北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道神社仏閣由来

[函館] 函館八幡宮と菊池重賢

 

あけましておめでとうございます。

目前に迫る北海道百年記念塔解体予算上程を少しでも阻止しようと前年12月は姉妹サイト「北海道百年記念塔ファン」の更新に時間を費やしましたが、北海道開拓倶楽部は本年も元気に北海道開拓の歴史を発信していきたいと思います。新年元旦は初詣のお供に道内神社由緒を紹介しています。札幌、旭川と来ましたので今年は函館の函館八幡宮です。

 

①函館八幡宮

 

 

■南北朝時代に創建

「函館八幡宮」の創建は今からおよそ576年前の南北朝時代です。社伝によると
 

後花園天皇文安2(1445)年亀田郡の領守河野加賀守政通が、函館に館を築いた時、その東南の隅に八幡神をお祀りしたと伝えられ、それは現在の元町、公会堂前あたりであったと言われている。永正8(1511)年、河野一族蝦夷に館を陥され、亀田郡赤川村に動座、慶安年間巫女伊知女が赤川村より凾館元町に奉遷、寛政11(1799)年幕府は東蝦夷を直轄とし、奉行所を置くに至り、本宮はその用地なるを以て文化元年幕府の費用を以て会所町に奉遷、明治13(1880)年更に谷地頭に奉遷申し上げ現在に至っている。[1]

 
鎌倉末から南北朝・戦国にかけての動乱の余波を受け、渡島半島に渡った「渡党」と呼ばれる士族が渡島半島南部各地に「道南十二館」と呼ばれる砦を築き、勢力争いを繰り広げました。河野政通もそうした一人で、現在の函館市元町一帯を領有していました。享徳3(1454)年に南部氏との戦いに破れた安東政季に付き従って蝦夷地に渡りました。
 
そして河野政通は今の函館に居を構えたとき氏神様として祀ったのが「箱館八幡宮」(明治2年からは函館八幡宮)の起こりとなったというのです。しかし、『函館市史』には「『福山秘府』には『造立相知れず』と記されている」とも紹介しています。いずれにせよ北海道で最も古い神社の一つであること違いありません。祭神は品陀和気命、住吉大神、金刀比羅大神です。
 

■蝦夷地惣鎮守

箱館八幡宮は道南地方に多くある社の1つでしたが、この神社が大きく発展する契機が文化元(1804)年の函館奉行所の設置です。寛政元(1789)年、ロシアのラクスマンが女帝エカテリーナの書状を携えて蝦夷地に来航するなど北方情勢が緊迫化すると、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄地にします。そして行政府としての「箱館奉行所」を置きました。この時、箱館八幡宮の場所が選ばれのです。
 

箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町に遷宮された。ときに官では造営資金100両を贈るとともに、以後年々米20俵を支給することにした。また羽太、戸川の両奉行は弓矢、甲胃、額などを奉納した。[2]

 
箱館八幡宮は境内を奉行所に譲って移転する代わりに、幕府から手厚い保護を受けました。奉行所の祈願所となったことから、自らを「蝦夷地惣鎮守」と称し、道内では抜きんでた存在となります。
 

②文久年間の函館八幡宮

 

■箱館戦争と八幡宮遊軍隊

箱館八幡宮は北海道の総鎮守として明治維新を迎えます。しかし、北海道が本格的に明治維新を迎えるのは都府県よりも1年後。旧幕府海軍副総裁榎本武揚が新政府に反旗を翻して箱館を襲うのです。この箱館戦争で函館八幡宮は新政府軍側に立ち、戦争の帰趨を決める重要なはたらきをしました。
 
明治2(1869)年5月11日、新政府軍の黒田清隆率いる遊撃隊が夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸。箱館山をよじ登って明け方までに占拠しました。この奇襲攻撃は決定的で、戦局は新政府軍側に大きく傾きました。この時、八幡宮の神職・菊池重賢は遊軍隊を組織し、黒田清隆の奇襲部隊の手引きをして勝利に貢献しました。この遊軍隊は箱館八幡宮に残された「賞賜禄」では113人と1団体といい、榎本軍の下役や隊士として潜入して隠密行動を行った者もいたそうです。
 
