北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【富良野】恩師福沢諭吉の遺志に応えるために 中村千幹

 

中村千幹①

 

富良野市は、倉本聰の連続ドラマ「北の国から」の舞台として、富良野スキー場による国際リゾートとして北海道でも人気の高いまちです。しかし、富良野は北海道の最深部、明治には人を寄せ付けない鬱蒼とした密林が続いていました。このまちは中村千幹という福岡県人によって基盤がつくられていきました。19歳で千幹に嫁いだ孝子夫人の苦労も忘れることはできません。

 

 

■福沢諭吉の激励を受け

福岡の豊かな豪農の家に生まれた中村千幹(ちから)が、北海道開拓を志したのは、恩師である福沢諭吉の強い勧めでした。
 
千幹は、福沢諭吉の出身地に近い慶応2(1866)年に福岡県三井郡漆山に生まれ、長じては憧れの郷里の偉人が創設した学校、すなわち慶應義塾に進みました。数多くの門弟の中で諭吉は、とくに同郷の千幹と神代村次郎に目を掛け、「北海道開拓は国家の事業であり、また個人の産を産むものである」といって諭吉一流の経国論を二人に説きました。
 
明治20(1887)年頃ですが、諭吉の名声は日本中に鳴りひびいていましたから、若い2人の感激は想像に余るものがあります。2人が北海道に渡るのは当然の成り行きだったでしょう。後に諭吉は北海道で奮闘する千幹に手紙を贈りますが、千幹は「これはわが家の家宝だ」と言って大切に保存していたそうです。
 
2人は、慶應義塾を卒業したとも、途中退学したとも言われますが、明治23(1890)年10月に北海道へ渡り、はじめは2人は山口儀幸を訪ねて空知の長沼村に開墾に入ります。ここで約6年2人は開墾に尽力しますが、千幹は長沼を神代に譲って新たな土地を求めて滝川に向かいました。神代村次郎は残り、明治28(1895)年に長沼村の総代に選ばれるなど、村の基盤づくりに尽力。この村で諭吉の願いを実現しようとしました。
 

※中村千幹の渡道は『富良野市史上巻』(1968·149p)では「明治29年、日清戦争直後の国運進展と、北方開拓の機運に乗して北海道に渡った」とあり、現在関係ホームページでも同様に記されていますが、『長沼町の歴史上巻」(1962·643p)に「明治二三年(一九八〇)◎十月福岡県人神代村次郎、中村千幹、福沢諭吉の薫陶を受け山口儀幸を尋ねて移住、中村千幹後に深川に転住開祖と称される」とあり、140pの「北長沼地方入植者順序」にも同様の記載があります。明治2年に生まれた中村が慶應義塾で福沢諭吉の薫陶を受けて北海道に渡ったとしたら明治29年には27歳となります。長沼町史の記載は具体的であり、21歳の渡道に無理がありません。本稿では中村千幹の渡道を明治23年としました。
 
 

■越後組合農場

滝川屯田で同郷の北川清太郞を尋ねた千幹は、福岡出身の代議士佐々木正蔵を紹介されました。佐々木も北海道開拓を国家の大事業と考え、すこしでも貢献すべく富良野盆地に1300町歩の貸下げを受けていました。しかし、当時の富良野盆地は北海道の最深部未踏の原生林。土地を確保したけれども、そこから先へ進めないでいたのです。
 
良地に転住して開拓に入りたい千幹と土地を持て余していた佐々木の利害が一致し、千幹は佐々木の貸下地の開墾に入ることとなりました。そして神代村次郎も出資者に加わり、福岡県人によって「越後組合農場」が組織されます。
 
当時の北海道開拓は、国有地である未開地を申請のあった者に貸下げ、一定の期間内に開墾を成功させれば譲り渡す制度で進められました。土地をめぐる不正も横行したため、譲り渡しを審査する開墾の成功検査は厳しく行われました。このとき、佐々木が貸下げを受けた土地の成功期限も迫っていました。一日も早く事業に着手しようと、冬にもかかわらず、千幹と北川清太郞、関鉄蔵の3人は現地踏査を行うこととなりました。
 
明治29(1896)年12月、3人は空知川を溯り、滝川から芦別、そして富良野へと進みました。ところが芦別をでたところで難所にあたりました。若さというものでしょう。素足で川に入りました。2間ほどすすんだところで足の感覚がなくなり、行き倒れになりかけましたが、死力を尽くして難所を抜け、富良野盆地に狩小屋を建てて周辺の調査を行いました。
 

