北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

札幌市

北海道神宮創建秘話
(上)

 

本年は「北海道神宮創建150年」に当たります。もう年末でありますが、年末特集として「北海道神宮創建秘話」をお届けします。本サイトでたびたび紹介しているように、北海道の開拓者は開墾が一段落すると最初に建てたのは神社でした。そうした北海道に多数ある神社の頂点に立つ北海道神宮はどのようにつくられたのでしょう。そんなことを知ると、初詣もいつもと違うものになるかもしれませんね。
※少々マニアックな話をしますので、背景理解としてぜひコミック版『島義勇伝』(エアーダイブ著・2014・Dybooks)をお読みなられることをおすすめします。電子書籍でスマフォでも読めますし、本サイトよりずっと面白いですよ
 

 

北海道神宮(出典①)

■北海道神宮創建は9月1日

北海道神宮の前身である札幌神社がどのように創建されたのか見ましょう。まずは『札幌市史』です。
 
明治政府は成立直後の慶応四年(一八六八)三月に神祇官を設置し、同月、神道を確立するためいわゆる神仏判然令を布告し、これまで長く続いてきた神仏混淆の整理を命じた。さらに政府は全国の主要神社の社格を定めるなど、神社に関する国家的統制がその緒につき、しだいに整備されていった。
 
一方、開拓使設置当時、現札幌市域内の社寺は、発寒村の稲荷社、篠路村の八幡社、それに札幌村の妙見堂の三つの小祠があるだけであった。しかし札幌本府が創建され、さらに周辺にも移民が招来されて次々と村落が設立し、札幌が北海道開拓の行政的中心に位置づけられたことによって札幌神社が創置され、その他本府、村落部にいくつかの小祠が創建された。
 
『札幌市史』は「札幌が行政的中心に位置づけられたことによって創置」されたとしか述べていません。これではわかりませんね。続いて昭和34年の『札幌神社九十年史』を見ましょう。「由緒」として次のように記されています。[1]
 
札幌神社は、明治天皇が未開地蝦夷の開発殖産人民守護のための御聖盧によって御鎮斎せられた神社である。即ち明治二年九月一日勅使を神祇官に御差遣、三柱の神々を御鎮斎になり、神祇伯中山忠能が斎主を奉仕して、開拓使長官東久世通禧外官員参列のもとに新開拓地の創祀を見たのである。[2]
 
だいぶ詳しくなってきました。明治天皇の「御聖盧によって御鎮斎せられた神社」であることがわかります。「御鎮斎」とは分かりやすくいえば「神おろし」です。すなわち明治2年9月1日、「三柱の神々を御鎮斎」されたときが、札幌神社ならびに北海道神宮の創建日にあたります。今年(もうすぐ終わりですが)は創建150年にあたるのです。
 

■鳥羽・伏見の戦いの2カ月後に

札幌神社は皇居外苑にあった神祇官の庁舎で行われた「御鎮斎」によって創建されました。このことが日本に八百万ある神社の中で北海道神宮をとてもユニークなものにしています。
 
 そもそも日本の神社は古来よりそこに〝あるもの〟で仏教寺院や教会のように新たに健立されるものではないのです。しかし、札幌神社には神社をゼロから誕生させるという特異ななりたちがありました。明治になり神道の復興がすすむと新たにつくられる神社も出てきましたが、その創設の祭祀は神社が建てられる場所で行われるのが通例です。北海道神宮のように神祇官の庁舎で行われた例はこれ以前にないそうです。
 
『北海道神宮史』によってもう少し詳しく創建の経緯を追ってみましょう。札幌神社の創建が最初に議論されたのは明治元年3月のことです。
 

鳥羽伏見の戦い(出典②)

明治元年三月九日、京都の新政府においては、北海道の開拓をめぐり明治天皇の御諮詢があり、有司の奉答が続いた。正月に鳥羽・伏見会戦があり、二カ月の後日であるが、新政府は早くも開拓に関心を向けた訳である。そして、その有司の上申書の中には、唯一例であるが、北海道に神社を創建する提言が実在するのである。[3]
 
鳥羽伏見の戦いの後、明治天皇は蝦夷地開拓をいかにすべきか、臣下にご諮問になります。そうしたなかで、神祇事務局権判事植松雅言が「神社等モ御取建ニテ、夷民共御国恩ヲ相弁候」と神社創建を上申書で述べます。ただし、この時の上申は具体的なものではなかったようです。
 
右の植松雅言の上申書は具体性に乏しく、神社創建の内容も不詳の域を出るものではない。おそらく植松は職務の都合から、神社の創建を提言している程度であって、文字通りに「一向不案内」であり、北海道の事情に通じている訳ではないのであろう。
 
しかしながら、仮にその程度であったにせよ、明治元年から二年にかけての神道・神社史の画期的な時期において、しかも鳥羽・伏見会戦から二カ月程度の時期に北海道に神社を創建する上申が実在した事実は、札幌神社の創建前史の一事例として看過できない。
 
