北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道の名づけ親は松浦武四郎なのか? ④
五畿八道としての北海道

 

北海道という名称の考案者が、松浦武四郎でも、徳川斉昭でもないとすると、どこから来た名称なのでしょうか? その答えは1300前の律令時代に溯ります。「五機七道」という古来の地方制度を知ると、北海道という名称が大化の時代から蝦夷地に付けられる運命だったことがわかります。

 

■蝦夷地開拓の勅問

北海道開拓の始まりは、慶応4(1968)年3月9日、京都二条城で明治天皇が副総裁、議定、参与を召し、「蝦夷地開拓の可否」について勅問されたことから始まります。さらに翌10日、嘉彰親王以下公卿・諸藩主ならびに藩士に諮問されました。「蝦夷地を開拓すべきか?」との問いかけですが、実際は開拓せよとの勅命です。
 
明治新政府はこの3日後の13日には「今や王政復古し、神武天皇創業の初めに復されるを以て、祭政一致の制また古に法り、まず紳祇官を再興し、諸祭の典儀を興さんとす」(『明治天皇記第1巻』646p)として全国の神社を統べる紳祇官を創設。さらに翌日にはかの有名な「五か条の御誓文」が奉読されました。
 
蝦夷地開拓の勅問、すなわち明治政府による北海道開拓の開始宣言は、明治政体の姿を明らかにした五か条の御誓文と同じ流れの中にあったことは覚えておきたいところです。
 

五か条の御誓文の誓約。北海道開拓の勅問はこの5日前①

 

■決定事項だった「道」

さて明治天皇の勅問を受けて慶応4(1968)年3月25日、副総裁・岩倉具視が、議定・参与・徴士等の閣僚を集めて次のように提起し、蝦夷地名称の検討が始まります。
 

副総裁岩倉具視、再び議事所に三職及び徴士を会し、聖旨を奉じて諮問する。其の一に曰く、箱館裁判所設置、其の二に日く、同所総督・副総督・参謀の人選、其の三に日く、蝦夷の名目を改め南北二道を立つる事。衆議先づ人選を決し、裁判所を置きて漸次開拓に済手すべしと為す(『明治天皇記第1巻』645p)

 
すなわち北海道開拓に着手するにあたって最初に取り組むべき、①函館裁判所設置、②蝦夷地を統括する総督などの人選、③蝦夷地の新名称の3点を挙げて議論を始めたのです。
 
その結果、4月17日に「蝦夷地開拓の7か条」が策定されます。この中で蝦夷地の名称問題は次のように示されました。
 

追テ蝦夷ノ名目被相改、南北二道に御立被成、早々測量家ヲ差遣、山川ノ形勢ニ随ヒ、新二国ヲ分チ名目ヲ御定有之候事(『新北海道史③』28p)

 
この時点で、蝦夷地の新名称に「道」を付けることが決定事項だったことが分かります。すなわち北海道の名称の3分1は慶応4(1968)年3月に決まっていたのです。
 

■道は五畿七道の道

この「道」は、「五畿七道」に由来しています。「五畿七道」は、東海、東山、南海、北陸、山陽、山陰、西南の各「七道」に、当時の行政の中心であった近畿の5地域の「五畿」を加えたものです。律令時代に起源をもつ日本古来の地方制度ですが、東海や北陸などは今も地方名として使われています。
 
ご承知のように慶応3(1867)年12月9日、明治新政府は「王政復古」の号令を発し、「諸事神武創業ノ始ニ原キ」と、新政府の政治を神武天皇以来の伝統に戻ることを宣言しました。具体的には、古代で最も官僚制度が整備された律令時代の諸制度を基盤とするということです。
 
明治新政府は、総裁・議定・参与という名称の閣僚組織で始まりましたが、律令制度への回帰がすすむなか、慶応4(1968)年4月21日に古代律令制のトップであった太政官が復活し、明治2(1869)年7月8日は、太政官の下に、大納言、右大臣、左大臣、民部省・大蔵省・兵部省など、律令時代の官職や省庁が復活していきます。開拓使は、この時、弾正台、按察使など復活した古代官庁とともに設けられたのです。
 
こうしたなかで地方区分も「五機七道」という律令時代の地方区分に回帰するのは自然な流れでした。事実、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まると維新政府は、東海道先鋒府、東山道先鋒府、北陸道先鋒府等と方面軍を「五畿七道」に準じて編制しました。
 
「五畿七道」の「道」は、「国」の上位に位置する地域呼称ですが、645年の大化改新からはじまり701年の大宝律令制定でおおむねの完成を見る古代律令制度の中で、中央から地方への政令伝達のために、さらに有事の際の軍隊出撃のために、道路整備と「駅伝制」という情報伝達制度が整備された(木下良『日本古代の道と駅』吉川弘文館・2009)といいます。
 
「駅伝制」は、30里(約16㌔)ごとに「駅家」をおき、そこに伝馬をおいて官吏に提供するものです。駅家の官吏は国司の勤めで、しばしば駅家は国府・郡衛になりました。
 
「五畿七道」の七道はこれら駅家が置かれた伝路の主要なもであり、駅伝制をとおして地方の統治機構と結ばれたことから、「五畿七道」は地域名称であるとともに、古代の地方制度でした。
 
