北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

開拓は、反乱でも、自由民権でもない第3の道

【浦河】赤心社 ①

 
 

北海道開拓倶楽部の再開後の第1弾は日高・浦河を拓いた「赤心社」を取り上げます。赤心社は明治13(1880)年に、兵庫県三田藩の士族・加藤清らによって設立された開拓会社です。
北海道の土地条件や気候条件も不安な中ですすめられた明治10(1877)年代の開拓事業はほとんどが失敗に帰した中で、赤心社が目覚ましい成功を遂げ、八雲に入植した尾張徳川家の開墾事業とともに北海道開拓のモデルとなりました。その成功は、同社が戦後の農地解放の時代まで続いていたことで明らかです。

 

赤心社社長 鈴木清①

 
赤心社創業者・鈴木清は、嘉永1(1848)年4月29日、代々三田藩主九鬼家の重臣であった鈴木家の長男として生まれました。藩校の造士館で文武の道を学び、特に馬術に優れた腕前を示したといいます。鈴木は明治維新の年にちょうど二十歳、新時代を見据えて洋学を修めました。明治11(1878)年に輸入に頼っていた缶詰を国産化する事業を神戸で起こしました。
 
明治13(1880)年、北海道開拓の急務なことを痛感し、同志を糾合して赤心社株式会社を創業し、その社長となりました。赤心社の設立趣旨は、北海道開拓の幕開けを告げる宣言です。全文を掲げました。現代人にも読みやすいように若干ですが読みやすくしましたので、ぜひお読みください。
 


近時、愛国の志士、口を開けば輸出入の不均衡、 金貨の流出を解き、工業の起こらざるを論じ、凄概悲憤、蝶々悶々として日もまた足らずとす。
 
わが輩非才といえども、またこれをもってその感を同じとし、心常にここにあらざるにあらざれども、もっぱら婦女子のごとく日夜泣悌にむなしく光陰を費やし、その憂苦を転じて快楽を来すの策を
講ずんば、大丈夫の恥なるは弁を待たず。
 
しかして、そのもっとも近き者を求めれば、今の時にありて、その術策やはなはだ少なしとせず。なかんづく北海道の如きはそのもっとも著名にして地味肥沃にして土壌広大、真にわが国の宝庫なるは学農記者をはじめとしておかざるところになれば、今さら吾輩の質言をまたず、かつ当路の諸賢もつとにここに見るありて、巨額の官費を投じて、その開拓に下手するや、ここに年あり、また近く開進社のごときも、まさに大いになるところあらんとするは、いちじるしく世人の知るところなり。
 
しかれども、その事業たるや、もとより遠大の鴻業として、一朝一夕に奏効すべきあらず。したがって資本も膨大になれば、しかも数百金を投じて数年の後にならざれば、その利益を見ゆるがゆえに、わが輩のごとき貧人にいたっては、 たとえ後来、大いなる利益ありて自家の富楽を来し、大いに国家に鴻益あるを知るも、目下資本に乏しきをもって、ただいたずらに遙望して他人の快楽をうらやむのみなれば、その業の進にしたがい、富者は倍々に富み、貧者はいよいよ貧に陥り、ついに国家の衰運を招き来さんとす。
 
ここにもってわが輩、同志相集い、無産無資の貧人をして容易にこれを従事するを得て、小より大に進み、卑より高きに達し、ついに国家の衰運を挽回するの大事業を興起せんと同盟の人々申し合わせ、規約を設立する。


 
鈴木清が赤心社を立ちあげた明治13(1880)年は、最大の士族反乱であった西南戦争が終結した3年後で、自由民権運動爆発前夜という時代でした。
 
急激な開国によって日本の富は欧米各国に流れ、禄を失った士族の困窮はひどくなるばかり。経済は低迷し、社会の価値観が昏迷した、まるで現代のような時代でした。
 
そうしたなかで、すぐれた実業家であり、欧米の経済に通じていた鈴木は「株式会社」という仕組みで、没落士族を救うことを考えたのです。
 
そして、貧しい者でもそれぞれが少しずつ資本を出し合って「会社」をつくることで、富者にもなることができ、ひいては国家にも貢献できると解いたのです。明治の初期に北海道開拓は、士族にとって、反乱でも自由民権運動でもない第3の道だったのです。
 
 

 

【引用参照文献】
・『浦河町史』浦河町・1971
①http://www.hk-curators.jp/archives/1272
 
 

 

 
 

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