
1918年 開道50年記念事業 ①
万博を超えるスケールが中島公園に
1918(大正7)年に「開道50年」の記念事業を行うことは改元とともに議論され、1913(大正2)年中に道議会で開催が決定しました。記念事業の中心は「記念博覧会」でした。総事業費は32万3790円が予定されましたが、最終的には45万9349円に膨らみました。現在の貨幣価値では100億円以上です。
8月1日から50日間にわたって行われた博覧会のメイン会場は、札幌の中島公園が当てられ、第2会場として札幌区北1条西4丁目に「工業館」、第3会場として小樽区に「水族館」が設けられました。
メイン会場の中島公園には5万坪の会場面積に15のパビリオンが並び、「この時期における最も斬新な設計意匠で、とくに会場中央に建てられた北極塔は印象的であった」そうです(『新北海道史4巻』)。
100年前の北海道博覧会──タイムマシンで行ってみましょう
■歓迎門
博覧会にあわせて札幌駅から中島公園まで電車が敷かれました。東京オリンピックの東海道新幹線、札幌オリンピックの地下鉄など、万博やオリンピックなどのメガコンベンションでは来場客を捌くために、その時代の最先端の交通システムが導入されますが、この時代の最先端システムとして「電車」が博覧会の輸送システムとして導入されました。電車を下りると巨大な歓迎門が出迎えます。

【歓迎門】手前に当時札幌電気軌道といった市電の車輌が見えます。開業は1日の道博開幕から遅れ8月12日、試運転なしでぶっつけ本番開業だったそうです。道博と市電との関わりを伝える貴重な1枚です(写真出典①)
■売店〜入口
「歓迎門」をくぐると「入口」との間に、全国各地から業者が集まった「売店」、今の言葉でショッピングモールが広がりました。夜も煌々とネオンサインで照らされ、大正初期、まばゆいほど明るさは当時の人たちには驚きだったでしょう。

【売店】会場入り口前に壮大なショッピングモールが作られました(写真出典②)

【売店】松竹喜劇のルーツの一つでもある当時超人気の悲喜劇団「楽天会一座」の乗り込み(写真出典③)

【売店】ショッピングモールはきらびやかにネオンで彩られました(写真出典④)

【入口】ショッピングモールを過ぎると入口。入場券のもぎりをしているようですが、入場料金は確認できていません(写真出典⑤)
■「拓殖・教育・衛生館」から「農業館」へ
入口を出ると今の「菖蒲池」を左手に進みます。最初に現れるのが「拓殖・教育・衛生館」です。パビリオンは当時の一流建築家が手がけたといいます。期間限定の博覧会のパビリオンとは思えない本格的な建物だったことに驚きます。「拓殖・教育・衛生館」から少しセットバックして「農業館本館」がありました。

【拓殖・教育・衛生館】北海道開拓の歴史が展示されていました(写真出典⑥)

【拓殖・教育・衛生館】パビリオン前の雑踏。オープン当日の様子と思われます(写真出典⑦)

【農業本館】隣に農業館別館がありました。手前のベンチは「音楽堂」の観客のためのイスと思われます(写真出典⑧)
■噴水・園芸堂・迎賓館
右手を見ると、「菖蒲池」には美しく噴水が水を噴き上げ、中島には「迎賓館」が設けられていました。夜はイルミネーションに照らされ幻想的な雰囲気をつくり出していました。「迎賓館」と「農業館」の間には「音楽堂」があります。期間中にここで野外コンサートなどが開かれ、来場者に美しい音色を聞かせていました。「迎賓館」からまっすぐ進むと「農業館」となっており、農業の位置づけの高さが伺えます。

【菖蒲池噴水】菖蒲池の中から噴水が吹き出していました。当時の最先端テクノロジーと思われます。奥の三角屋根は「演芸館」です。(写真出典⑨)

【迎賓館】菖蒲池の中島には壮麗な「迎賓館」がありました(写真出典⑩)

【音楽堂】農業本館と迎賓館を結ぶ動線の中央にありました。演奏しているのは海軍軍楽隊です(写真出典⑪)

【夜景】左から「演芸館」「迎賓館」「噴水」、博覧会のサインポール。ライティングされた噴水は今は良く見ますが、当時は驚きだったでしょう
(写真出典⑫)
■農業館別館からメイン広場へ
「農業館別館」を左手に折れるとメイン広場です。「水産館」を中心に「園芸館」「林業鉱業館」「機械館」「参考館」「土木交通館」といったパビリオンが取り囲み、白亜で統一された建物群はあたかもワシントンDCを思わせるものでした。
中央にそびえる「北極塔」は博覧会のシンボルで、夜も光を浴びて美しく光り輝いたそうです。最後の写真は「水産館」前の博覧会スタッフの集合写真です。建物のスケール感が分かります。

【センター広場全景】中央の円いアーチが印象的なパビリオンが「水産館」。その手前が「北極塔」です。
(写真出典⑬)

