北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

道路は明治五年、室蘭の方から開かれ、月寒坂上の道路は明治六年に出来たのである(明治6年にできた函館と札幌を結ぶ「札幌本道」)。この頃の月寒坂は急坂で左から右へ回って上り、今の道路の西の方を通った。開墾地の割当ては月塞坂上の道路の左右両側を間口四○間・奥行三七間、面積一万五千坪づつに区分し、これくじで割り当てた。しかし奥行はその人の努力次第で与えられた。
 
家用の用材はひのき材を切りこんだもので、石狩川を舟に積んで上り、茨戸からいかだに組み、運河莅馬でひき、創成川に上がって来たものである。創成川は物資輸送のため開拓使が茨戸から開削したいわゆる運河であった。
 
この開拓移民はかくして家、農具、なべ、かまを与えられ、耕馬は一頭三円位で払い下げを受け、三年間の扶持もらった。玄米で大人七合五勺、中人五合、小人三合の割合であった。
 
月寒開基百年之碑

月寒開基百年之碑(写真出典①)

開墾当時は道路の東側には、やちだも、くるみ、などが生え、西側には、なら、いたや、あさだ、しな等、うっそうと茂っていた。それで炭焼きを主業とする者が多く、開墾に従事する者が少なかったので、一反歩開けば反別料と称して金二円ずつもらった。また特別に勤勉な者で三町歩以上起せば農具一式を下附された。
 
開墾係の役人が常に巡回して歩き、また村には副戸長という役人をおき、その下に伍長二人をおいて監督に当らせた。伍長は、午前一○時と正午の休みに拍子木を打ちならして巡回した。一時の仕事始めの拍子木をたたくと、皆が寝ぼけ顔して木の根を掘ったものだ。
 
開墾係のお役人で荒川金助、齊藤実明、駒木某などという人が来て、炭焼きばかりして開墾がはかどらなかったので、炭焼を禁ずる布令を出したこともある。焼いた木炭は札幌に持って行って売り、小遣いをもうけたものである。
 
開拓民の中にはいろいろいて、まじめに働く者もあれば怠け者もおり、もらった玄米で濁酒を造って飲み、けんかをする者もあり、悪戯をする者もあった。井出政文という役人が怠け者に七合五勺の扶持を五合に減らしたこともあったが、また復給してくれた。こうして三年を過し、扶持が下らなくなってからは、それぞれ土地を二○円とか二五円とかに売って他に離散するものが出てきた。
 
私たちと一緒に入地した吉田七蔵の一家は、毒きのこを食べて一家全滅したが、これは全く気の毒であった。野鹿は夜間に出没して草を食べ、昼はどこともなしに姿を消したものだ。
 

開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡(写真出典②)

その外いろいろあるが、明治七年の三月(実際には2月8~10日、中規模のマグマ噴火があった)まだ雪のある頃である。樽前山が噴火し、一週間ほどの長い間、火を吐き、火山灰を降らした。恵庭、千歳に灰が四~五尺も積ったのを見た。これはその年、父と供に島松川を下り、千歳川に行ったときだった。その時、美々(現・苫小牧市美沢)で開拓使が鹿肉の缶詰を製造していた(開拓使美々鹿肉缶詰製造所[明治2年~17年]のことと思われる)。
 
焼山(札幌市南区)の山火事は、貯水池の辺で明治七年には二週間も焼け続け、明治一六年に第二回の山火事が起こり、この火事には我々は二~三日も義務的に駆り出されて消火に努めたが、後になって誰も出る者がいなくなり、お上で人夫を雇って消火したこともあった。
 
厚別では今の小学校のところに三年間の扶持をもらって中西安蔵という人が休泊所を営んでいた。
 
その頃の札幌には見苦しい小屋がたくさん建っていた。これには開拓使から土地を与えられ、小屋料として一五○円を附されたが、中にはこれに応ぜず、再三催促しても改築しようとしない者の小屋には火をつけて焼き払った。(明治5年4月に開拓使判官岩村通俊によって行われた「御用火事」の貴重な証言)
 
豊平川には相当のさけが上って来て、一尾四銭くらいで一束二○尾を八○銭で買うことができた。
 
明治四年四月、四四戸が月塞の草分けとして入地してから七○年になるが、世が移り、当時の人はほとんどいない。今この近在に残っているのは、古田善治、似鳥仁太郎、長岡重治、岡田駒吉、高屋善次郎、岩瀬末治、中田市之助などの子孫だけである。
 
明治4年月寒移住者

明治4年月寒移住者(月寒町史801p)

 

明治最初期の「保護移民政策」時代は移民に対して数々の特典が与えられたというのは本当でした。こうしたことと衣食住が提供された屯田兵とあわせて、「政府による過度な保護政策により、未開の地を切り開くという勇ましさは失われ、官に依存する体質を植え付けていた」という感想も生まれてくるのでしょう。たしかに月寒の南部団体はあまり勤勉だっとは言えないようです。 開墾地も間口だけ決められて奥は開拓者の成り行き任せと、後の時代とはだいぶ違います(『開拓入門講座ー開拓区画』参照)。
 
岡田さんの回想録にもあるように月寒の入植者の大半は農地を譲り渡して転職しています。このことをもって初期の士族入植が失敗だったという指摘も見ますが、それは一面的だと思います。かつて仙台片倉家の家臣が移住した白石の歴史を調べたことがありますが、白石でも士族入植者は、道都札幌が成長するに従い、公官庁、企業に吏員・事務職として迎えられ、農業から離れていきました。(このあたりは中濱康光氏の『士族移民 北海道開拓使貴属考1・2』2004・自費出版に詳しいです)
 
士族出身者は読み書きの素養があり、事務能力も高いため、ホワイトカラーが不足する開拓地北海道でディスクワークを提供する貴重な人材として活躍したのです。失敗というよりも役割の交代と言うべきでしょう。
  白石、そして月寒でも士族が開いた耕地は、東北・北陸出身の農民に買いとられていきます。彼らが今に続く白石、豊平の基盤をつくります。
 
ps 最後まで残った南部入植団に似鳥仁太郎さんという方がいますが、珍しい名前で、家具チェーン「ニトリ」の創業家と関係があるのでしょうか?
 

 
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【出典】
『月寒町史』1959・豊平町役場
【写真出典】
①月寒公園HP>公園について https://tsukisamu-park.jp/about/
②苫小牧市役所HP>教育・文化・スポーツ>生涯学習の>文化イベント、文化財など>文化財に関すること> 苫小牧の文化財>開拓使美々鹿肉缶詰製造所跡 
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunka/bunkazai/shinobunkazai/bibisikaniku.html
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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