上富良野
田中 常次郎

富良野盆地開拓発祥の地碑(写真出典①)
「草分けの人々」の最初は1872(明治5)年の士族移住でしたので、第2回は北海道の開拓者らしい開拓者をご紹介します。富良野盆地の草分けの人・田中常次郎です。昭和42(1967)年発行の『上富良野町史』は、常次郎の北海道開拓に強く共感してもらいたかったのでしょう。町史には珍しいドラマ仕立てで、常次郎の入植を伝えています。漢字を平仮名にしたりと読みやすく調整しましたが、ほぼ町史の通りです。田中常次郎の顔写真が残されていないのが残念ですが、私たちはこうした人たちの子孫なんだなぁ──と思うと元気が出ます。
■常次郎、行方不明になる
明治29年7月27日の夜のことであった。三重県安濃郡安東村字納所(現・三重県津市安東町)の田中常次郎の家の茶の間である。
ひさ:お父さんはなぜ帰って来ないのだろう。
夫人の「ひさ」さんは家族の者を見渡しながら口をきった。
満太郎:友人に頼まれた地形上の問題で独り身で田町まで行ったんだが遅いなあ
長男の満太郎もまゆをくもらせた。家族の者は炭火をかこんで待っていたが、父はついに帰らず、翌朝になって1通の電報がおくられてきた。
「ホツカイドウニユクシンパイスルナツネジロウ」
ひさ:とうとう行ってしまった。
満太郎:お父さんが北海道へ・・・。
安政5年2月生れの田中常次郎は、9歳のとき母の「いを」の死に逢ったので、不遇の中で育ってきたが、青年以来、拓北の志は止むにやまれぬものがあった。
その頃すでに三重県からは明治25年に北海道の幌向(岩見沢市幌向)に団体移民が行っており、明治27年には滝川線平岸(現・赤平市平岸)にも三重団体が組織されて、北方開拓の気運が次第に高まっていたからである。田中常次郎もこの時、一緒に行きたくてしかたなかったが、親類がこぞって反対した。
××:北海道は流罪人の行くところだ、そんなところにやってたまるか。
○○:熊というものが出て人間を引きさいて食べてしまうそうだ。
△△:何でも寒くて寒くて小便が棒の様に氷るから、小便棒という鉄の棒を持ってたたき折るという話だぞ。
こんな調子であったから常次郎は家族の者には知らせないで、ただ1人北海道に向ったのである。
この納所というところは津の街と川を一本で境界になっている半農半商の土地だった。
ひさ:よほどかたい決心で出かけたと思う、帰らないかも知れない、熊が人を喰うというけど・・・。
満太郎:年来の希望に向っていよいよ踏み切ったんだ、きっとそうだ。
電報を見て家族の者はみんなそう思った。
■拓北の魂と魂はかたく結ばれた
流罪人でなければ行くところでないと親類からひきとめられた田中常次郎は幌向の三重団体まできた。団体長の板垣贇夫(よしお)※に会って燃えるような新天地への希望をのべたところ、心と心が通じ合って早速引き受けてくれた。
板垣贇夫はここに碑がのこっているほどの開拓功労者である。拓北の魂と魂は石狩川の岸辺にかたく結ばれた。
こうして10日か15日ほどの短かい北海道の旅を終って常次郎は家族の心配して待っている故郷に帰つたのである。
××:田中が帰ったという話だ。
○○:北海道に行って三重団体を見て来たという話だ。
△△:熊に食われないで帰ったという話だ。
たった10数日の旅の土産話が次から次へと伝わり、三重県の各地から移住の希望者が次々と集まり、ついに38戸にもなったのである。
申し込みが多くなったのは常次郎にとって味方が増えたようなものであった。うれしくてたまらなかったが、ここにまた困ったことが1つ起った。彼が板垣贇夫に頼んできた土地は自分が入殖する1戸分と、その他に1戸分だから、集ってきた人の分はないのである。
困ったことになった、どうしたらよいか──。幾日も考えた彼は次第に1つの決意を固めたのである。自分も他人も希望は同じだ。みんなの分も何とかしよう──と思ったのである。
常次郎の故郷の津は昔から「伊勢は津でもつ」と歌われたところで生活の派手なところであった。百姓でさえ稼ぎにゆくときは外出用の晴衣を着て出かけ、途中で着替て野良仕事をし、帰りにはまた着替て下駄ばきで帰るという風だったから、労働を嫌う風習があり土地は年々商人の手に渡っていた。
常次郎は1つの悲願を胸に抱いて再び北海道に渡ったのである。9月の末になっていた。すでに晩秋の景色の漂っている幌向原野に到着して、各地を探したが、ここには38戸の入殖する土地はすでになかった。
板垣:38戸の土地はもうここにない。
田中:困りましたね。私だけよければよいのでない、みんなの希望もかなえてやりたい。
板垣:聞くところによると、富良野原野には有望な土地があるそうだから行ってはどうかね。
田中:空知川の上流だね、行こう! 男だ! 男が決心しての大事業だ! 手続を頼む。
常次郎は富良野原野に5町区画の土地、80戸分の貸下げ認可を受けて、再び故郷に帰るとき「トウキビ」と「馬鈴著」をこうりに1杯つめて持ち帰ったが、この土産が再び移民熱を高めることになったのである。
※ 板垣贇夫は旧藤堂藩士。板垣家は江戸藩邸の留守居役などの役職を務めた禄高450石ほどの中堅家臣であった。維新後、帰農した板垣贇夫は明治23年には「岩田農業組合」を組織して組合長に就任し、北海道への移住組合を立ち上げ、明治26年から明治28年にかけて南幌に入植した。この組合による団体移住は、現在の赤平市、苫前町、上富良野町にも行われ、合計270戸余に及んだ[1]。南幌町には「三重自治区」として面影が残っている。
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【出典】
『上富良野町史』1967・豊平町役場
【註】
[1]集まれ!北海道の学芸員HP>地域の遺産 » 地域に残る北海道移住の「記憶」:空知郡南幌町の事例から【コラムリレー第14回】
http://www.hk-curators.jp/archives/2509
【写真出典】
①上富良野長HP > 組織 > 教育委員会 > 社会教育班 > 町指定文化財 > 憩いの楡 http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/index.php?id=2056