北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道神宮 創建秘話(下)
なぜ神宮は円山なのか?

 
年末特集「北海道神宮創設秘話」の最終回。北海道神宮の最大の〝なぞ〟に挑んでみたいと思います。それは、北海道神宮は〝なぜあの場所なのか?〟という疑問です。今は円山のあの場所にあることになんの違和感もありませんが、明治2年当時は市街中央から相当離れた深い原生林の中でした。もっと街中を選ばなかったのでしょうか? また北海道神宮は北向きです。神社は南面が常識で、北面は北海道神宮と吉野神宮くらいしかないといいます。なぜ北向きなのでしょうか? そんな謎に挑んでみます。
 
 

官幣大社札幌神社絵葉書 (出典①)


  

■島義勇、御霊代を札幌へ

日本の多くの神社は神話や伝説に基づいて立地しています。ところが北海道神宮はそうしたものを持たずに、真っ白いキャンパスに最初の一点が描かれたのです。多くの人びとに参詣してもらうことを願えば、旭川の護国神社のように、市街からほど近い平地につくられる方が自然だったでしょう。
 
北面していることについては北から虎視眈々と北海道を狙う「ロシアに備えた」という説があります。本当でしょうか? その謎を解くために『北海道神宮史』を読んでみます。
 
北海道神宮創建秘話(上)」で明治2年、東京の神祇官で開拓三神が御鎮斎されたことを紹介しました。その後、御霊代はどうなったのでしょうか。
 
九月一日に神祇官において開拓三神が鎮斎されたが、引き続いて同五日、神祇官は開拓使に対し「北海道開拓 祭神々鏡御渡可申候間、来ル七日巳ノ刻守護ノ人躰井辛櫃昇夫等御9月廻可有之候也」(開拓使諸官省往復留)と通達し、御霊代は開拓使に引き渡された。[1]
 
このとき、御霊代を受け取ったのが開拓判官島義勇です。コミック版『島義勇伝』(エアーダイブ著・2014・Dybooks)をお読みなられることをおすすめします。
 

『島義勇伝』出典②

島は御霊代を背負って自らの足で札幌まで運びます。札幌の建設がある程度進んでから御霊代が運ばれたのでありません。札幌建設と「開拓三神」の奉遷は同時だったのです。このことは覚えておきましょう。『北海道神宮史』はその行程を次のように紹介しています。
 
同月に開拓長官東久世通橲、開拓判官島義勇、同岩村通俊らは函館出張を塞命ぜられ、同月二十日に三神を奉じて東京を出発、イギリス船テールス号に乗船し、同二十五日に函館に到着した。
 
そして翌十月一日、島判官は函館を神出発、鷲木、長万部、磯谷と陸行、ここから岩内までは舟で越え、更に余市、小樽を通って、同十二日に銭函へ到着した。(中略)島は銭函の通行屋を仮役所とし、ここに御霊代を仮に安置した。[2]
 

■御霊代は札幌第一番御役宅に

明治2年のことですから、この札幌行きは大変な苦労をともないました。
 

『島義勇伝』出典③

函館から銭函への通行は困難を極めた。同月二十三日に、島が、在京の、既に安政年間から札幌に本府を置くことを主張し、開拓使でも札幌本府決定の主役となった開拓判官松浦武四郎にあてた書簡の中でも「函館以北実二世界中第一トモ可謂ノ悪路ニテ、人馬共二足ノ入ルル処モ無之」(開拓使公文録 五四八三)と記している。この状況を島の漢詩をかりて描写すると、黒松内途上の詩では
 
「黒松内へ向ふ道はぬかるみで、まるで水田のようであり、転びやすいことおびただしい。しかも泥濘にてでこぼこがあって馬の腹に及ぶくらいある。風に雪が加わり、寒さがつのるばかりで如何ともしがたく、休憩しようとしてもあたりには人家もない。元気旺んな大の男たちさへ遂に音をあげ、まして婦女子は泣きだす仕末である」(植田一二三生氏の訳による)というものであった。[3]
 
島義勇が札幌に着いたのは10月10日。今なら飛行機で数時間の距離に、実に20日もの時間を費やしています。
 
島判官は銭函に到着すると、ただちに札幌本府の建設にとりかかり、十一月十日に銭函を出立札幌に入り、十一、十二の両日で縄張りを行った。そして同年十二月三日に、できたばかりの「札幌第一番御役宅」に御霊代を奉じて移転した。[4]
 
札幌に入ると島義勇は直ちに円山に登り「五州第一の都」をつくることを誓ったという伝承はよく知られるところです。

 

御霊代が仮置きされた「札幌第一番御役宅」は『北海道神宮史』(27p)によると、札幌に先住していた大友亀太郎の官宅を引き継いだもので、役人の住宅と「集義所」というオフィスが併設されていました。場所は現在の北2条西1丁目あたりと考えられています。
 

『島義勇伝』出典④

 

