北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ③

 

  

会津若松城、落城する

 

戊辰戦争最大の合戦、会津戦争で丹羽五朗は、籠城戦を決めた藩公松平容保から各地に散らばった将兵に城へ引き揚げるよう伝える伝令の任務を受けます。これが一段落したおり、生家から急報がありました──丹羽五朗の戊辰戦争その後半です。

 

■実父の自刃

白河城落城の報に接した丹羽五朗は、家財を藩に献上し、許嫁の豊子と結婚して、決死の決意を固めました。そうしたところに生家から急報が来ます。
 

続いて2日の、8月9日朝「花畑」の実家より飛報来る。日く父上御代官所に在りて、自尽せられたりと。当時父上は大沼郡野尻村の御代官たり。本地は越後口の間道にして、80里越と称する要路たり、この時、我が軍敗走し、数千の将卒俄然殺到し、糧食たちまち欠乏せり。[1]

 
五郎の父・丹羽族(やから)は、このとき現在の福島県昭和村野尻で代官を務めていました。ここは日本海岸の長岡と会津若松を結ぶ要衝です。長岡藩は会津と並んで戊辰戦争の激戦地なりました。
 

 
鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍が日本海沿いに東征し、長岡・新潟を伺うと会津藩は米沢藩とともに、同盟である長岡藩援護のために兵を差し向けます。しかし、7月29日、黒田清隆!率いる新政府軍に敗れ敗走。五郎の父が代官を務める野尻村に殺到しました。そして軍糧がたちまち尽きてしまうのです。
 

父上はすでに意を決し、属僚を指揮して、百方手配を講じ、その合間に何かを認めものをためし(遺書なりし)、従容として夜更まで鞅掌(おうしょう=忙しくはたらくさま)し、静かに室へ入り、脇差しをもって腹を割き、喉頭を搔切り、自害して職に殉ぜられたり。[2]

 
領地を預かる代官でありながら、友軍の兵士を飢えさせてしまった責任を取って丹羽族は切腹してしまうのです。
 

部民これを伝聞し、争そって米穀を搬出し、頓に潤沢となれりという。父上、時に54歳にして、敵軍若松城に迫れる17日前の8月7日なりき。[3]

 
代官の自刀を聞いた領民は、競って食糧を供出し、越後から逃げ延びた将卒は救われました。丹羽族の自刀がこのことを狙ったものかは分かりませんが、結果として将兵を飢えから救ったのでした。
 

■涙一滴流すことなく

父の突然の死を知らされた五郎ら家族はどう思ったのでしょうか?
 

この凶報の我が家に達するや、五郎は直に「おとな役」永山淳助(後ち弘道と改め、丹羽村に移住す)および若党1人を従へ、夜を日に続き、野尻村に到り、その遺骸を請け取り、駕籠に乗せ、また喪を徹して、若松に帰り、祖先の墳墓なる慶山の大龍寺に葬むれり。
 
このとき、猪苗代里田村の村民22戸、共同献金し、軍用金として、1000両を納入せり。けだし令祖父の退素(のきしろ)公の高恩に報いしなり。[4]

 
父の死を聞いた五郎は直ちに野尻村に向かい、遺骸を受け取り祖先の墳墓に葬ります。ここに出てくる「おとな役」は原文のママですが、年若い五郎を保護する立場の丹羽家の家臣でしょう。永山淳助は後に五郎の北海道開拓まで付き従います。
 

当時、四方の戦况不利にしていつ敵軍の城下に侵入するや知る可からず。城下に迫らるるの日は、すなわち、我が藩滅亡の時にして、吾人老幼男女の別なく皆国に殉するの覚悟なれば、今眼前に父上の遺骸を見もさほど悲しいとも思はざれば、我が母上、我が姉2人も、涙一滴すことなかりき。[5]

