北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

札幌市

北海道神宮創建秘話(中)
「開拓三神」とは?

 

明治2年の札幌神社創建の時に祀られたのは『開拓三神』という神々でした。中央の神座に大国魂神(おおくにたまのかみ)、左の神座に大那牟遅神(おおなむちのかみ)、右の神座に少彦名神(すぐなひこのかみ)と言われています。なぜこれらの神様が開拓三神なのか──北海道開拓の復権を目指す当サイトとしては、どうしても知っておかなければならないと思いました。

 

北海道神宮(出典①)

 
まず左右の神座を『北海道神宮史』より学びます。原文は格調高い美文なので、筆者のような者でも理解しやすいように文面はそのままに分かち書きにしました。
 

■大那牟遅神(おおなむちのかみ)

①左神座の大那牟遅神は、『古事記』に「大穴牟遅神」としてあらわれる神のことであって、ふつう『日本書紀』によって大己貴神と表記され(戦前の内務省の『神社明細帳』では、札幌神社祭神をこの表記に従っている)、出雲大社の祭神として知られている大国主命(おおくにぬしのみこと)のことである。
②『古事記』によれば須佐之男命(すさのおのみこと)・櫛名田比売(くしなだびめ)夫妻の六代子孫に当たる大穴牟遅神のことであって、
③八十神たちや大神である須佐之男命によって加えられるあまたの試練を克服し、
④深い愛情によって須勢理毘売(すせりびめ)と結ばれ、
⑤根之堅州国(ねのかたすくに=黄泉国)の須佐之男命から葦原色許男命(あしはらしこをのみこと=葦原中つ国〔地上〕の勇者)であると称えられ、
⑥あわせて宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ=現実にある国土の神霊)になれと祝福され、
⑦国作りに勝れた業績をあげて、この夫婦神から生まれた一族の神々が繁栄したと言われるのである。
⑧『古事記』には、このほかに、同じ神の働きとして八千矛神(やちほこのかみ=多くの武器を持っている神)と言う神名とその神徳の物語も有り、実に併せて五つもの名が有るのである。
[1]
 

出雲大社の大国主命像(出典②)

⑨この神の御仕業は、神名が五つもある程に経営・地主・男性的・国士・武勇などの勝れた神徳の持ち主であり、
⑩しかもその神話は、民間の生産活動を基礎にする伝承であるらしい。
⑪この夫妻は、お互いに助けあって試練を克服して結ばれた結果に、須佐之男命から祝福されるのであるから、よく知られるように縁結びの神としての働きが考えられている。
⑫そればかりでなく、この神は焼けた大石を転がされて、一旦は失せるのであるが、母の神の嘆きにより、高天原の神産巣日命(かむすひのかみ)が遣わされた二柱の神々の仕業により活きかえったので、再生の神徳を備えている。
⑬そして、根之堅州国を訪問しているので、死者の世界を主宰する神徳も備えているのである。[2]
 
札幌神社の左の神座、大那牟遅神とは、出雲大社の祭神として有名な、誰もが知る大国主命でした。この大国主命は多くの名前を持っていますが、なぜ札幌神宮、すなわち北海道神宮では大那牟遅神と呼ばれるのかは、神道の深淵にして筆者の及ぶところではありません。次ぎに右の神座、少彦名神(すぐなひこのかみ)を見てみましょう。
 

■少彦名神

①右神座の少彦名神は、『古事記』にあらわれる神であって、記事の分量は少ないものの、大穴牟遅神・大国主神の物語に登場して一対になって神徳を発揮するのである。
 
②少彦名神は、『古事記』によれば、高天原に坐ます神産巣日神(かむすひのかみ)の御子に当たる少名毘古那神のことであって、まことに愛らしい物語になっている。
 
大国主神が今の島根県八束郡美保関町の岬にいる時に、海の波に乗って天之羅摩船(あまのかがみのふれ=ジャガイモの実で作った船)に乗り、オオガリ(本居宣長は、蛾の誤字であろうと推定している)の皮を剥いで作って衣服にした神が寄り来られた。
 