5月18日、榎本武揚らが投降し、箱館戦争は終結。蝦夷地から改められた北海道を統治するため開拓使が置かれます。9月25日、イギリス船テールス号に乗船し東久世通禧開拓使長官、島義勇判官、岩村通俊判官、松本十郎判官、竹田十右衛門判官、得能恭之助権判官ら開拓使首脳、官員約100人と根室方面に向かう開拓移住民200人が函館港に上陸します。
 
函館港に立つと東久世長官はまっすぐに函館八幡宮に向かい、菊池重賢と会いました。菊池重賢は長官のために自宅を宿舎に提供します。こうして仮の開拓使本庁が函館に置かれると、
本府建設の命をうけた島義勇は札幌へと向かい、松本十郎、竹田十右衛門判官もそれぞれ根室、宗谷へ出発しました。東久世長官は明治2(1869)年9月25日から明治4(1871)年4月19日まで函館で北海道開拓の指揮を執りました。
 

■北海道の神社制度を確立した菊池重賢

明治初年の北海道史において重要なはたらきをした菊池重賢は函館市史によると、
 

菊池は天保4(1833)年9月19日京都下加茂、玉田家の四男として生まれ、嘉永6(1853)年3月箱館八幡宮神官菊池家々督を相続した。札幌神社創建に参画し、明治4(1871)年同社権禰宜を命ぜられ、翌5年権宮司、さらに明治6(1873)年宮司に累進、政治的手腕にすぐれ、政教一致、教化運動に活躍し、北海道における神社制度確立に大きな貢献を残した。[3]

 
さらに「札幌八幡宮」の公式サイトによれば、菊池家は「代々神職の家系で、その歴史は初代菊池伊知女から350年余りにわたります。菊池伊知女は函館八幡宮に奉職、その後宮司となり、11代菊池出雲守重賢の代まで続きました」とあります。
 
その後菊池家は、肥後守護職であった二十六代・菊池四郎吉宗の代に「大友義鎮の天文の乱に敗れ、肥後を脱して南部より蝦夷の内浦岳」に移ったそうです。菊池重賢はこうした由緒を持ち、代々函館八幡宮の神職を務めてきた菊池家に嘉永6(1853)年養子として迎えられたのです。
 
札幌神社は明治4(1871)年9月14日に仮宮から現在地への遷宮式が行われていますが、この祭式を執行したのが菊池重賢です。札幌神社の造営、祭祀にも菊池のすぐれた経験が活かされたことでしょう。
 
事実菊池は、そのまま札幌神社の2代目宮司、初代の宮司に任命された者が札幌に赴任しなかったため、事実上の初代宮司となりました。菊池重賢は島義勇と並ぶ北海道神宮の創建の功労者なのです。
 
その後、菊池重賢は、明治15(1882)年、札幌神社宮司を辞して札幌八幡宮の前進である金刀比羅教会を建立しています。この教会は、十四代菊池重武の代に北広島輪厚に移転、「札幌八幡宮」となりました。この他、菊池重賢は開拓使の神祗官として、明治初期の道内神社制度の確立に多大な貢献をしました。
 

③菊池重賢

 
札幌八幡宮の公式サイトではこう紹介されています。
 

十一代 菊池出雲守重賢
従五位下、法令大神主号拝命、文久二年秋葉大権現の御神体を賜はる。開拓農民の飢饉、疫病を防ぐため力を尽くす。当時国際情勢緊迫の折柄、尊皇を説き、函館戦争には勤皇隊のかげに回り島民のために尽力。札幌神社(現北海道神宮)二代宮司に就任、明治十五年札幌神社を辞し、教導職となり、神道布教に活躍。明治三十三年帰幽七十歳 [4]

