北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【士別・名寄】古老回顧 2話

笹の実がたくさんなったので
餓死せず、危機を突破することができた

 

北海道の中でも北方の道北地方での開拓は厳しいものがありました。今は見渡すばかりの美しい牧野が広がる地域ですが、そうした風景をつくったのも開拓者の血を滲む努力であったことを忘れてしまいがちです。士別と名寄に入植した2人の開拓者が残した談話をご紹介します。この人たちの苦労があって、今の私たちの暮らしがあることを年末のいまだから思いたいです。

 


 

今それらのことを思い起せば笑いの種だ。 
冨生貞吉(士別市多寄:明治34(1901)年入地)

 
現住地多寄町36線西8番地に75町歩の土地を目当てに、近文4線から転住して来たのは明治34(1901)年12月17日、雪の中だった。
 
士別で汽車を降り馬ソリで基線までやって来たが、今の市街の十字街のところまで来かかると、左方に草束を結びつけた目印しがある。藤吉(子息)が見つけて「ここからだ!」といって雪中密林に分け入った。
 
1本の木を倒すにも容易でなく、それを倒せばようやく天が見える。自分の居場所から山が見えるようになったのは3年目であった。それほど大木が繁茂している深林であり、1本の大木を倒せば1反歩からの面積をふさぐのもあった。
 
当時こは何ひとつ採れるではなし、働くに仕事はない。びろうな話だが、食になることなら便所の掃除でもなんてもしようと思って見ても第一人煙まれで、そのころ本村にはまだものの10戸と人家はなかった時代、北海道の冬といえば6か月ある。この6カ月間に労賃を得たことが二冬もあった。家内がある夏、知人の頼みで、畑作物の手伝いをやったら、50銭銀貨一つもらったのが唯一の収人であった。うそのようなまことの話だ。
 
酷寒であった一例は、笹ぶきの小屋の中にヨシをひき、その上に布団や赤毛布を敷いて寝る。朝目ざめて見ると天井から無数の白い毛糸のようなものがつり下がっている。布団の上にも白いものがスツスッと立っている。
 
炉に下げてある自在鈎が上から下まてまっ白になり、ようやく火をたくと火以て鉤の下の力から5寸、1尺と消える。
 
天井から無数に下って色毛糸のようなものは、後刻雨漏りでもするようにとけて落ちる。これは何か、言わずと知れた霜柱のそれである。
 
当時開拓といへば大森林を早く切り倒し、焼き尽くしてしまうのを開墾上手といわれたものだ。さていよいよ切りかかるべくこの大森林の前に立ったとき、いかにして成功するかと大木を見守って吐息し、思案にくれたのである。
 
しかも男2人女2人、奉公人と子供1人の家族が屈せず、たゆまず奮闘を続ける。藤吉も自分が本年兵隊に取られずこの地に移住したものだから、未開地開拓もひとつは国家事業だ、と入営したつもりで極力働く。
 
また藤吉の妻は医師の娘をもらったので鋤や鎌を見たことがないくらいだが、これもきかぬ気になって励んだところから、自然に覚え慣れてくる。一人前以上の働き手となった。
 
なりふりかまわず働いたもので、今時の娘たちのように七三髮だとか、お化粧だとか、流行を追うようなことは本人も好まず、また事情がゆるさなかったのだ。
 
ついでに話すが、私が家内を伴い札幌から旭川にむかった途中、大きな蕗(ふき)の葉を取って日よけにして来た。近ごろのようなハイカラな洋傘なんかは見たくもなかった。
 
家族一致勇気をふるい起こしては共に鋭意開墾の歩を進めた効むなしからず。あの目にあまっ大森林も3カ年にして40町歩を成功した。うち5町歩は耕作人に開想させ、伐木料を支払うといった有様。
 
その他は家族と奉公人と、日雇い稼ぎ人を雇って成功検査を受けたさいに、成功検査員は「北海道第一人の成功者だ」といって褒めてくれた。
 
その翌年いまの市街法線道路(国道)からこの36線道路420間の開さく工事が竣工したさいには、何ともうれしくて小躍りしたものだ。
 
こういってしまえば何のざうさもなかったことのように思われようが、どうしてどうしてその間の艱難辛苦といったら自分ながら話ができぬほどである。
 
明治36(1903)年、少々の水稲を試作したところ、これならば大丈夫、収穫ありとの自信を得たので、明治41(1908)年に2町歩の水田を作付けして高成績をおさめた。
 
これは好果ばかりの話だが、困惑した方になると明治35(1902)年の凶作と大正2(1913)年の凶作に出合い、樽の実を30線あたりまで採りに行ったり、楢の実を採って団子にして食ったり、非常な目にあった。
 
入地した当時、飲料水や使用水に困り、雪をよけ、土を掘って小さい穴をうがって手桶や鍋に繩をつけて水をくみ上げる。その鍋ひとつで煮炊をする。後日ようやくの思いで南京米を得て舌鼓を打ったようなしまつもあった。
 
煙草が好きで一時煙草をかくして植えたこともあるが、役所がやかましいと聞いて止めてしまい、垣にしてあるよもぎの枯れ葉をむしりとって吸ったものだ。今それらのことを思い起せば笑いの種だ。
 

 


 

聞拓当初を思えばただ感慨無量である
柳原 岳洲 (開教師:名寄智恵文 明治36(1903)年来住)