慶応4(1968)年4月の官制改革の一環として会計官の中に駅逓司を設置して、江戸時代以来の宿場を「駅」と呼ぶようにして宿駅制度の改革を図ります(増田廣實『明治維新期における宿駅制度の諸問題』国立情報科学研究所・1981)が、これは明治新政府が「五畿七道」を単なる地域名称としてではなく、地方交通制度として復活させようとしていた現れと言えます。実際に開拓期の北海道で太古の「駅伝制」は北海道固有の「駅逓制度」として蘇ります。
 

五畿七道②

 

■律令国家の予約名としての「北海道」

このように見ていくと、「北海道」は、律令制度の「五畿七道」の復活、そこに北海道を加えた「五畿八道」の確立であることは明らかです。
 

明治6年の文部省の通達。冒頭で五畿七道に北海道を加えた五畿八道の名前は日本古来の呼称と述べている。

 
さて、古代律令時代の「五畿七道」の詳細は、律令制度の細目を定めた「延喜式」の第28巻兵部式に具体内容が示されていますが、「南海道」「西海道」「東海道」はあっても「北海道」はありません。
 
「五畿七道」は、方角や四季を重視する陰陽道の影響を受けたものとされます(中村太一『日本古代国家と計画道路』吉川弘文館・1996)。陰陽道において東西南北は青竜・白虎・朱雀・玄武という四神を示しますから、「五畿七道」において「北海道」がないことは画竜点睛を欠くものだったでしょう。
 
なぜ古代律令政府は「北海道」を設けなかったのでしょうか? 北陸道か東山道の一つを北海道とするだけで東西南北は完成したのです。
 
「五畿七道」の根幹を支えている「駅伝制」について、大化2(646)年の『改新詔』に最初の概要が示されているといいます(同上)。斉明天皇5(659)年に、阿倍比羅夫が軍船180隻を率いて蝦夷に上陸し、後方羊蹄に政所を置いたとの記録があります。すなわち「五畿七道」の成立と阿倍比羅夫の蝦夷地遠征は同時代なのです。そこから次のことが言えないでしょうか?
 
古代の「五畿七道」に「北海道」が無いのは、阿倍比羅夫の遠征により蝦夷地を意識した律令政府が蝦夷地の発達を待つことにしたからだ。「北海道」とは、将来蝦夷地に皇化が及んだときに与えれる予約名であったと。
 

 

■出揃った4つの「海道」

このようなことから、蝦夷地の新名称が「北海道」になることは、ごく自然な流れであったと言えます。慶応4(1968)年8月の箱館府判事・井上石見と同指司事・三澤揆一郎の建言に
 

蝦夷二嶋之儀者兼而被
仰出候儀も有之候得共新に北海一道を被為至当の御儀と奉存候
是迄五畿七道之内北海道之名目無之者
祖宗之深意今日を被為待候二も可有之哉

 
との文言があるといいます(笹木義友・三浦泰之編著『松浦武四郎研究序説』北海道出版企画センター・2011)
 
「蝦夷地本島と北蝦夷地の二島はかねてからいわれているが、新たに北海一道を置かれることが至当であり、これまで五畿七道のうち北海道の名目がないのは先祖の深意が今日を待っていたためであろうか」(同上)との意味です。慶応4(1968)年の段階で、蝦夷地に関わる人たちの間で北海道が既定路線だったことを伺わせますが、150年後の私たちも同じ感想を持ちます。
 
明治2(1869)年8月15日、蝦夷地が北海道と改められることによって「五畿七道」は「五畿八道」となりました。陰陽道において、東西南北は青竜・白虎・朱雀・玄武という四神を示しますから、北海道が配置されることによって、4つの「海道」が揃い、陰陽道的に国土が完成することになります。現代人には理由にならない理由ですが、150年前の人々には大きな理由であったでしょう。
 
こうして見ると北海道という名称には、松浦武四郎であれ、徳川斉昭であれ、特定の個人がネーミングセンスを発揮してつけた名前であると考える余地はありません。北海道は、大化の時代から1200年後に蝦夷地に与えられる運命だったのです。
 
むしろ、松浦武四郎の雅号「北海道人」、徳川斉昭の北方未来考の「北海道」の由来が「五畿八道」と考えるべきです。つまりは、武四郎の「北加伊道」が「北海道」になったのではなく、「北海道」を武四郎は「北加伊道」にしたのであると。
 
しかし、ここで次の疑問があるでしょう。「北海道」がそこまで必然的な名称ならば、なぜ慶応4(1968)年の初めから登場しなかったのか? なぜ明治2年になって松浦武四郎に問い合わせる必要があったのか? と。次回最終回はこの問について考えます。それのヒントは「南北二道」にあります。
 

阿倍比羅夫③

 

 


【引用参照文献】
・『新北海道史③』北海道・1971
・『新撰北海道史③』北海道・1937
・『明治天皇記』宮内庁・1968~
・『維新史』維新史料編纂事務局・1937
・竹内運平『北海道史要』(市立函館図書館・1933[北海道出版企画センタ-・1977]復刻)
・中村太一『日本古代国家と計画道路』吉川弘文館・1996
・新野直吉『古代地方制度の研究』吉川弘文館・1974
・倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』
・笹木義友・三浦泰之編著『松浦武四郎研究序説』北海道出版企画センター・2011
・増田廣實『明治維新期における宿駅制度の諸問題』国立情報科学研究所・1981
①明治神宮・https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php
②https://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/touzando-m/kodaimichi2.html
③https://ja.wikipedia.org/wiki/阿倍比羅夫

 
 

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