■早山清太郎、境内地を推薦

こうして御霊代は札幌の集義所に移されたが、もちろんこれは仮のも遷 のので、当然、速やかに社地を選定、社殿を建築しなければならなかった。
 
もちろん、島義勇にとって札幌は初めて足を踏み入れる土地です。地図なども全くありません。ほとんどが湿地と原生林でした。そうしたなか、札幌神社の場所を選定するにあたって、早山清太郎という人物が大きく貢献しました。早山清太郎について『北海道神宮史』はこう紹介しています。
 

『島義勇伝』出典⑤

 
早山は文化十四年(一八一七)、現在の福島県白河郡西郷村に含まれている米村の生まれ、嘉永五年(一八五二)松前に至り、幕府が蝦夷地を松前藩より召し上げて直轄とした安政二年(一八五五)にオタルナイ(現在の小樽市)に移り、一時はホシオキ(現札幌市手稲区内)に入って伐木等を行い、同四年に後の琴似十二軒に入地して農業を営んだが、翌五年には石狩平野最初の米作に成功、この米は江戸に送られ将軍の上覧に供された。
 
更に安政六年(一八五九)には幕府の石狩役所の長である荒井金助の求めに応じて開拓地を後の篠路村の所に選定、万延元年(一八六○)ころ自身もここに移り住んだ。この地域のことをよく知っていると同時に敬神の念あつく、この意味でまさに適任であった。早山は早速現在の社地となっている場所を上申した。[5]
 
現在の北海道神宮の場所は、早山清太郎が島義勇に推薦したものだったのです。
 
『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』の能登邦夫氏(日本宗教学会会員)による「開拓と開教」に引用された明治44年の『札幌区史』に、
 

篠路の民(たみ)早山清太郎、維新以前より今の北六条東一丁目、当時、豊平、元町豊平、元町両道路の分岐点の傍らに一小祠を建て、人の山神を祭るを勧むるを肯ぜずして出雲の神を祀りたるあり、島判官、札幌に入るや、清太郎の祭る所、其奉護の開拓三神と等しきと視て、以て奇と為し、清太郎を賞せし事あり。[6]

 
とあります。
 
早山清太郎は周囲の人々が「山神を祭る」ことをすすめるにもかかわらず、「出雲の神」を祀っていたのです。開拓三神の左神座大那牟遅神(おおなむちのかみ)は大国主命。すなわち「出雲の神」です。
 
まさか開拓前の、和人が数10人しか住んでいない札幌で出雲の神を祀る人物に出会うことは思っていなかったでしょう。こういうことを〝神の導き〟というのではないでしょうか?
 
島義勇は〝以て奇と為し〟とし「明治2年11月に、早山清太郎が使掌に任じられて御宮地係となった」(28p)。早山清太郎は札幌神社の用地係となったのです。そして早山清太郎はすぐに現在北海道神宮の立っている場所を推薦しました。
 

■「神異」と絶讃

早山の上申に基づいて、島もいちはやく十一月のうちにその地を見分、決定した。[7]
 
島義勇は早山清太郎から推薦を受けると直ちに現地を視察し、その場で立地を決めたのです。
 
これについても、まずよく知られているものであるが、島の漢詩によってみることとする。
 

将創営北海道新大社、携富岡阿部両少主典早山使掌等、以相社地、得之府下西南三十丁外、小芙蓉峰小瀑布泉間。賦一絶、以記奇異。蓋早山熟知傍近山川者、即我北道主人也。
 
三面山囲一面開 清渓四繧二層堆
山渓位置豈偶爾 天造応期社地来

 
まさに北海道の新大社を創営すべく、富岡、阿部両少典、早山使掌等を伴ひ、社地にふさわしい土地をたづね、これを石狩府のほとり西南三十丁の外、美しい小山と小さな滝と泉の間に見つけ得た。絶句一首を作り、この神異をしるす。
思ふに使掌の早山清太郎は、近傍の山川の地形をまことによく知ってをる者であり、すなはち私にとっては北海道の主である。
 
三面は美しい山が囲み、一方が平野に向って開けている。
清らかな渓流が二重の丘をめぐっている。
この地形はまさしく北海道新大社が鎮座ましますに相応のところであり、山や谷の位置が偶然からなったものとは、どうしても思はれない。
造化の神が、新大社の創営を期して天地開閾以来用意されていた土地にちがいないのである。
 
島がいかに早山を信頼し、同時に彼の選定した社地を「神異」と絶讃するほど高く評価したかがうかがわれる。[8]
 
早山清太郎が推薦した場所があまりにも素晴らしく、島はこの場所以外に考えれないと思ったのです。
 

■ロシア対抗説の当否は?

北面の「ロシア対抗説」については、おそらく『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』の前田勝也氏の「北海道神宮と私」下記の文章がその根拠の一つと考えられます。
 
<北向の神社>神社は南面するのが常識であるが、北面の神社はこの北海道神宮と吉野神宮くらいのものである。しかし当神宮の場合は、東西に延びる大通が街の中心であり、三神の社に通ずる参道であるとすれば、この参道を通って来て円山の方に向かって拝することになれば、今日の位置が最も地形に適した建て方である。しかも島判官の詩の中に「南は中原の土地を護り、北はロシアを鎖む」とあるところから、南下してくるロシアに備えて北面したとも考えられる。[9]
 
もちろん、ここにのべられている配慮もゼロではなかったでしょう。たしかに「北海道神宮創設秘話(中)」で紹介したように主座に大国魂神が迎えられたのは、ロシアの脅威を意識したものでした。しかし、島義勇は大国魂神ではなく阿倍比羅夫を「開拓三神」に推奨していたのです。そもそもこの場所を推薦したのは早山清太郎でした。「出雲の神」を祀っていた信仰心の篤い彼にそのようは思慮があったかどうか?
 