そこで、世間の出来事を知っている久延毘古(くえびこ=かかし、身体がくずれた様子を意味する。)に質問してみると、神産巣日神(かむすひのかみ)の御子である少名毘古那神だと言う。
 
そこで神産巣日の御祖の命に申しあげてみると、「それは、まことに我が子であります、子供たちの中で、我が手の指の間から漏れて行ってしまった子供なのです。あなた葺原色許男命(あしはらのしこをのみこと)と兄弟になって其の国を作り堅めなさい」とおっしゃられた。
 
大穴牟遅神と少名毘古那神の二柱の神々は、そのときから相並んでこの国を作り堅められたのである。
 
しかしながら、後になって少名毘古那神は、常世国(とこよのくに)にて行かれたのであるらわれたのである。そして、海を照らして御諸山(みもろやま、奈良県三輪山)の神が、国作りを約束して現れたのである。[3]
 
③この神の御仕業は、右の『古事記』及び『日本書紀』にみえる神話以外の古典にも多く伝えられ、神徳は大穴牟遅神に優るとも劣らない。この神の神徳は、時間を超越した神話の世界の伝承に限らず、歴史時代の文献である『文徳天皇実録』斉衡三年(八五六)十二月庚午朔戊戌の条に、常陸国に大奈母知・少比古奈命の二柱の神々の御仕業があらわれた報告が記録されている程である。
 
④『古事記』以外の古典を総合してみると、神徳は農業に勝れ、粟の神であり、いわば穀物神である。
 
⑤そして、この地上の生物、植物・動物たちの医療と施薬に努め、獣害や虫害の駆除のための禁圧の法の持ち主であり、百姓はみな恩頼を蒙ったのである。
 
⑥一つの伝承では、人々のために粟を育て、その茎によじ登り弾け飛ぶのに乗って常世国に渡られたのであって、穀物の生産と海外への関心の二つの神徳を兼備することを意味しているらしい。[4]
 
古事記と日本書紀によれば、日本列島は、最初に生まれた神様である天御中主神が、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)に命じて、どろどろとした混沌の中からつくらせたものです。こうしてできた日本列島に住む人々に農耕や商業、法律などを与え、国という社会システムを与えたのが大国主命とされています。この大国主命の片腕となって国づくりを助けたのが少彦名神です。
 

■左右神座の出会い

引用の②に述べられているのは、大国主命と少彦名神が初めて出会う場面です。事記神話が親しまれていた戦前はほとんどの人が知る有名な場面でした。鈴木三重吉の名著『古事記物語』ではこう語られています。
 
大国主神はそれからなお順々に四方を平らげて、だんだんと国を広げておゆきになりました。そうしているうちに、ある日、出雲の国の御大の崎という海ばたにいっていらっしゃいますと、はるか向こうの海の上から、一人の小さな小さな神が、お供の者たちといっしょに、どんどんこちらへ向かって船をこぎよせて来ました。その乗っている船は、ががいもという、小さな草の実で、着ている着物は、ひとりむしの皮を丸はぎにしたものでした。
 
大国主神は、その神に向かって、
「あなたはどなたですか」とおたずねになりました。しかし、その神は口を閉じたまま名まえをあかしてくれませんでした。大国主神はご自分のお供の神たちに聞いてご覧になりましたが、みんなその神がだれだかけんとうがつきませんでした。
 
するとそこへひきがえるがのこのこ出て来まして、
「あの神のことは久延彦ならきっと存じておりますでしょう」と言いました。
 
久延彦というのは山の田に立っているかかしでした。久延彦は足がきかないので、ひと足も歩くことはできませんでしたけれど、それでいて、この下界のことはなんでもすっかり知っておりました。
 
それで大国主神は急いでその久延彦にお聞きになりますと、
「ああ、あの神は大空においでになる神産霊神(かみむすびのかみ)のお子さまで、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)とおっしゃる方でございます」と答えました。
 