植松判事の上申が北海道神宮創建の第一歩と言えるでしょう。
 

■箱館戦争で中断

さて『北海道神宮史』は、ここから明治2年9月1日の「御鎮斎」に飛びます。
 
明治二年(一八六九)九月一日、右の宝田町の神祇官は「北海道鎮座神祭」を執行した。新政府は従来の蝦夷地を北海道に改め、分けて十一カ国を建制し、開拓使を新設して、開拓長官以下の官吏を赴任させるのに先き立ち、鎮座神祭を執行したのである。
 
ふつう「開拓三神の御鎮祭」と言われるのは、この神祇官の神祭を指すのである。これより先の明治二年五月には、北海道の南部における内乱が終結したので、新政府は構想を新たにして開拓使を新設したわけである。[4]
 
札幌神社創建の歩みは榎本武揚による箱館戦争で中断してしまったのです。箱館戦争は明治2年5月18日に終結しますが、その3日後、当時の通信事情を考えると「戦争終結後ただちに」、明治天皇は政府の高官を集めて蝦夷地開拓について御下問されます。
 

箱館平定之上ハ速ニ開拓教導等之方法ヲ施設シ、人民繁殖ノ域トナサシメラルヘキ儀ニ付利害得失、各意見無忌憚可申出候事[5]

 
「箱館が平定されたので、蝦夷地を開拓し、人民を教導して、繁栄させる方法を各自思うところを忌憚なく申し述べよ」という意味でしょう。
 
この時から札幌神社の創建である「御鎮斎」の9月1日まではわずか3ヶ月余。とにかく急いで「御鎮斎」が行われたのです。
 
ゼロから神社を創建するという例のないことに対して並み居る高官たちが、ああだ、こうだ、と言うのに、しびれを切らした明治天皇が「いいから早くやれ」と一喝したのではないでしょうか。そんな想像ができます。
 

■開拓使官吏を集めて「御鎮斎」

「御鎮斎」はどのように行われたのでしょうか。先に行われた今上天皇の即位の礼は記憶に新しいところです。『北海道神宮史』は、その場面を次のように紹介していますので、少々漢字が難しいですが、祭式の配置図も付けました、即位の礼の場面を頭に思い浮かべながら読んでみましょう。
 

神祇官祭場図(出典③)

明治二年九月一日の神祭の次第は『開拓使日誌』に登載されていて、当初から開拓使がこの神祭を北海道開拓と神社創建の出発点に位置付け、重視していたのがうかがえる。その次第と趣旨は、『開拓使日誌』のほかに前記の「北海道鎮座神祭」と宮内庁書陵部所蔵『祭典録』(明治二年)から知られる。
 
当日には、勅使として宮内権大丞四辻公賀の差遣があり、当の開拓使からは長官東久世通禧以下の官吏二十三人が参列し、加えて弁官及び伶人が参向した。
 
祭典のあらましは、神祇官の官吏が早旦に神座を設けて御霊代を安じ、神祇伯中山忠能が神降しをつとめ、神饌を供し、勅使が進み、御幣物を供え、明治天皇の宣命を奏し、これ応答して神祇官による返祝詞があり、官吏たちが拝礼に参進し、つきると神饌を撤し、楽を奏して終わるのである。そして、宣命自体は楽を奏して神前に供えて、勅旨を伝えるわけである。[6]
 
宣命は大変に難しい漢文なので引用はご勘弁願いますが、趣旨を含め『北海道神宮史』は次のように総括しています。
 
この祭儀の趣旨は、祝詞と宣命によれば叛徒の平定を告げて、北海道にも同様に浦安な平安を願い、荒ぶる神の働きが掃棲されることを希求し、五穀作物の繁栄を願い、官人の北海道差向を告げるのである。したがってこの祭儀は、漠然と平和希願や神社創建を奏上しているわけではない。具体的に、平和な北海道開拓の成功と神霊の加護を願っているのである。[7]
 
「神祇官祭図」に見られるように、この祭祀には神祇官と開拓使の官吏だけが参列していました。多くを招いて盛大な儀式を行う時間すら惜しんだのでしょう。札幌神社の創建、すなわち北海道神宮の創建は、一日一刻でも早く北海道に開拓の支柱となる神社を建てたいとする明治天皇の強いお気持ちが現れたものだったのです。
 

 


【引用出典】
[1]『新札幌市史第2巻通史2』1991・札幌市・402p
[2]『札幌神社九十年誌』1959・札幌神社社務所・39p
[3]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・10p
[4]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・12p
[5]北海道神宮編『北海道神宮研究論叢』2014・弘文堂・165p「明治天皇紀」126p
[6]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・14p
[7]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・19p
【写真出典】
①さっぽろ観光写真ライブラリー・ようこそさっぽろ 
http://www.sapporo.travel/sightseeing.photolibrary/
②福島県「福島県情報誌 ぐらふうつくしま2004夏号」2004/7
③『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・18p

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