 
父の非業の死にも関わらず、遺体を前にして誰一人涙をこぼすことがなかったと言っています。会津藩の滅亡も迫る中、家族全員、殉死の決意を固めました。父はほんの少し先に行っただけという気持ちだったのでしょう。
 

また父上の遺書を見るも、当時何等の感じもなかりしが、戦乱平定の後にいたりては、これを読むは愚か、見るに忍びずして、久しく匣底に秘し置きしも、今回一大決心をして、札幌に持ち行き、丁重に表裝して、保存の道を講じたり。[6]

 
父は遺書を残しましたが、五郎がこれを読んだのは20年以上後、北海道開拓のために札幌に渡ったと時と言っています。
 

■五郎の決意

こうしている間にも戦局は日に日に会津に不利に傾きます。
 

8月7日、相馬藩敵に降り、同月21日、福島方面まで破れ、同日猪苗代城代高橋権太夫、見雨山の土津義神(潘祖正之公の)を奉し、城を焼き、若松に退く。
 
翌22日、朝五郎は容保公の御前に召され、親しく田島方面、山川大蔵の陣所にいたり、諸兵引き揚げ方の伝令を命ぜられる。[7]

 
相馬藩が新政府軍に敗れると、松平容保は若松城での籠城戦の覚悟を決めます。五郎は容保に呼び出され、各地に散った藩兵に引き揚げの伝令を命じられました。
 

五郎はただちに家に帰り、家人および永山、青山に左の後事を遺言したり。
 
(イ)敵兵城下に迫らは、古金銀その他貴重品にして携帯に便なるものは、携へ立ち退くべし。
(ロ)貴重なる刀剣類は家従家僕に佩用せしむべし。
(ハ)土蔵に目塗をし、決して火を放つべからず。
(ニ)婦女子は御城に入るべからず。何方なりとも避難すべし
とその他永山、青山を始め従僕の分与すべき金額を定め置きたり。
 
五郎は直に永山淳介1人を随へ、田島に行き、山川大蔵に君命を伝え、24日、本隊と共に入城し、復命したり。[8]

 
最前線を飛び回っての伝令です。五郎は殉死も覚悟しました。屋敷に戻ると、家人に自分の「命を守るための行動」を命じました。そして自身は若松城に入り籠城戦に参加するのです。
 

「会津戦争の図」①

 

■籠城戦の悲惨凄惨

こうして五郎は戊辰戦争の中でも悲劇に数えられる若松城に籠城するのですが……。
 

籠城中の記事は、本紙の紙数限りあれば、遺憾ながら省略す。[9]

 
籠城戦の模様を五郎は書き残していません。思い出したくない過去なのでしょう。
 
会津若松城の籠城戦は慶応4年8月23日から明治元年9月22日まで約1カ月続きました。籠城戦中の城内は凄惨でした。これは会津戦争の正史である昭和8年の『会津戊辰戦史』の記述です。
 

本丸の大書院その他金の問等は、蒲生氏の時に建築するものにしてすこぶる宏壮なり。敵の囲み受けしより、あるいは病室と爲し、あるいは婦人・子供を収容せり。 戦酣なるに及び病室はほとんど立錐の余地なきにいたり。手断ち足砕けたる者、満身糜爛したる者、雑然として呻吟す。
 
しかれども皆切爾扼腕、敵と戦わんとするの状を為さざるもの無し。しかして西軍の砲撃ますます苛烈になるに及びては、榴弾は病室または婦人室に破裂して、全身を粉砕せられ、肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。その悲惨凄惨の光景名状すべからず。[10]

 
会津若松城は、蒲生氏郷によって文禄元(1592)年に建てられた天下の名城です。しかし、築後300年、さしもの名城も新政府軍が持ち込んだ西洋式大砲の攻撃には耐えられませんでした。食糧は足りていたようですが、壁は脆く、城内にいても砲弾の雨にさらされたのです。
 