【センター広場全景】記念絵はがきの1枚です。こんな色でした。「水産館」の隣は「参考館」です。(写真出典⑭)

【センター広場全景】「水産館」の右に「参考館」「土木交通館」「機械館」が見えます。後の白煙が上がっているように見えるパビリオンは「東京館」。手前の屋根は「演芸館」です。上の写真もそうですが、この写真どうやって撮ったのでしょう? ドローンでないことは確かです(写真出典⑮)

【センター広場夜景】こちらも美しく照明で照らされました(写真出典⑯)

【水産館前集合写真】「水産館前」での博覧会に関わったスタッフの集合写真です。大会長は俵孫一道庁長官でした。(写真出典⑰)
■協賛パビリオン
メイン広場の裏手には、協賛して京都、東京、富山、新潟のなど都府県のパビリオン、当時日本領だった「台湾」「朝鮮」のパビリオンが並びました。今の「Kithara」のあたりですね。「菖蒲池」の裏にも協賛パビリオンがありました。

【富山館】本道とゆかりの深い富山県のパビリオンです。(写真出典⑱)

【台湾館】台湾総督府からも出店がありました(写真出典⑲)

【朝鮮館】朝鮮館のパビリオンですが、この壮麗な門の奥にパビリオンがあったようです(写真出典⑳)
■東海道五十三次
集客のための呼び物として「東海道五十三次」が用意されていました。城を模したゲートをくぐると、「東海道五十三次」の53シーンが回廊状に実物大ジオラマで展開されました。今の「中島公園自由広場」のあたりです。

【東海道五十三次】入口に京都二条城ありました。東海道五十三次は江戸日本橋から京都に向かいますが、この展示は1868(慶応4)年10月の明治天皇の「東京奠都」の様子を再現したもののようです(写真出典㉑)

【東海道五十三次】創成川に沿って休憩用のベンチが並んでいました。サッポロビールのマークが見えますから、ビヤガーデンだったのかもしれません。「東海道五十三次」は公式プログラムに記載が無いので、全体がサッポロビールの協賛出展だった可能性もあります。(写真出典㉒

【東海道五十三次】小夜中山(写真出典㉓)

【東海道五十三次】藤澤清浄寺行在所(写真出典㉔)
■演芸館・休憩所
「菖蒲池」の西側には「演芸館」を中心に休憩所、今の言葉ではグルメスポットが並んでいました。「演芸館」では期間中、東京から人気絶頂の一座が来道し、さまざまな催しを行いました。
「演芸館」の周辺には、多数の飲食店、休憩所と企業パビリオンが並んでいました。休憩所は企業提供のピーアールブースとして運営され、趣向を凝らした建物が来場者に憩いの一時を提供しました。

【演芸館】奥が「演芸館」、手前がサッポロビールの「特設売店」と維新堂書店の「絵はがき売店」です。(写真出典㉕)

【売店】内外の企業が趣向を凝らした売店を設けました(写真出典㉖)

【売店】さまざまな建物に大正ロマンがあふれています(写真出典㉗)

【休憩所】売店とは別に各企業によって飲食を提供する「休憩所」が運営されていました。(写真出典㉘)

【企業出展】現在の博覧会と同じく企業パビリオンも設けられていました(写真出典㉘)
■中島公園を今の姿にしたのは道博
中島公園は1883年(明治16)年に豊平川支流の湿地帯だったところを公園にしたものですが、この博覧会にあわせて大規模改修が行われました。現在の中島公園と北海道博覧会の案内図を比べるとそのことがよく分かります。中島公園自体が「開道五十年」事業のレガシーだったのです。

【開道50年記念北海道博覧会 第1会場案内図】現在の地図と対比させるため90度反転しています(写真出典㉙)
【写真出典】
⑩⑭「開道五十年記念北海道博覧会絵ハガキ」出版年不明・東京今川橋青雲堂
⑥⑲㉒「開道五十秊記念北海道博覧会写真帖」1918・東光園
④⑦⑪⑱⑳㉕「開道五十年記念北海道博覧会名誉記念写真帖」1918・維新堂書房
①②③⑤⑧⑨⑫⑬⑮⑯⑰㉑㉓㉔㉖㉗㉘㉙「開道五十年記念北海道写真帖」1918・開道五十年記念北海道博覧会協賛会
㉚「開道五十年記念北海道博覧会場案内」出版年不明・開道五十年記念北海道博覧会
【参考文献・参考リンク】
『新北海道史 第4巻 通説 3』1975・北海道
札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫7 札幌事始」1979・北海道新聞社
札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫44 川の風景」1988・北海道新聞社
札幌市教育委員会編『さっぽろ文庫84 中島公園』1988・北海道新聞社
中島公園管理事務所『中島公園』HP>公園案内>中島公園の歴史を振り返る https://www.sapporo-park.or.jp/nakajima/?page_id=1222