この場所がいかに素晴らしい場所か、昔の写真で見てみましょう。

 

官幣大社札幌神社絵葉書(出典⑥⑦⑧)

 
写真は「官幣大社札幌神社絵葉書」(出版年不祥)という昔の絵葉書です。今では分かりにくくなっていますが、鳥居の向こうに神社山の美しい三角形が見えます。そして参道が続いています。参道と建物の動線が神社山の山頂と見事に美しいラインをつくっています。神社山が島の漢詩「小芙蓉峰小瀑布泉間」の「小芙蓉峰」でしょう。この借景に加え清らかな泉があったのです。
 
山渓位置豈偶爾 天造応期社地来
 
と島を驚嘆せしめた場所。この場所を選べば向きは自動的に北になります。なぜ北海道神宮はあの場所のなのか──これが唯一無二の答えなのではないでしょうか。
 

■島判官更迭

こうして境内地は円山近傍に決まったかに思われました。しかし、明治3年、島義勇は開拓使判官を更迭されてしまうのです。
 
さらに、同年十一月中に函館本願寺掛所の僧が「北海道一ノ宮神職」として発令され、神社建設の準備が着々と進められた。島としては、自身も敬神の念あつかっただけではなく、御霊代拝受までの経過もあり、雪どけを待って直ちに建築に着手する心算であったと思われる。
 
このように神社建設の準備は進んでいたが、明治三年 二八七○)二月に島判官はにわかに東京に召還され、本府建設も一頓挫を来すこととなった。[10]
 
島が札幌建設に費用を多額の経費を費やしたことが理由とされてきましたが、このあたりの事情は『島義勇伝』(エアーダイブ著・2014・Dybooks)をお読みください。島が去った後、仮宮がつくられ、御霊代は移されました
 
こうした状況下で仮宮の建設の方針は、三月の中旬までに決定し、二十日には費用の仮渡しも行われたようである。そして二十七日に建設地も決定し、五月八日には「御神鏡遷坐」の事が協議され、同月十五日に遷座祭が行われた。
 

「明治三年札幌之図」(出典⑨)左上の柵で囲われ場所が仮宮


 
『北海道神宮史』はこの仮宮の場所を「北五条東一丁目が正しいといえよう」と推察しています。歴史が違った歩みを選べばここが北海道神宮の境内になっていたかもしれません。
 

■そしてあるべき場所に

最終的に神社の場所を現在地に定めたのは開拓権監事の西村貞陽でした。
 
こうした経過の後、三年十二月に開拓権監事のが札幌表境界、移民取扱、官舎造営、社地、新川掘削等について伺い、承認された。このうち、社地については、次のように記されている。
 
社地ノ儀最前丸(円)山ノ麓見立相成候場所、本庁ヨリ西二当り距離三十六丁、銭函往還ョリ拾三町、別図ノ通二有之、今日ニコソ少シ遠キ様相覺候得共、後来盛大御開府候儀二候得ハ、不相応ノ地所共不相見候間、右丸山ノ下へ御建立可然ト存候事。 
 
すなわち、島義勇の選んだ地を西村が追認したということである。
 
四月末には東久世長官も宮地を検分、混乱の続いた神社建設問題も、当初計画に比べて大幅な縮小をみたとはいえ、やっと一応の決着をみたのである。[11]
 
おそらく島義勇の跡を継いだ開拓使でも、円山近隣が市街より遠いことが問題になっていたのでしょう。しかし、西村権監事もその場所を訪れると「少々遠いように思えるが、札幌が成長して市街が拡大すれば、不相応の場所には思えない」と言っています。
 
当時、明治政府を悩ませていたロシアの脅威といっても、北海道がこれから歩んでいく数百年、数千年という歴史からみればほんの一時のことです。北海道の総鎮守である北海道神宮の場所は、そうした目先の世事によって決められたのではなく、神の住まう場所として天地開闢以来、予定されていた場所に置かれたのでした。
 

 


【引用出典】
[1]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・25p
[2]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・25p
[3]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・26p
[4]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・26p
[5]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・28p
[6]『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986・能登邦夫「開拓と開教」・48p
[7]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・29p
[8]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・31p
[9]『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』1980・前田勝也「北海道神宮と私」・239p
[10]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・32-33p
[11]『北海道神宮史上巻』1991・北海道神宮・38p
 
【写真出典】
①⑥⑦⑧『官幣大社札幌神社絵葉書』出版年不祥・札幌神社社務所(北海道立図書館蔵)
②③④⑤エアーダイブ『島義勇伝』2014・Dybooks
⑨『明治三年札幌之図』出版年不祥・著作者不祥(北海道立図書館蔵)

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