城下の町民も巻き込んで1万人余りの人々が城内に立てこもったと言われますが、さぞ突然天井を破って爆弾が降り注ぐのは、野外で戦うよりもはるかに恐怖だったでしょう。
 
そうしたなか、五郎は一つだけ籠城中のエピソードを書き残しています。
 

玆に一大快かな事あり。我が祖先の墳墓は城東小田山の山腹に在り、敵兵砲列をこれに敷き、城内を下瞰して、尽夜砲擊す。我が先祖の霊も憤怒せられしか、その日隅々城中より打ち出す弾丸、墓石に命中、粉砕して、敵兵数人を殺傷せり。[11]

 
敵の砲撃に怯える籠城戦ですが、城中より撃った砲弾が小田山山中に陣を敷いていた敵軍に命中し、損害を与えました。実は砲弾は丹羽家の墓石当たり、破片が敵兵を殺傷したと五郎は述べています。こうしたことで励まして籠城戦を戦い抜いたのでしょう。
 

■白虎隊の死闘

戊辰戦争で会津藩士は多くが犠牲になりました。中でも白虎隊の悲劇はよく知られるところです。『会津戊辰戦史』によれば
 

藩士18歳より35歳に到るを朱雀隊とし、50歳以上を玄武隊とし、16歳17歳を白虎隊となし、兵の不足を補う[12]

 
とあります。白虎隊は、鳥羽伏見の戦いの後に西洋式軍隊の必要性を感じた松平容保が組織したもので、当時17歳だった五郎の同級生たちでした。
 
この白虎隊は若松城で籠城戦では城外の遊撃隊として獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、衆寡敵せず。多くの少年たちが敵に討たれ、あるいは最後を悟り、自刃しました。
 

白虎隊は弾丸雨の如く下るを事とせず、皆俊敏に行動してよく射撃し、望月以下の将校もまた決死して戦う。
 
白虎隊士20人、城に入らんと欲し、間道より飯盛山に登る。ときに西軍本道の兵を追撃して城下に迫る。砲声地に震え、煙霧天を覆い、城外に火起こる。衆これを望み見て思えらく「城陥ち、君公難に遭う」と。
 
ここにおいて共に殉国を決し、すなわち国に向かい跪いて拝して曰く「臣等が事畢(ことおわる)」と。あるいは腹を屠り、あるいは耦刺(ぐうし= 二人がさしちがえて死ぬこと)して死す。[13]

 

明治初期の若松城。砲弾の跡が痛々しく残る②

 
会津藩重臣の当主であった五郎もまたこの戦争で多くの親族・友人を失うのです。
 

8月23日以来、藩士の死傷者460余人、家族の国離に殉せしもの230余人と称する。なかんづく伯父・入江庄兵衛は、23日、天神口の進撃に斃れ、従弟氷瀬雄二は有名なる白虎隊として飯盛山に屠腹し、母上の里、高木家は祖母、伯父、伯母、従弟等5人、入江より和田に嫁したる従姉、その他近親西郷頼母の家族、内藤助右衛門の一家ら皆その家に殉ぜり。[14]

 
前述した飯盛山で亡くなった20人の白虎隊の一人は、五郎の従弟でした。この飯盛山の悲劇を五郎は城中で聞いたでしょう。というのもこんなことがあったからです。
 

すでに藩士印出新蔵の妻、その子を孕めて山中に至り、死屍枕耦鮮血地に染まるを見る。中に一少年気息未だ絶えざるあり。これを負って帰る。これ飯沼貞吉なり。貞吉生気回復の後、つぶさに隊士殉難の状を語るという。[15]

 
五郎はこの飯沼貞吉の口から従弟の氷瀬雄二の殉死の様子を聞いたに違いありません。
 
松平容保に可愛がられ、側近として取り立てられなかったならば、五郎は間違いなく白虎隊として戦っていたでしょう。次々もたらされる友の、従弟の死を、砲弾降り注ぐ城内で五郎はどのような気持ちで聞いたのでしょうか。
 

戊辰戦争当時の会津若松城③

 

