北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【旭川・比布】 上川盆地の水稲耕作の発達 ③

上川に生まれた「坊主」が北海道を米どころにした

 

渡島半島以北で稲作の可能性を開いたのは北広島島牧の中山久蔵が生み出した「赤毛」ですが、この赤毛はどのようにして現在につながるのでしょうか。「赤毛」は上川盆地に渡り「坊主」という品種に改良されて北海道の米の基盤となります。

 

上川農業試験場の「ゆめぴりか」の圃場 今も多くの優良品種を生み出している①

 
 
 

◆農事試験場と開拓農家の二人三脚

北海道の稲作が現在のような姿になったのは、数えきりないほど多くの道民の努力がありました。昭和39(1964)年の『比布町史』は北海道の水稲の発達史を次の4つの時代に区分けしています。
 
本道における水稲品種改良の経過は、これを大別して、①草創時代、②道内晶種改良時代、③府県品種血統移入時代、④現在の4期にわけてみることができる。[1]
 
草創期は「明治27(1894)年から大正初期まで時期」です。北海道米の品種としては、東北・北から移入された「地米」「白髭」「あかね」などの品種が道南地方で細々と作付けされていました。そこに明治6(1873)年、札幌郡広島字島松の中山久蔵が津軽早稲から早熟耐寒性に優れた「赤毛」種を選出しました。
 
これは大変に優れた品種で米作が不可能だとされた道央圏での米づくりの扉を開いたのです。この「赤毛」を母体として「坊主」「黒毛」「魁」といった品種が生まれます。さらにこれら多くの品種が生み出されます。
 
この時期に採用された品種改良の方法は、赤毛種を選出した中山久蔵の例にならって、主に農家の手で選出されたものを試験場に移し、ここで品種選抜試験をくり返して優良品種を決定したのである。[1]
 
農家が有望そうな品種を田んぼに蒔き、成績優秀なものを農事試験場に送ってさらに改良を加えるという農家と農事試験場の2人3脚で改良が行われていったことが示されています。
 

◆琴似本場と上川支場のライバル関係

草創時代においては、品種選抜試験の拠点を琴似の本場に置いていたが、旭川支場からは「黒毛」「魁」「島田糯」などの、いずれも赤月を母体とする 両品種が送り出されている点を見ると、明治の末期における上川市場の地位はすでに重視されていたと言ってよいものだろう。[1]
 
ここに「琴似の本場」と出てくるので『琴似町史』(1956)によって補足しておきます。
 
明治9(1876)年に設置された北大の前身である札幌農学校が、あらゆる北海道の農業の試験場でもあったわけであるが、北海道庁が全道を系統的に開発する基礎的な農事試験場を創立したのは、明治34(1901)年6月であって、当時札幌農学校付属第二農場の一部(北18条西11丁目)に、試験圃場の設計にかかり、8月からは水田の造成にかかり、9月から庁舎等の建築にとりかかって、翌35年1月に一切の準備を終り、種芸部、病理昆虫部、農芸化学部、庶務部の4部により、その年の春から業務を開始されたのである。
 
この農事試験場を中心にして北海道全道を7農区に分けて、各農区に試験場や支庁を置き、更に泥炭地や火山灰地の試験場を置いて、後には蚕業講習所も吸収し、品種改良や土性調査や農産製造に関する試験が拡大されて行った。
 
大正11(1922)年宮尾舜治長官時代に、甜菜糖業の試験に取りかかるようになり、その他の施設を整備するためには、従来の用地と庁舎では充分な試験研究が困難になったので、3カ年計画をもって本町(琴似)内に移転をする計画が進められることになり、大正14(1925)年に現在のコンクリートニ階建の本庁舎の建設、試験圃場その他の完成をみるに至った。[2]
 
当時の農事試験場本庄は現在の道総研(北海道立総合研究機構)中央農業試験場で長沼に置かれていますが、それ以前は琴似にあったのですね。札幌の農事試験場本場は明治34(1901)年ですが、前回見たように上川農業試験場は明治19(1886)年に忠別農作試験所として創立されていますから、本場よりもはるかに歴史がある。
 
