北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道神社仏閣由来記⑤ 

【釧路】厳島神社 和人とアイヌの神を祀る

毎年元旦に道内神社の由来を紹介して初詣に趣を添えようという企画を行っています。札幌、旭川、箱館、帯広と続けましたから、今年は釧路の厳島神社を取り上げました。北海道の神社は地位の開拓物語と深く結び付いていますが、今から220年も昔の厳島神社の創建も釧路の開拓と深く結び付いていました。

 

厳島神社①

 

■釧路場所の起こり

厳島神社は、釧路地方の一之宮と呼ばれるのは厳島神社です。
「厳島神社由来記」は「本神社は釧路が未開草叢の歳、漁場請負人佐野孫右衛門なるもの漁場の安全を奉祈せんがため、芸州厳島神社の神霊を勧請奉祀したることを紀元とする由伝えられている」とあります。
 
釧路のいわれとなった「クスリ」は寛永20(1643)年にフリース船長のオランダ船が厚岸に来港したときの記録に表れたのが初めで、大きなアイヌ集落があったようです 。クスリ場所は寛文9(1669)年頃に厚岸場所から独立したと考えられています。
 
米の採れない蝦夷地を支配した松前藩は、漁場の経営権=商場を家臣に与え、その収益を知行米の代わりとしていましたが、家臣たちは商場の運営を商人に委託するようになります。松前藩独自の「場所請負制」と呼ばれるものです。
 
クスリ場所は飛騨屋の請負場となりましたが、寛政元年に起きた「クナシリ・メナシ乱」の責任を問われて権利を取り上げられ、クスリ場所は松前藩の直轄となりました。ここからは釧路場所と言います。
 

■佐野孫右衛門と釧路

釧路場所を直轄地とした松前藩は、村山伝兵衛、大黒屋茂右衛門、大和屋吉兵衛などに運営を任せます。直営といっても実体は場所請負制と変わりませんでしたから、文化10(1813)年に場所請負制は復活し、文政5(1822)年(または寛政の初め)に米屋孫左衛門が運上金450両で釧路場所の請負人となりました。ここから釧路と米屋=佐野家との関わりが始まります。
 
佐野家は、越後の寺泊から起こった商人で、初代孫左衛門は、天明年間に福山に移り、「米屋」と号しました。初代は石狩場所を請け負うこともありましたが、文政年間に釧路場所を取得すると、明治に場所請負制が終わるまで(途中短期的に海老名家が請負うこともがありました)釧路を支配しました。
 
初代佐野孫右衛門は文化3(1806)年に没し、二代目が家督を継ぎます。松浦武四郎の「久摺日誌」(文久元(1861)年)によれば、二代目佐野孫右衛門が「土地のアイヌの人々がカムイシュマと呼び、木幣を立てて祀っていた土地に神殿を造営すると、以来豊漁が続き、人口も増加してついに神社を中心とした一部落を形成するにいた」(釧路市史)とされます。
 
武四郎の記録よりも古い「東行漫筆」(文化6(1809)年)にも、この地に「弁天社」が祀られていたと記録されていることから、古くから社はあったようです。二代目が社を厳島神社として古い社を拡張したことで、この神社が地域発展の原動力なっていったようです。
 

幕府直轄時代の釧路②
中央の鳥居が弁才天=厳島神社

 

■厳島神社の神さま

厳島神社の主祭神は
 

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

 
です。この神様は天照大神の子で、海の神様として信仰されてきました。神仏習合の時代には仏教の神であるの弁才天と同一視されていました。広島県の国宝厳島神社の主祭神も市杵島姫命です。
 
この他、相殿神として次の神様が祀られています。
 

阿寒大神
稲荷大神
金比羅大神
秋葉大神
海津見大神
猿田彦大神

 
いずれも、五穀豊穣、海上安全、家運隆盛などを祈る神様ですが、阿寒大神(あかんのおおかみ)だけは大和神話に登場しません。阿寒大神は「その初めは『土人〝アカンカモヰ〟ト申シ奏リテ祭祀シテアリ』(厳島神社略記)というものを阿寒大神として祭った」(新釧路市史)ものです。釧路の厳島神社には大和神話の神々とともにアイヌの神様も祭られているのです。
 
