北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

 

設計者・井口健 北海道百年記念塔を語る ⑦

実験と建築

この仕事は自分の誇りです

 

 

  

──設計競技で最優秀賞を受賞し、先生の作品が採用されました。そして先生が設計を担当することになりました。ここでご苦労されたことは?

 実際の設計で重要なのは、塔の自重に地盤がえられるか、地震に耐えられるか、台風に耐えられるか、ということを力学的に計算する構造計算です。完成後の安全性はもちろんですが、建設中の骨格だけの時にも風が吹くことがある。そこで構造計算の方針を定めるために塔の模型を作り、実験することになったんです。

 

──どんな実験ですか?

風洞実験に用いられた記念塔の模型①

 東京大学の宇宙航空研究所と野村工業研究所で行われました。当時、東京大学の宇宙航空研究所には飛行機やロケットの開発に使う直径約1.5m長さ10mの風洞実験装置があったんです。
 
 80分の1の総合模型と4分の1の部分模型を用いて昭和39年の伊勢湾台風で記録された平均風速32.8m、最大瞬間風速40.4mという風を想定し、塔が完成した状態、骨格だけの状態、ルーパーが密閉された状態、解放された状態……さまざまな状態で試験を行ったわけです。
 
 これには私も立ち会っています。実験棟の人口横に長さ4メートル程の赤と白に着色されたロケットが置かれていたのを覚えています。
 

──当時、風洞実験まで行うことは珍しかったでしょうね。野村工業研究所の方は?

 ここは建設省の研究所で、実物大の外板を持ち込んで振動試験を行い、地震に対するデータを取りました。昭和27(1952)年の十勝沖地震(M8.2)での広尾町の地震計記録を用いました。ただこの実験に僕は立ち会っていません。
 
 こうしたデータを元にして構造計算に入ります。手計算とIBM社のコンピューターで行いました。日本でコンピュータを構造計算に用いたかなり早い例だったと思います。コンピューターの計算書がすごくA4版で七センチもの厚さのものが2冊。大変な計算量だったことを覚えています。

 

基礎部分の鉄骨(1969/4/12)②

 構造計算は久米建築設計本社の構造担当重役の岩間さんと構造設計室長の掛貝さんが担当しました。私は結果を聞くだけでした。コンペの時には札幌事務所の構造担当が一人手伝ってくれたんですが、設計に入ると久米の札幌事務所はまったくノータッチです。面倒なことに関わりたくない、ということだったでしょう。定期的に東京本社から担当が現場に来ていました。
 

──札幌では先生1人が建築設計に携わるかたちになったんですね。実施設計で先生が苦労されたことは?

 実施設計は東京の本社で行い、札幌事務所からは桑原義彦君が一人だけ私に同行しました。 私は道庁の本庁舎と江別市役所の設計に携わりましたが、業務は東京本社で行っています。この時、単身赴任で東京に行き、本社勤めになりました。そして道庁の建設が始まったときに現場監理として本社から札幌事務所に戻ったかたちです。記念塔が設計に入ったときに札幌事務所からの長期出張のあつかいで再び東京に戻りました。この時はワイフも同伴しています。 会社の寮が横浜磯子の汐見台団地にあったのです。

鉄骨のウィンチ引き揚げ(1969/7/19)③

 
 塔はモノコックではなく鉄骨トラス構造となりました。この方針の変更の過程は不明です。鎧のように外板パネルを主体鉄骨に取り付けているんですが、雨が降ったら水が溜まることなく、すぐに処理しなければならない。これが一番大事なところなんです。
 
 水滴がダラダラと流れる落ちるようだと錆にムラができ汚くどうしようもなくなるんですよ。また水の処理が悪いと酸化皮膜が上手くできずに普通の鉄と同じように腐食して穴が開いてしまいます。この水処理を徹底して設計しないとコルテン鋼の場合は駄目なんです。
 

4層パネル見本吊り込み(1969/8/6)④


 パネルジョイントの凹凸のところを逆勾配にしたり、水が溜まりそうな箇所には排水孔を設けて塔内部に引き込んで流しました。日照の悪いところは安定した酸化被膜がつくれませんから、雨水が回り込まないように特に注意を払いました。こうした処理はデザイン的には非常に制約を受けるので難しかったですね。
 

──建築確認申請の方はどうでした?