大国主神はそれでさっそく、神産霊神にお伺いになりますと、神も、
「あれはたしかにわしの子だ」とおっしゃいました。そして改めて少名毘古那神に向かって、
「おまえは大国主神ときょうだいになって二人で国々を開き固めて行け」とおおせつけになりました。
 
大国主神は、そのお言葉に従って、少名毘古那神とお二人で、だんだんに国を作り開いておゆきになりました。[5]
 
北海道開拓はまさに国づくりです。明治2年、札幌神社が創建されたとき、祭神として大国主命と少彦名神は、誰もが最初に思い浮かべる神々だったのでしょう。
 
また、そうであれば中央の神座に道内の多くの神社で祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)が迎えられなかったことも理解できます。いわゆる「出雲の国譲り神話」によれば、大国主命が苦労してつくったこの国を天照大神は半ば強引に奪うのですから。
 
そうして中央の神座に迎えられたのは、大国魂神(おおくにたまのかみ)という神様でした。
 

■大国魂神

①大国魂神(おおくにたまのかみ)と言われる神名の意味、つまり名義は、クニに宿っている万物を生成化育する霊力を意味する美称である。
 

東京都府中市の大国魂神社(出典③)

②徳川時代の国学者本居宣長の『古事記伝』十二之巻は、大和国の造営に携わった神々の名義を考証した箇所において、「何神にまれ国を経営坐し功徳あるを、其国々にて、国魂とも大国魂とも申して拝祀るなり」と説明している。
 
③この神は各地において鎮祭されていて、武蔵国府中(今の東京都府中市)の大国魂神社は、よく知られる事例であろう。したがって古典のなかに系譜的にあらわれる特定の神名を指しているわけではない。[6]
 
『北海道神宮史』を読むと大国魂神は大国主命や天照大神のような神話で活躍する神ではなく、霊力の象徴であるとしています。他にも多くの神がいるのにどうしてこの大国魂神が迎えられたのでしょうか? 
 
明治神宮国際神道文化研究所の中野祐三氏は、『北海道神宮研究論叢』「札幌神社の祭神──大國魂神の神徳をめぐって──」で
 
大國魂神は大己貴神の荒魂であり、諸国に祀られる國魂神を掌る広大無辺の御神徳を発揚する神と考えらば、開拓三神において、国造りに御稜威を発揚した大那牟遅神や少彦名神の更に上座に祀られる在り方、首肯できるものであろう。
 
とりわけ、第一節に確認した如く、神祇官に於ける札幌神社祭神の鎮祭(明治二年九月一日)に先立ち、明治政府要人は、明治二年七月の岡本監輔によってもたらされた、ロシアとの軋礫が活発化する樺太情勢を聞き及び、更にロシアが樺太問題を契機として、我が国と戦火を交え北海道全体を確保することをも画策していた事を、明治二年八月の時点で認識するに至った。即ち当時、北門鎮謹は極めて重大な問題であったといえよう。[7]
 
と述べています。
 
すなわち「開拓三神」の中心にすべての神様の霊力の象徴である大国魂神が迎えられたのは、日本を北方から虎視眈々と狙う強大なロシア帝国に単独の神様では対抗できない、日本の八百万の神の総力を結集しなければならないという強い危機感の表れでした。
 
この「開拓三神」に対して開拓使判官島義勇は独自に、大国主命と少彦名神に加え武将阿倍比羅夫を提案したそうです。阿倍比羅夫は飛鳥時代の武将で東北地方を平定し、蝦夷すなわち北海道まで遠征したとされています。島使判官は、そうした故事にちなんで武将阿倍比羅夫にするように求めましたが、開拓三神を決めた神祇官の目はさらに遠くロシアを向いていたのでした。
 
■北海道神宮改称、認められず
さて今、北海道神宮のウエブサイトを開くと「御祭神」として次のように記しています。
 

北海道神宮には、現在四柱(よはしら)(神様を数える時、一人、二人…ではなく、柱(はしら)と数える)の神様をお祀りしています。
 
大国魂神 (おおくにたまのかみ) 北海道の国土の神様
大那牟遅神(おおなむちのかみ)  国土経営・開拓の神様
少彦名神 (すくなひこなのかみ) 国土経営・医薬・酒造の神様
明治天皇 (めいじてんのう)   近代日本の礎を築かれた天皇 [8]