 
菊池家の末裔は今も札幌八幡宮の神職を継いでいます。
 

④北広島輪厚の「札幌八幡宮」

 
 

■北海道総鎮守ををめぐる争い

札幌神社の北海道神宮の創建に多大な貢献をした函館八幡宮ですが、札幌神社(後の北海道神宮)が開拓三神をいただいて勅祭され、北海道総鎮守の地位を与えられようとうすると、函館八幡宮も黙ってはいません。函館八幡宮は札幌神宮と同格またはそれ以上の待遇を開拓使に求めました。
 

明治4(1871)年12月のことであるが、開拓使は神祇省に対して、「函館ハ神奈川・神戸・長崎・新潟等と同じく一県ノ体裁なり、県名無之と雖も管内最信仰ノ社を以て県社ニ唱可然哉」(「開公」5712)というように、函館の神社=県社と見なしてはどうかと伺うほど、社格問題については摸索の状況下にあった。
 
こうした開拓使においてすら、確かなる社格のイメージを結びえず、函館の神社=県社などと右往左往しているのであるから、当の函館八幡宮などが「箱館惣社」=「蝦夷地鎮守」という古層の伝統意識をふりかざしながら、札幌神社と同等の扱い、否、それ以上の待遇を要求することは、いとも当然のことであった。[5]

 
函館八幡宮と札幌神社の間で激しい社格争いが繰り広げられました。そして明治6(1873)年、争いは次のように決着を見ました。
 

幕末以来、「箱館総社」=「蝦夷地惣鎮守」と声高らかに唱えてきた函館八幡宮が、内なる社格争いにおいては「函館崇敬社」の社号を付与されつつも、札幌神社との外なる宿命的な社格争いにおいては、旧来の称号を全廃するよう命じられたのである。
 
この函館八幡宮の「惣社・鎮守」称号廃止のもつ意味は決して小さくない。なぜならば、この函館八幡宮の称号廃止は、1社の称号廃止を超えて、近代北海道の神道界のタテなる序列が不動のものとして決定づけられたことを意味したからである。
 
近代北海道の神社の世界は、札幌神社を頂点にして、タテに連なることを政治的に序列付けられ、近世以来の在地的主張は一掃されたのである。時に明治6(1873)年のことであった。[6]

 
北海道の総鎮守は札幌神宮であることが確定しましたが、開拓使は函館八幡宮の立場を尊重し、同宮を「崇敬社」に推しました。「崇敬社」とは、神社本庁の説明によれば、
 

全国の神社については、皇祖こうそ天照大御神をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、このほかを「氏神神社」と「崇敬神社」の二つに大きく分けることができます。氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方を氏子と称します。元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいました。これに対して崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。[7]

 
函館八幡宮は開拓使によって、一般的な氏神様ではない特別な神社であること認められたのです。このことにより、函館八幡宮は明治の社格制度において、明治10(1877)年に国幣小社に列格し、同29年10月19日国幣中社に昇格。すなわち国立の神社となったのです。
 
同じく国立の神社に神祇官が祀る官幣社があり、まとめて「官国幣社」とも呼ばれますが、道内には官国大社の札幌神宮と函館八幡宮の2宮しかありません。北海道神宮と函館八幡宮はかくも数奇な運命で結び付いているのです。
 
 


【引用出典】
[1]北海道神社庁公式サイト>北海道の神社>函館八幡宮 https://hokkaidojinjacho.jp
[2]『函館市史 通説編1』1980・535p
[3]『恵山町史』第7編宗教・2007・1363p
[4]札幌八幡宮公式サイト>札幌八幡宮についてhttps://sapporohachimangu.com/about/
[5]『函館市史 通説編2』1980・1331p
[6]『函館市史 通説編2』1980・1334p
[7]神社本庁公式サイトhttps://www.jinjahoncho.or.jp
①北海道神社庁公式サイト https://hokkaidojinjacho.jp
②『札幌神社史』1959・8p
③④札幌八幡宮公式サイトhttps://sapporohachimangu.com/
 

 

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