【伊逹】開拓時代の出産
畳あげて稾を敷いて出産した
人はすべて女性から生まれます。妊娠〜出産という神秘を開拓時代の人たちはどのように迎えていたのでしょうか。平成6(1994)年の「伊逹市史」の第10編第4章「人の一生」では、明治末期から大正に伊達市に生まれ育った人々からの聞き取りにより、開拓期の出産から葬式まで風俗を詳細に紹介しています。その「出産と育児儀礼」を分かりやすく再編集してお届けします。わずか百年で「出産」はこんなにも変わりました。

母と子(イメージ)①
■腹帯
妊娠が分かった3か月から5か月ころの「戌の日」に産婆さんに「腹帯」を巻いてもらいます。腹帯を巻いてもらうのは初めの子どものときだけで、あとの子どもからはその経験を生かして自分で巻きました。
腹帯にはサラシを半反、あるいは1丈2尺を用います。「子どもがあまり育ちすぎないように」とサラシを巻くとよいと伝えられています。腹帯は「イワタオビ」とも呼び、サラシの端に「安産祈願」の文字を書くこともありました。
腹帯は出産前に巻きますが、出産後も悪い血が登らないように、乳が上がらないようにと、腹帯または日本手拭いで乳の下あたりをきつく巻きました。腹帯は風呂に入っている間も取らずに、21日間から1か月ほども巻いておかなければならなかったそうです。
つわりを「クセヤミ」と呼びました。「魚の臭いを嗅ぐと、吐き気がする」「稲黍は食べたけれど、蕎麦(そば)の香りが鼻に入ったら、叶きたくなった」と聞かれますが、「吐いてしまったら、お腹が空っぽになって、食べたい気持ちになるんだけれど、嫁ですから食べたりできなかった」と話し、そのことが一番つらかったといいます。
■出産
大正までは座ってお産をしたようです。そして産むところは「ス(巣)」と呼んでいました。「畳あげて稾を敷いて出産した。21個の稾の枕を作っておいて、一日ずつはずし、その枕が無くなったら床上げでした」。昭和初期に座産から仰臥位に変わったようです。
昭和11(1936)年の出産でも
「布団に寄りかかって産み、子供を産んだら寝かせられた」
「姑さんが畳を1枚はぐって、稾をすぐってスの用意していたら、産婆さんが来て今はそうしないといって、布団に寝かせた」
「初めての出産のとき、畳をあげて稾を敷いて、その上に敷布を敷いて出産しました」
「12月で、日明けまでの21日間、縁の下からの風が寒くて寝ていられなかその後は畳の上で布団に油紙を置いて、敷布を敷いてお産した」
昭和初期はまだ座産で出産した風習が残っていたようです。
■産婆
出産の介助は、免許をもった助産師だけに許されていますが、戦前は素人の産婆さんと免許をもった産婆さんがともに出産に関わっていました。
「何もない(通常分娩)ときは素人産婆さん、後産が下りなかったときや何かあった(異常分娩)ときは免許を持ったに取り上げてもらった」
素人産婆を「オサンバアサン」と呼び、「産婆さん」と区別していたようです。オサンバアサンは地区の経験豊かな年寄りがなりますが、そのお礼は現金でする家が多いものの、ネルのお腰と重詰めの赤飯など、とくに決まっていなかったそうです。
今は、難産などのときに夫が側にいることが推奨されますが、当時は男はほとんど出産に関わりませんでした。死産にかかわるご遺体の処理も産婆さんの役割でした。
出産時の汚れものや後産は、太陽の直接あたらない日陰や軒下にいけました。この仕事は主に夫の役割であったそうです。戦前は焼き場に持参して火葬してもらったこともあったようです。
自宅分娩のときは、へその緒は綿花などにくるんで保存するように産婆さんから手渡されました。
■産後
出産後、早い人で3日目、多くは7日目に「腰湯」、あるいは「裾湯」いって大根の干し葉を入れた湯につかりました。干し葉の湯は体が暖まるといわれています。この腰湯は人のあまり踏まない軒下に捨てました。
産婦は、腰湯をつかうまでの1週間をサントコ(産床)で食事をします。その後は起きて家族とともに食事をするようになりますが、産婦の食事だけは白い白米飯の粥が用意されました。
産婦には粥とお産見舞いに届けられた味噌を使った落し味噌、脂の少ないマガレイ、乳がよく出るように餅、白玉などが与えられました。干し葉の湯は体が暖まるといわれています。
「落し味噌」は、だしをとったなかに味噌を加えて、あまりグラグラ煮ない、煮立ち加減のときに下ろす。具の入っていない味噌汁です。3日間はこの落とし味噌と粥(かゆ)、その後は落とし味噌のなかに少しずつ魚や餅などが加えられ、粥からご飯になります。