■落城 

こうして戦局は日増しに不利になり、ついにその日は来ました。
 

9月21日、夕刻にいたり、俄然伝はれり、日く「降伏」と。挙城悲憤驚愕。言うところを知らず。果せるかな憤慨の士、秋山左衛門、遠山豊三郎、庄田久右衛門らこれを聞きて憤死せり。[15]

 
と落城の時を五郎は「挙城悲憤驚愕」と書き残しています。会津藩の降伏はこう進みました。
 
同盟であった米沢藩は9月4日に降伏します。降伏にあたり新政府軍は、同盟諸藩を説得することを条件としていました。これを受けて米沢藩は若松城に書を送ります。そこには次のようありました。
 

東軍の賊視して共に戦うところの者は賊にあらずして、実に王師なり。越後口の総督嘉彰親王は錦の御旗を進めてすでに塔寺村に在り。之に抗するは痛恨に堪えず。速やかに降謝して朝敵の汚名を除かれ、昔日の皇恩に報いる所以にあらず。[16]

 
これを機に城を囲む新政府軍の主力土佐藩とやりとりがあり、ついに松平容保はこう言って降伏を決めました。
 

そもそも列藩同盟をして戦う所以のものは、君側の姦を除かんとするにあり。足下、西軍の為すところを見よ。民の財貨を奪い、無辜の民を殺し、婦女を姦し、暴虐極まれり。これ姦賊にして王師にあらず。ゆえに戦わざるべからず。皇国の臣民たる者、誰があえて天朝に抗せん。
 
聞けば仁和寺宮錦旗をすすめて塔寺村にありと。真に恐縮に堪えず。願わくは余を総督府の軍門に伴わんことを。余は親しく親王に閲し、仲訴して朝敵にあらざる事実を明らかにすることを得れば、降伏はもとより命のままなり。もし朝敵にあらざるの事実を明にすることを得ずばあえて命に従う能わず。[17]

 

松平容保・慶応3年4月頃④

松平喜徳・慶応2年12月、容保の世継となったときのもの⑤

 
降伏を決めた松平容保は罪人のように縄で縛られた姿で辱めを受けるのではないかと心配されましたが、新政府軍の主将・板垣退助は、容保、喜徳が君主としての格式を保ったまま城を出ることを許しました。降伏の願書を差し出す儀式が終わると、見守った家臣たちは
 

二公は式了る後、城中に帰り、重臣将校等を召して、その苦戦辛勤を慰め、決別の意を表し、然る後、城中の空井および二の丸の墓地に到り、香花を供して礼拝し、諸隊の前に到り、一体毎に辛勤の労を慰して決別を告げたるに、三軍の将卒皆、恨を忍び、涙を呑み、仰ぎ見るもの無し。[18]

 
であったそうです。なお、容保、喜徳両公が城中の井戸を巡ったのは、
 

敵弾に斃れる者相次ぎ城中これを埋めるところ無し。よって衣類にて遺骸を包み、城中の乾井に投じたるが、充満するに及び二の丸の梨畑に埋め[19]

 
ということがあったらかです。
 
一方、五郎は、
 

23日、城兵は隊を組み、米澤藩兵に護衛せられて城門を出て、天寧寺口より瀧澤峠の坂路を登りて猪苗代に到るや、両刀を取り上げられ、町の四方を警備せられて幽囚の身とはなれり。[20]

 
新政府軍によって囚われの身となってしまったのでした。
 
 

 


【引用出典】
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][11][14][15]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
[10][12][13][16][17][18][19]山川健次郎監修・会津戊辰戦史編纂会編集『会津戊辰戦史』1933・会津戊辰戦史編纂会
①https://ja.wikipedia.org/wiki/会津戦争
②徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館 
③山川健次郎監修・会津戊辰戦史編纂会編集『会津戊辰戦史』1933・会津戊辰戦史編纂会
④同上
⑤同上

 
 

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