 
開村50年に当たり、旧懐の一端を記したい。
明治36(1903)年5月、上川支庁を通じ、智恵文教育所新設の建物図付した願書(註:村内移民70戸が談合の結果、教育者として適当な僧侶を派遣してほしいと、西本願寺に願書を出した)を見、安心して教負辞令を受取り、札幌より汽車で士別駅に下車したのである。
 
それから徒歩で士別〜名寄間1泊の後、あの鬱蒼たる原始林に覆われた名寄旧峠3里半の道を10線小堀氏宅まり辿り沿いたのは昼過ぎであった。店先にあったパンを求めて食べながら「実は私は今度教育所の教員に来た開教師だが、教育所は何処ですか?」と言うと小堀氏妻曰く「教育所は未だ建っておりません」の言策に驚いたわけである。
 
小堀氏が知らせてくれたのか、そこへ近くの小野三次氏が迎へにきてくれ、「今日来られることがわかれば、名寄まで迎へに出たのだが」と申されるので、「実は士別で電報を打ってあるのですが」というと、小野氏は「電報なら早くても明日あたりでなければ着かないいのです」といはれて今更ながら不便な処と思った。
 
その晩は、小野氏宅に1泊、翌日から中村、上坂氏の宅を泊り巡る間に急を知った有志の中村、上坂、木村、小林、小野の諸氏の奔走により部落民の協力で13線南3番地に3間に5間の掘立小屈が急造されたので、それを校舎に充て、ここで初めて知恵文における簡易教育所兼説教所の開設となり、中川郡における学校と寺院の創始となったのである。
 
開所式の時は1戸当たり10銭宛の寄附金を募集したのであるが、思ふようにまとまらず、中には天塩川で獲った鮭を1匹持参し、それを私や有志の2,3が買い取って祝賀の酒代とした始末で、その頃の困窮ぷりは実に惨めなものだった。
 
開所の当初は生徒数21名で初等と補習で6学年であり、教室なぞは机椅子がなく、土間に杭を打ち、その上に板を載せて机腰掛けの代用とした。床は土間で土足授業したものである。
 
翌年になり、床も板を並べ、その上に蓙を敷き、机も新調された。かくて年々入地者の増加につれて、生徒数も65名となり、教室も狭くなった。
 
明治39(1906)年になると説教所の生徒も増加して寺号公称の機運となり、同年6月にいよいよ教育所は独立し、12線南3番地に新築され、小学校と改称され、専任教員に関田正平氏が任命された。説教所も本堂を新築して乗船寺と改称され、この4カ年の説教所の実際の授業日は、私は法要で他出がちなため、妻女フサが半分は行ったのである。
 
当時の下名寄の教育費は甚だ僅少で、智恵文、美深、恩根内と3カ所で月額18円程で、教員の給料は月6円で、その中から筆墨代、郵税を出した始末であったから、生活は楽でなく、私は幸にも本山より月6円の手当が別にあったので、それほどでもなかったが、美深の専任教師で借金が出来て夜逃げした者もあった程である。
 
私の赴任した36年と翌年あたりが最も困窮のどん底にあったらしい。当時の智恵文の戸数は65戸で、最初の者は24年に天塩川を丸木舟で移住したらしいが、開拓も思うにまかせず、不作のため大部分の者は魚貝草木を常食していたらしい。これについてエピソードがある。
 
私が教育所に泊ったはじめての晩、腰に鉈を下げ、目ばかりギロリ光った山男のような人が入って来て日く「あんたはまだ金を持っているだろうが、いまのうちに早くここを引き上げたらよい」といふので、側の妻なぞは恐しさにふるえていたほどだが、
 
私も気味悪いながらも腹も立ったので、「私は縁があってせっかくここにきたのである。何もお前さんの指図を受ける必要がない」と荒々しく言うと、
 
その男は「私は藤岡といふ者でこんなことをいったが、決して誤解して下さるな。あんたのためを思って忠告に来たのだ。あんたはまだ何も知らないだろうが、ここは人間の住める処ではない。実は私をはじめ部落の大部分の者は不作で入殖のときに持って来た米および金も全部使い果たし、いまは魚貝草木の根を常食している有様で、充分に働く気力もなく、いつ死するかわからん状態だが、いまとなっては所持金もなく、引き上るわけにもいかず、運を天にまかせている」との言葉に打ち驚かされた。
 
その時はじめて藤岡氏の親切を感謝するとともに、励し合った程であった。
 
この話を翌朝尋ねてきた有志の中村氏に話すと、「それは本当だ。いま部落で麦、米を常食している者はほとんどいない」というので、いよいよ、とんでもないところにきたものだと思った。
 
しかし、その年、山野に笹の実がたくさんなったので、餓死する者も出ず、危機を突破することができたのは幸であった。
 
なにせ昼なお暗き大森林で完全な道路とてはなく、基線道路でさえぬかるみで歩けず、9尺ほどの割木を筏の様に並べて歩ていたもので、今となれば何ごとも過去の夢で、ともかく聞拓当初の状態に思い比べて、今日のように見渡す限り肥沃な村と化したことは、ただ感概無量なものがある。
 

 


【引用出典】
『士別市史』S44
『続名寄市史』S46
①士別市公式サイト https://www.city.shibetsu.lg.jp
②名寄市公式サイト http://www.city.nayoro.lg.jp/visit/index.html
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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