漁村部では「家族と産婦の火を絶対に混ぜてはならない」といい伝えられ、産婦の食事を作る火は家族と別にしました。出産儀礼とあわせて、漁業に携わる人々の禁忌が強いことが窺われます。
7日目に「産婆礼」を兼ねた1週間目の祝いをします。1週間目がひとつの節目になっていますが、産婦はそれから21日まで、その家々に応じて家内の仕事をして過ごしました。
出産から21日目まではケガレているのでオテットウサッ(太陽)に罰が当たるといって、太陽に直接当たらないようにしました。21日前に外に出るときは頭にすっぽりと被りものをしたといいます。同じ理由でオシメも1週間は家の中に干しました。
■お産見舞い
出産の祝いは日明けをする22日目頃までに近所や実家から届けられます。古くは味噌を重箱に詰めて隣近所から届けられました。
「届けられる味噌の数が多いほど日立ちがよい」といわれ、産まれるとすぐに隣近所から味噌が届けられました。この味噌は「産婦の体が暖まる」といって、落とし味噌にしました。味噌とともに白玉、卵なども届けられます。
昭和初期に出産した人々には友禅模様の反物、着物がお産見舞いの品として用いられました。実家からは重ねの掛け衣裳、木綿の反物、裾と袖に綿を入れた夜着などが届けられました。昭和も遅くなると初節句に女の子は雛壇、男の子には兜や武者人形など。
21日目の「日明け」には、赤飯をふかし、お産見舞いのお返しとして隣近所に配り、産婦は床上げをしました。
このような自宅出産は昭和30年代まで行われていました。
■禁忌
漁村では出産があった家は船止め(漁休み)をしました。船止めはかつては1週間、戦後も3日間は出漁しなかったといわれています。
出産時の出漁に関しては「死んだときよりも厳しかった」といわれています。道南の漁村地域でも「サンビはシニビよりも嫌われた」といい伝えられ、漁村部では血の忌みが強かったことが伺われます。
「7日目に太子さんのお祓いをうけてから、次の日に船を塩で清めてから出漁した」。出漁にするときは家の神棚や船霊様にも塩と水を供えたといいます。
食べ物では、辛いものや脂の多い鱒などは避けたほうがよいとされました。とくに辛い食べ物は血の道に悪いといって避けました。馬に乗ったり、高いところに手をのばしてはいけません。重いものを持ち上げてはいけないといわれました。
井戸掘りのときに井戸を覗くものでない。火事を見ると赤あざのある子が生まれる。死んだ人の顔を見てはいけない。葬式を送るものではない、などの言い伝えがありました。
産婦は、日明けまでの21日間、お不動さんの罰があたるから、火を焚いたりすることが禁じられ、日明けまでの21日間は「水に手を入れてはいけない」などともいわれたといいます。逆に「イワシは家傾げても食べるといい」といわれたといいます。
■赤ちゃん
生まれたばかりの赤ちゃんは、すぐ産婆さんによって産湯をつかわされ、用意してあった産着を着せられます。産着は、晒しの襦袢に単衣。冬は長襦袢にネルの下着、綿入れを着せました。
初めての子どもは新調した着物でしたが、次からはお下がりになるため、男の子か女の子か分からないような色あいの着物にしました。おしめは丹前下、単衣ものの古いものからつくりました。
7日目までは、産婆さんが毎日あかちゃんに湯をつかわせにきました。そして1週間目には産婆礼の祝いをしました。7日目から2週間目くらいの間に、神棚に名前と書いた半紙を貼って名付けをしました。
「お喰い初め」と称して女の子は105日、男の子は110日で尾頭付魚を揃えた膳で祝う家がみられました。「女の子はいやしいので男の子より早く祝う」そうです。
生後一年目を祝う「一年の祝い」には、どこの家でも1升餅を子どもに背負わせました。誕生前に歩くと縁起が悪いので「ころばなかったら、ころばせるもんだといって、押してころばせた」そうです。
子どもは稾で編んだイズコに入れて育てました。野良に出るときはタスキをかけて動かないようにしました。イズコは次々と産まれた代々の子どもたちが使用しますが、イズコがないときは行李の蓋をイズコにして使いました。
2歳くらいまではイズコのなかで育てました。「七五三」は戦後に始まったもので戦前は行われていなかったそうです。
引用・参照文献
『伊逹市史』(平成6年)
①函館市中央図書館デジタル資料館
https://archives.c.fun.ac.jp/