北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[札幌中央区]

山鼻屯田の泣血氈(きゅうけつせん)

 
 

 
これは何だと思いますか?
 
会津藩士丹羽五朗の自伝を紹介しているところですが、会津若松城が落城したとき、松平容保と松平喜徳は城を出て降伏謝罪状を官軍に提出しました。この伝達式のときに敷かれた赤布の切れ端=泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれるものだそうです。
 

【錦絵会津軍記】降伏謝罪状を持った松平容保公の下に敷かれた毛氈をきりとったもの①

 
会津藩では、この時の屈辱を忘れないように細断して家中に持たせました。そして会津旧士族はこの布を見ては当時の屈辱を思い出し、心を奮い立たせたそうです。『戊辰会津戦史』では下記のように書かれているところの「毛氈(もうせん)」の一部です。
 

清水、野矢、城中に入り、出城の時期なるを報ず。二公礼服上下を着け、小刀を佩い、草履を穿ち大刀は袋に入れ、侍臣をして之を持たしめ、家臣十人許礼服上下を着け、脱刀して従う。式場に至り、皆幕外に侍す。毛氈と薦(こも)と敷く。軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九之に列す。二公立礼して恭しく降伏謝罪の書を総督府に上る。[1]

 
これは山鼻屯田兵として入植した元会津藩士の家に伝わるもので、縁あって本日、見せていただきました。士丹羽五朗の連載のなかで奇縁を感じた次第です。
 


 

【引用出典】
[1]山川健次郎監修・会津戊辰戦史編纂会編集『会津戊辰戦史』1933・会津戊辰戦史編纂会
①八重のふるさと福島県 http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/battle-roujou2.html#prettyPhoto
 
 

 

 
 

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