北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ②

 

  

戊辰戦争勃発する

 

会津藩の武家に生まれた五郎は11歳で、代々会津藩の家老職を務めた丹羽家の養子となり、家督を継ぎます。そして17歳になった年、戊辰戦争が起こります。二本松少年、白虎隊など、同世代の青少年が多数犠牲になったこの戦争は、五郎の生涯に大きな影響を与えるのです。

 

■会津藩家老の家督を継ぐ 

五郎の父は名を族といい、母は茂子と称す。会津藩の世臣にして、録100石を領す。五郎は兄を失ひたる後に生れ、1家3児中、唯1人の男子なれは、父母の寵愛ひとかたならず。掌中の珠玉として愛育せられたり。[1]

 
丹羽五郎は、嘉永5(1852)年、会津城下の武家屋敷に生まれました。代々の会津藩に仕えた名門の長男として何不自由なく育ちました。
 

貧困というに非らずして、極めて円満なる家庭にして、家にー僕を養ひ、ー馬を飼う、いわゆる槍一筋の武士なり。[2]

 
五郎は10歳になると藩校の藩学新館に入学。学業も優秀で11歳で「大復」という称号を得ています。これは「この大復をためすは藩士のすこぶる名誉とためすところにして、常時金10両を要するため、ゆえに相当の資力ある藩士に非ざればこれを試すこと能わず」というものだったそうです。
 
そして文久3(1863)年12月6日、宗家の当主・丹羽堪解由公が病没します。「徳川幕府の掟に宗家の主人死亡して男子なき時は末家より相続せしむ」と慣例により、五郎は丹羽家の養子となりました。名家の跡取りになることですから、晴れがましいことのように思いますが、家族の絆、親子の情は今も昔も変わらないようです。
 

宗家の隠居起四郎公より、五郎をして宗家を相続せしむへ旨を厳達せられ、1家これを聞くや、 祖母上をはじめ一同一つ室に集り、皆々涕泣して、悲嘆夜を徹せり。明くれは12日の朝、五郞は喪服を着け、大なる菅笠を冠り、ー僕を従え、父に伴はれて悄然暇を告け、家を出つれば、祖母上はじめ皆々門を出て、五郎の後姿の見ゆる限り見送られたり。
 
あたかも秘蔵「息子」の葬式の如し。中でも母上の悲嘆と落胆とは、ほとんど人生の極度に達し、掌中の珠玉を奪われしの比に非ず。五郎はこれを思うたびに60余年前の実況、今も眼前に映し、母上の哀情恐察に堪えず。[3]

 
こうして五郎は代々会津藩の家老職を務める家禄1000石の主人となりました。丹羽家の世継となった後も藩校で勉学に勤しみ、16歳で「大學」の試験に合格します。といっても今の大学ではなく、藩校の資格で、論語、孟子、近思録、史記、漢書の古典を収めたことを証するものです。
 

会津藩家老・西郷頼母の屋敷を中心にした「会津武家屋敷」。丹羽五朗の邸もこのような邸宅だったと思われます①

 

■戊辰戦争の勃発

前途洋々、会津藩の重臣として将来を約束された丹羽五郎でしたが、明治維新の動乱は五郎を容赦なく飲み込みます。
 
慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は京都二条城で大政奉還を宣言します。これにより300年続いた徳川幕府は終焉を迎えますが、慶喜は最高権力者としてなおも京都に君臨しました。これを面白くない薩長勢力は12月9日、王政復古を宣言して慶喜から政権を奪います。こうして両勢力が鳥羽伏見で激突し、戊辰戦争が起こります。
 

慶応4年(明治元(1868)年)正月3日幕兵、会兵等薩長と伏見・烏羽に戦い、6日にいたり大敗し、慶喜公(前将軍)、保容公(藩主)ともに軍艦回陽丸に搭乗し、江戸城に帰る。容保公は4月16日会津に帰らる。

 
 

松平容保②


ここに出てくる徳川慶喜と松平容保については、
【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (1)で紹介しました。松平容保は幕末の政局で江戸幕府京都守護職を勤め、後に新撰組につながる浪士隊を組織するなど尊攘派の弾圧の中心だったことから薩長軍の恨みを買い、江戸城無血開城の後、松平容保討伐が戊辰戦争の目標となったのでした。
 