 
北海道神宮では、札幌神社の「開拓三神」に加え、明治天皇が祀られているのです。
 
札幌神社は明治天皇の勅旨によって創建されたもので、開拓が進むにつれ、道民から明治天皇を増祀するとともに、北海道神宮にしたいという声が高まっていきました。
 
昭和に入ると道内人口は300万人を超え、北海道議会を中心とした北海道神宮改称運動が昭和11年をピークに盛んになります。札幌神社は日本本土の2割を超える面積を持つ北海道第一の神社です。これを北海道神宮とすることはそう難しいことではない、と多くの道民は考えていました。
 
ところが陳情を受けた内務省神社局の反応は冷たいものでした。北海道神宮改称が認められなかったのは次の理由だったそうです。
 

第一、明治天皇は、内地に於いては明治神宮以外に奉祀することを許さざる内規あり。北海道は、外地にあらざるを以て不可能なり。
第二、札幌神社祭神中、大那牟遅神、少彦名神は神代の臣下の神なり。臣下の神に天皇を合せ祀るは、大義名分に反す。
第三、札幌神社に明治天皇を合せ祀るは、従来の祭神を蔑視するに当る。[9]

 
天皇を絶対視する戦争につながった昭和10年代の皇国史観の高まりが、道民の願いを阻んだのです。
 

■北海道神宮、「開発」時代を象徴

札幌神社が北海道神宮となり、明治天皇の増祀が行われたのは、それから30年近くたった昭和39年8月のことでした。
 
北海道神宮運動は、神道復活に強い警戒感を示していたGHQが日本を去ったサンフランシスコ講和条約の翌年、昭和27年から始まりました。この動きが本格化するのは田中革新道政に変わって町村金五を北海道知事に迎えた昭和34年からです。
 
昭和36年には、神宮にふさわしい社殿建設が優先されるとして町村金五北海道知事を総裁に札幌神社御造営奉賛会がつくられます。町村知事の力を得て、改称運動は強力にすすめられていきます。このとき運動に携わる人々は次のように改称の必要性を訴えました。
 

明治維新の開拓を第一期とすれば今は第二期の開拓に移らんとする時にあたる。此の秋に当り、明治初年に於ける当社御鎮齋の由緒と、開拓に大御心を寄せられた明治天皇の聖旨を一段と回顧宣揚すべき」[10](昭和三十七年三月八日付神社本庁統理佐佐木行忠宛文書「札幌神社に明治天皇を御増祀し北海道神宮と御改称方申請の件」)

 
明治2年に創建された札幌神社が北海道「開拓」のシンボルになったように、昭和39年に改称された北海道神宮は北海道の「開発」時代のシンボルになったのです。
 

 


【引用出典】
[1]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・20p
[2]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・22p
[3]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・23p
[4]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・24p
[5] 鈴木三重吉『古事記物語』2001・青空文庫
[6]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・19p
[7] 北海道神宮編『北海道神宮研究論叢』2014・172p
[8] 北海道神宮Webサイト「北海道神宮」>由緒 http://www.hokkaidojingu.or.jp/history.html
[9]『北海道神宮編『北海道神宮研究論叢』2014・宮本誉士「札幌神社から北海道神宮へ」・84p ※札幌神社宮司高松四郎が書き残した「札幌神社社務引継説明書」にメモとして残された考証裸長宮地直一の意見
[10]『北海道神宮編『北海道神宮研究論叢』2014・宮本誉士「札幌神社から北海道神宮へ」・69p
【写真出典】
①さっぽろ観光写真ライブラリー・ようこそさっぽろ 
http://www.sapporo.travel/sightseeing.photolibrary/
②ウイキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/大国主
大國魂神社Webサイト>歴史・由緒 https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/

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