おそらく後発でありながら本家面する本場への対抗意識は強かったのでしょう。上川盆地の入植者の協力を得て、北方農業に適したすぐれた品種を次々に生み出していきました。
 

◆新しい育種法の採用

大正4(1915)年になると上川支場の水稲品種改良はー段と強化されることになり、従来農家の手で選出されたものを移して行われた品種選抜試験という方法は小規模で継続するとともに、新しい分離育種法が採用されて、ここにいわゆる「道内品種改良時代」が開幕することになったのである。[1]
 
ここで「新しい分離育種法」という言葉が出てきます。農水省公式サイト「食の未来を拓く 品種開発」によれば「もともとあった米の品種の中から、優れた特性をもつ株を見つけて選ぶ」方法ですから中山久蔵の方法と変わったように思えません。むしろ「新しい」に力点があるのでしょう。改良された分離育種法が採用されたと読んでいきます。
 
さて続いて『比布町史』は上川農業試験場での品種改良の歴史を紹介していますが、1文が長く読みにくいので分かち書きで紹介します。
 
この分離育伸法の採用は、大正年代から昭和初期の連続的冷害凶荒期にかけて、本道の稲作を飛魁的に前進させた多くの品種を生みだしたが、その主なものは上
 
①上川支場が大正5(1916)年に坊主から分離し、大正8(1919)年に優良品種と決定した「坊主1号」および「坊主2号」をはじめ、
 
②上川地方で明治年代から栽培されていた「チンコ坊主」から大正7(1918)年に系統分離を行い、
 
③大正13(1924)年に優良品種となった「チンコ坊主1号」および「チンコ坊主2号」、
 
④また大正7,8年ごろ永山村の小川鉄蔵が「チンコ糯」から選出して「小川糯」と称したものを用い、
 
⑤大正14(1925)年から分離育種を行って昭和5(1930)年に優艮品械とした「小川糯1号」など、[1]
 
これらは上川農事試験場が生み出したものですが、琴似の本場も負けていません。
 
⑥一方、本場で改良されたものでは、大正5(1916)年に坊主から系統分離を行い、大正8(1919)年に優良品稲となった「坊主5号」および「坊主6号」
 
⑦大正7(1918)年に改良糯から系統分離によって育種をはじめ、同12年に優良品種となった「改良糯1号」などがあった。[1]
 
上川農業試験場に「新しい分離育種法」がもたらされたからといって、上川盆地の農業者の品種改良の意欲が衰えたわけではありません。引き続き、優良な品種が次々と生み出されていきます。
 
⑧さらにこうした分離育種法と併行して、在来の品種選抜試験の方法で優良品種となったものでは、神楽村の栗柄嘉藤次郎が明治42(1909)年に「功主」から選出し、大正13(1924)年に上川支場で品種選抜試験に移したうえ、昭和2(1927)年に優良品極と決定された「栗柄糯」や、
 
⑨大正5(1916)年に上士別村の山崎永多が「島田群」から選出し、これも大正13(1924)年に上川支埸が試験に供したうえ、昭和2(1927)年に優良品種となった「山崎糯」などがある。
 
⑩そのほか優良品種にはならなかったが、上川地方で栽培されていたものでは、東旭川村の斉藤菊太郎が大正4(1915)年に在来「坊主」から選出し、大正11(1922)年から上川支場に移されたうえ、昭和3(1928)年にときの農林政務次官東武が命名した「音藤糯」などもあった。[1]
 
こうしてみると中山久蔵の「赤毛」を、上川農業試験場が改良して生まれた「坊主」という品種が北海道の稲作に決定的な役割を果たしたことがわかります。「坊主」は1~6号の派生を産み、さらに普及していきました。
 

 


【引用文献】
[1]『比布町史』1964・426-427p
[2]『琴似町史』1956・405-407p
①https://www.hro.or.jp/info_headquarters/domin/magazine/2011415.html
 

 
 
 

 
 

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