「魁×十勝黒毛」から育成された「早来坊主」が優良品種の決定をみていた。[1]
 
こうして「走坊主」はさらに改良され、「赤坊主1号」「走坊主2号」といった品種が誕生します。一方、品種改良の前進とともに、北海道の米づくりにも大きな変革が起こりました。すなわち「直播栽培」から現代の「温冷床栽培」への転換です。
 
「府県品種血統移入時代」は、ちょうど本道の稲作が限界地帯に向かってさかんに作付を拡大していった乱作時代から、やがて整理時代に移行しようとする時期であり、農村全体が昭和恐慌期と連続的な冷災害凶作によって激動を受けたもっとも多難なときであったし、稲作の栽培法においても、「直播栽培」から第二の変革期である「温冷床栽培」の普及に転換しようとするなかで、上川地方が本道における稲作の中核地帯としての確固たる地位を築いていた時期である。[1]
 
本州品種と本道品種との「交雑育種法」によって、品種改良は飛躍的な進歩を遂げました。そして北海道の稲作改良のセンターとなった上川農事試験場の存在によって上川盆地は北海道を代表する米どころへと押し上げられるのです。
 
こうした農村情勢を背景として本道稲作の品種改良にとって中心となった上川支場では、昭和7(1932)年に水稲育種事業の拡張にともない、畑作試験を縮少して水稲重点方針に移行したが、府県産品種の移入は豊産良性および耐病性の早熟品種を育成するという点では一大飛躍をもたらした。[1]
 
次回は「直播栽培」から「温冷床栽培」への大変革がどのように起こったのか、見ていきます。
 

 


【引用出典】
 
[1]『比布町史』1964・426~
[2]荘内日報社「郷土の先人・先覚51:我が国品種改良の父・加藤茂苞」http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp51.html
①「開道五十年記念北海道写真帖」1918・開道五十年記念北海道博覧会協賛会
②https://ja.wikipedia.org/wiki/加藤茂苞
 

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。