■孝子夫人の証言

富良野盆地の将来を確信した千幹は、翌年春からの入植に備えて滝川に戻りました。千幹とともに入植に名乗りを上げたのは北川清太郞と北川彦兵衛です。清太郞は家族持ちで、開拓を成功させるには内助の功が必要であるとして19歳の孝子を千幹に紹介しました。
 
雪どけの明治31(1898)年5月5日、千幹と孝子の新郎新婦は富良野盆地に向かって旭川を出発しました。前年の経験から富良野盆地に向かうには旭川の方が良いと判断したのです。孝子にとって思い出多き初めての新婚旅行が、未踏の大原生林への旅だったのです。
 
前年の冬に千幹が富良野盆地に建てた仮小屋に着いたのは旭川を出てから4日目でした。『富良野町開五十年略史』(1952)には孝子夫人の口述筆記が引用されています。
 

中村孝子

 

鬱蒼たる密林と丈余の熊笹の間を縫うてかすかな一本道、否、人の通ったと覚しき跡があるだけでした。中村は時々空に向けて鉄砲を撃って進みました。随分辛い思いをして今の九線付近に辿り着いた時には日はとっぷり暮れ果てていました。目指す仮小屋はもう間近と思いながらも日が暮れて一歩も動けぬ当時でした。
 
不安な野宿に一夜は明け、翌八日、旭川を発って四日目に前年の冬建てた仮小屋に着いたのです。最初の夜が来ました。天地寂して声なき中にただ二人だけ! 安堵と歓びと悲しみと不安が交錯した中にも、数日間の身心の慰労は快い深い眠りに引き込まれるのでした。
 
明け頃ふとバチバチ、ゴーという地を震わすような異様な音に夢を破られ、不気味な予感に襲われながらも外を覗くと、数百間にわたる野火が弧状を描いて小屋に迫ろうとしています。私たちは文字通り必死に防ぎました。
 
この火はずっと今の市街地の方へ移動していきましたが、本当に劫火としか思えなかった。この火から小屋を救い得たことはまったく奇跡としか思えません。二人とも気がついて見ると眉毛がすっかり焦げて頭髪も半ば焼け縮れていました。

 
数日遅れて清太郞と佐々木彦兵衛の家族が到着。2家族が遅れたのにはこんな訳がありました。
 

同伴するはずの佐々木彦兵衛、北川清太郞の二氏は数日遅れて移住しました。佐々木氏は長沼の人で家族は夫妻と子供一人。北川氏は五人家族でおかみさんはその時、臨月であったので「途中で生まれるようなことがあっては」というので産湯に備えるために盥(たらい)の用意をし、二三〇間行っては休み休みをしながら、悲壮な覚悟で私たちより更に多くの苦労と日数を重ねて夜に入って空知川の畔につき、そこで野宿をしたのですが、気がついてみるとあたりはすっかり焼原です。
 
「もしや中村さん達の身に?」と不安と寒さのためまんじりもせず一夜を明かしたそうです。翌日、お互いが無事な顔を見せ合ったときはあまりの嬉しさ懐かしさに固く固く手を取り合って嬉し泣きをしました。本当に劇的な場面、地獄で仏に会ったとはこんな時のことかと思いました。

 

■密林の暮らし

中村家、北川家、佐々木家の入った場所は後に扇山と名付けられ、富良野の発祥地として知られます。福岡県人による農場なので正式名称は築後組合農場でしたが、地主の名前によって地域からは「佐々木農場」と呼ばれました。
 
最初の年の明治31(1898)年は、周辺の巨木の伐採に追われ、野菜ひとつつくることができませんでした。それでも瓜を植えてみると秋には立派に育ったので、二人は土地の良さを確信することができました。
 
およそ二冬、人を寄せ付けない太古の樹海の中で二組の家族の暮らしが続きます。買い物には旭川まで行かなければなりませんでしたが、男の丈夫な足で日の昇る前に出発して深夜に到着するのが精一杯。女性では往復で4日はかかりましたから、米45升と石油升を持ちかえるのがやっとです。この間、食事はヨモギ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜を塩でゆでることが精一杯のご馳走でした。
 
孝子夫人は入植時の住まいを次のように口述しています。
 

大部分は拝み小屋、屋根は萱(かや)または笹(ささ)、囲いものは草。数年後にはヤチダモの割板と樹皮がこれに代わるようになり、床は土間で草を敷き、後には割板の上を蓙(ござ)を敷くようになりました。よほど後になっても夏なると囲いの板の反り返った隙間から蚊、兎、狐、蛇の来襲やらの訪問を受け、時には熊の足音を間近に聞くここともありました。
 