二代目佐野孫右衛門が弁天社を厳島神社としたとき、和人の海の神様である「市杵島姫命」とともにアイヌの神様である「阿寒大神」を祀り、両民族の神様を祀ったことで、今の言葉でいう「多文化共生」の象徴となって、いよいよ信仰を集めたのではないでしょうか。
 

■釧路の基盤をきづいた四代目

佐野家は、漁場を経営しただけでなく釧路の開拓にも大きく貢献しました。
 
天保11(1840)年に生まれた四代目佐野孫右衛門は、幕末から明治初期の多難な時代に積極経営を打ち出し、安政4(1857)年に四代目を継ぐと山田文吉衛門とともに樺太の漁場開発に乗り出しました。投資額は8000両に達しました。事業は振るわず、失敗しましたが、四代目はロシアの脅威が樺太に迫る中で民間の力でこれに対抗しようとしたのでした。
 
また慶応年間に米が暴騰して箱館の住民が困窮すると、毎日白米の布施を行ったというエピソードもあります。このような功績で慶応3(1867)年に箱館府から苗字帯刀を許される立場となりました。
 
明治2(1869)年に場所請負制度が廃止され、佐野家は営業の制度的基盤を失いますが、四代目は家屋や漁具等を用意して奥羽・函館地方から170戸の漁民を釧路、昆布森など移住させました。さらに自ら釧路に本籍を移しました。
 
医療環境が乏しいことから医師玄洋を招聘して医院を開設。箱館から僧侶永礼師を招いて布教所と教育所を手させました。さらに道路を開削して市街を造成するなど、釧路のまちづくりに献身しました。このときに費やした私財は明治2(1869)年から5年までの3年間で当時のお金で2万円もの巨費に及びました。
 
明治5(1872)年、四代目は諸事情で箱館に戻らなくなりましたが、住民は「三か年無給にて労務に服することを条件として翻意を求めるも許さず箱館に出発せり、当時住民は慟哭してその別れを告げたり」といいます。この後も不漁期には漁民の窮状を救い、硫黄山の鉱山開発の端緒をつくるなど、釧路のまちづくりに多大な貢献を行っています。四代目佐野孫右衛門は「釧路の父」というのにふさわしい人物です。
 

四代目佐野孫右衛門

 

■通訳として活躍した豊島三右衛門

四代目佐野孫右衛門の片腕として佐野家釧路支配人を務めた人物に豊島三右衛門がいます。やはり越後寺泊の人で、文政5(1822)年、14歳で釧路に来住しました。アイヌ語に精通し、佐野家だけではなく幕府、維新政府のアイヌ語通訳も務めています。松浦武四郎が幕府の命令で道内を踏査したときには案内人を務めました。
 
安政三年、西別川の狩猟権を巡って上流のアイヌと下流のアイヌで争いが起き、幕府の厚岸会所に訴えが起こったとき、通訳として両者の間に入って解決に導いたりしました。
 
豊島家は、明治13(1880)年に佐野家が釧路の経営から離れたのを機に独立して漁業を経営し、明治には釧路の旧家として全盛を極めました。
 
松浦武四郎の記録にあるように、アイヌと和人の両方の神を祭った厳島神社を中心に集落が広がり、やがて釧路の街に発展していきました。この厳島神社は、釧路市弁天ケ浜、かつての料亭「八浪」のあったあたりにありましたが、釧路が発展し、総鎮守として境内を求めるとあまりに狭隘であったことから明治18(1885)年頃から移転運動が高まり、明治24(1891)年2月10日に現在地に移転しました。
 
この移転に際して厳島神社は郷社に列せられ、大正12(1923)年に県社に昇格。名実ともに釧路一之宮となりました。厳島神社にお参りするとき、佐野家の歴史と佐野家が心を尽くした両民族の共生の心に思いを馳せたいものです。
 

 
 


【参考引用資料】
①④厳島神社公式サイト http://kushiro-itsukushimajinja.com
『新釧路市史1〜3巻』1972〜1973
『厚岸町史』1975
②③『釧路郷土史考』釧路市役所・1935

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。