この松平容保は戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽伏見の戦いの後、最後の将軍、徳川慶喜と行動を共にしますが、家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲って、自身は江戸を脱出し、会津に戻ります。(丹羽五朗の自伝では4月となっていますが、今の歴では2月です。この自伝の月日表示はすべて旧暦です)
 
江戸城を手中に収めた新政府軍は仇敵の居城を目指して北上と続けます。この時、松平容保は家臣の命を救うため降伏嘆願書を提出しました。しかし、新政府軍の参謀で長州藩士の世良修蔵はこれを拒否しました。横暴な世良修蔵は仙台藩士に殺害され、戦争は不可避となりました。
 

この時、国許にては戦備に汲々とし、五郎等は幕臣沼守一に従い、日々、三之丸にて仏式の練兵を習い、一藩人心恟恟(きょうきょう=恐れおののくさま)たり。[4]

 
この時、丹羽五朗は17歳。フランス式の練兵を習った──とありますが、戊辰戦争時にフランスが幕府方を支援したことは知られていますが、奥州の内陸部までフランスの影響力が及んでいたことに驚かされます。
 

新政府軍の進路③

■白河口の戦い

閏4月23日、仙台・米沢藩の呼びかけで白石城で会津救援のための「奥羽列藩同盟」結成。奥州25藩、越後5藩の大連合がつくられます。関東から北上した新政府軍は会津の南玄関に当たる白河城(福島県白河市)へと向かいます。列藩同盟は新政府軍管下の白河城を閏4月20日を占拠します。
 
しかし、5月1日、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍約500人を奪い取ります。この後、同盟軍は城を奪い返そうと激しい戦いが100日以上にわたって展開されますが、奪還は果たせませんでした。
 

5月1日、奥羽咽喉の要地たる白河城を敵軍に奪取せられし以来、我軍毎戦利あらず。これにおいて6月中旬、喜德公(容保公の嗣子)白河口の福良に出張せらる。
 
五郎これに伝従し、御使番を命ぜられ、常に君側勤仕の御小姓、御供番等に仏式の兵法を教授し、また白河口および大寺口の戦况視察を命ぜられ、7月下旬喜徳公に従い、若松に帰れり。[5]

 
1000名以上の戦死者を出し、戊辰戦争の天王山と呼ばれた白河城攻防戦の最中、丹羽五朗は、松平容保より家督を譲られた会津藩9代目当主・松平喜徳に付き従うように命じられます。松平喜徳は容保の養子で、常陸国水戸藩主・徳川斉昭の十九男。15代目徳川将軍徳川慶喜の実弟です。
 

爾来、数回激烈なる争奪戦あり。6月23日、棚倉城破れ、7月13日平城陷り、同月25日要地本営は敵に攻取せられ、同月26日3春藩士、河野広中等、幼主秋山万之助と軍門に降り、同月29日、二本松城ついに落ちる。[6]

 

再建された白河小峰城城郭④

 

■五郎の決心

5月1日、白河城が新政府軍の手に落ちたことで戦局は大きく新政府軍側に傾き、会津藩の諸城は次々に陥落していきました。7月29日に落城した二本松城は福島県二本松市にあった二本松藩の城で、藩主の丹羽長国が脱出した後、後に二本松少年隊と名づけられた12歳から17歳の少年兵が多数犠牲になる悲劇がありました。
 

二本松少年隊群像⑤

 
いずれも当時の丹羽五朗と同世代です。こうした報は五朗も届いていたのでしょう。決心を固めた五郎はある行動に出ます。
 

かくごのごとくにして敗報頻りに到り、五郎は亡国の日に近づきたるを知り、ついに決心する所あり、蔵する所の銅鐵の器物はことごとく弾丸用として藩庁に献納せり。
 
この兵馬倥忽(こうそう=あわただしいさま)の際、 8月7日豊子と結婚式を挙く、けだし「おとな役」(現今の執争)永山乙之助、青山藤五郎等の進言によりしならん、機宜の所置というべし。[7]

 
各戦線での敗走の報に接し、五郎は伝来の鉄類をすべて藩に献上するとともに、許嫁の豊子と結婚式を挙げるのです。
 
 

 


【引用出典】
[1][2][3][4][5][7]C『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団・79-82p
①会津若松観光ナビ https://www.aizukanko.com/spot/46
②徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館 
③https://ja.wikipedia.org/
④白河市公式サイト http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page000138.html
⑤幕末維新写真館 http://www.jp-edo.info/castle/196.html

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。