衣服なども着の身着のまま一年、二年も経って醤油の空樽で初めて行水したときの快さを今でも忘れることはできません。数年後に二日かかりでトタン一枚を買って木のうろを輪切りにして一方の底にトタンを打ち付け風呂をつくった時、随分便利になったとうれしく思いました。

 
千幹の仕事は佐々木に農場の支配人として農場民を迎える準備をすることです。住居周辺の整理が終わると、千幹は移民を迎え入れるための準備に入りました。千幹は測量技術を身につけていたので、孝子を助手にして測量をして地図をつくり、区画を割り振りました。こうして入植計画ができると、千幹は旭川、滝川、長沼を回って小作人集めを行いました。この間の開墾作業は妻孝子の仕事です。
 

■成功検査

国有未開地貸下げの期限が迫ってきました。開墾は思うように進んでいません。やがて成功検査の日がやってきました。検査に合格しなければ、これまでの努力は全て水の泡となります。ここからは若林功『北海道開拓秘録』(1949)から引用します。これは北海道農会の若林が昭和初期に機関誌連載ために各地の開拓功労者にインタビューした貴重なドキュメンタリーです。
 

しかし、開墾はなかなか思うように進まず、予定の如くではない。しかる道庁の成功検査は極めて峻烈で、返地処分を受けた者も少なくなかった。これは世間に往々にして木材のみを目的とし、開墾は少しもせぬ山師者が少なくなかったからやむをぬのであるが、真面目な開墾者にとっては最も恐ろしいもので、成功検査の時は誠に戦慄したものである。
 
責任者たる中村は、生来の正直者から人並み以上にこれを恐れ、その心配のために次第に肉は落ち、顔色は憔悴し、妻はその無残な姿を見るに忍びず、様々と慰労激励に心を砕いた。中村は「人事を尽くして天命を待つのみだ」と言いながら、誠に渾身の精力を傾け、死に物狂いの努力をした。
 
いよいよ検査官が来て「君たちの努力は隣村の人たちからも聞いている。安心なさい」と言われたときに、中村は感極まって泣いた。妻ももらい泣きした。中村の至誠が天に通じ、正直の頭に神が宿ったのである。

 

■富良野の基盤づくり

北海道の開拓地では、開墾を成し遂げると割当地の半分を入植者に与え、残り半分から小作料を徴収するという「開き分け」という方式が行われていました。苦労して開墾しても土地が自分のものにならないのに、北海道くんだりまで来る者はいないからです。
 
「開き分け」では、地主と入植者で半分に割ることが一般的でしたが、千幹は出資者を説得し、小作7分·地主3分としました。開墾の苦労を知る千幹は、5分5分では入植者の利益にならないと考えたのです。
 
この築後組合農場の方式は評判を呼び、旭川と釧路を結ぶ十勝線の工事が近づいてきたこともあって、築後組合農場には多くの申込みがありました。初期の入植者の中には、ポートレイトの大家として知られる写真家の操上和美の祖父·操上貞次もありました。
 
区画に入植者を入れると、千幹は道路開削に着手しました。農場内の私道ではありましたが、千幹は将来自治体になることも考慮してルートを設定し、工事を進めました。その後は水田開発と、まさに富良野の基盤を作っていきます。
 
千幹は大正5(1916)年4月10日にがんが悪化して札幌の北辰病院で亡くなりました。「村の発展を見ないで死ぬのが残念だ」と言って息を引き取ったといいます。『富良野市史』は「第九編 中村千幹」を次のように締めくくっています。
 

名誉市民の竹内武夫先生が「中村千幹こそ富良野市のコロンブスである」と看破されたが、まさにその通りで沈着にして豪胆、知謀に溢れた人物だった。
 
慶應義塾出身で千幹の先輩であり、後世に十勝開拓の父としてあまりにも有名な依田勉三が後輩の千幹をいつも叱咤激励していたと言われ、千幹もまた開拓者を励ました。
 
当時の開拓移民一般の風潮として、北海道に来て一旗あげて儲けて、内地に錦を飾って帰りたいという出稼ぎ根性を叩き直すべく、毎夜のように移住者の拝み小屋を回ったという。

 
中村千幹と依田勉三は、同じ福沢諭吉の弟子として師の遺志を継ぐため励まし合いながら、一人は十勝平野を、一人は富良野盆地を切り拓いていった歴史を道民は覚えておきたいものです。
 
 


【引用参照文献】

『富良野町開町五十年略史』1952
①②『富良野市史 第1巻』1968
『長沼町の歴史 上巻』1962
若林 功『北海道開拓秘録第2編』1949・月寒学院
北海道ふるさと新書編集委員会『富良野市 北の国から発信するヘソ文化』2003・北海道新聞社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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