 札幌事務所は関与しないということだったのでこれも僕がやったんですよ。百年記念塔は特殊建築物ですから建築確認申請をする前に日本建築センターの層建築物構造審査会というところで構造審査を受ける必要がありました。審査
会には40名程の先生がおり、慎重に審議検討されて承認をいただきました。そして確認申請の窓口は札幌市の建築指導課ですが、「建築センターで承認されたら、札幌市も承認します」ということですんなりおりました。
 
 ただ塔には、エレベーターが設置されているんですが、この審査が撥ね付けられたんです。百年記念塔のエレベータは4階から上り下りするもので、その下は解放されています。そこで市の担当者は「エレベーターの下を人が通行するのは許可できない」というのです。
 
 当時の建築基準法では、万が一エレベーターが落下した時の安全確保のために直下に空間を設けるように規定していました。もちろん、そのことは把握しておりましたから、落下しても階下に被害が及ばないよう二重に衝撃対策を講じて構造上耐えられる設計をしたのです。
 

4層パネル吊り込み完了(1969/8/27)


 しかし「駄目だ」というわけです。何度説明しても駄目の一点張り。お互いに押し問答しているうちに感情的になって「建築基準法は何のためにあるのか!」「条文の裏にある法の精神というものを考えて下さい!」と声が上げました。するとその勢いに圧されたのか、担当者は折れて承認してくれたんです。
 
 この他、高さ60m以上の高さの構造物は航空障害灯が必要とのことで、私が航空局に打ち合わせに行ってます。
 

──そして無事に建設に入ります。先生はどう関わられましたか?

 工事は伊藤組土建が担当し、設計監理は久米建築事務所の担当となりましたから、私が現場にずっと常駐したのです。この時、席が本社から札幌に戻りました。当時、真駒内泉町に会社の寮があり、私はそこに住んでいました。毎日、定鉄バスで札幌駅へ、そこから国鉄バスで野幌へ行き、歩いて現場に通ったんです。
 

現場事務所で打ち合わせをする井口先生⑤


 現場事務所は沢の水を引っぱって炊事だとか洗濯をしていたんですが、まかないのおばさんが水の便が悪いと言って苦労していましたよ。現場は当時、ホタルやサンショウウオのいるような場所で、伊藤組の若手がサンショウウオの卵を見つけ、池を掘って飼っていました。当時はそんな場所だったんです。
 

──建設も大変そうですね?

 作る方は大変だったと思いますよ。同じ部材がひとつもないですから。鉄骨を担当した巴組の担当者が、同じ高さの鉄塔なんかと比べて「8倍大変だった」と言っていました。
 

建設現場を訪れた町村知事(1969/7/21)⑥


 鉄骨の部材をつくるのに原寸大の図面を作るんです。大きいものですから、広い原寸場で大工さんの使う墨つぼで糸を張って書くのですが、担当者は汗を流して話していましたよ。
 
 外板パネルを10枚取り付けたところで、突風が吹き、現場に取り付けてあった風速計が最大瞬間風速39mを記録したことがありました。建築途上の不安定な時期でしたが、何事もなく風は通り過ぎました。実験の通りで、道庁の担当者や伊藤組の所長らと喜び合いましたね。
 
 鉄塔が立て終わったとき、担当されていた鳶の親方が管理事務所に私を訪ねてきて「ぜひ設計監督さんから感謝状をもらいたい」というのです。「この仕事は自分の誇りです」というので、感謝状を書いてあげました。
 

 
 

 

 ①②③④⑤⑥開拓の村文化振興会広報『とどまつ NO30 通巻53号』2006/11/10・社団法人北海道開拓記念館・10~12p
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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