【苫小牧】樽前山神社の創建
円空伝説に連なる「別表神社」
北海道開拓倶楽部では開設以来、元旦には
■道内6番目の「別表神社」
苫小牧市には苫小牧神社があるのかと思いきや、同市の総鎮守は樽前山神社となっていました。調べれば同社は神社庁の「別表神社」であり、道内の多くの神社の中でも特別な存在となっていました。
樽前山神社②
戦前の神社は、官幣社→国幣社→県社→郷社→村社などと格付けされていましたが、戦後のGHQ改革によって廃止されて他の宗派と同列の宗教団体になりました。このとき内務省に代わる神社の統轄組織として神社本庁が設立されます。すべての神社は同格・同列となりましたが、神社本庁の事業遂行の必要から特別扱いを要する神社が定められました。
昭和26(1951)年7月改正の神社本庁の規則に別表として挙げられたことから、「別表神社」と呼ばれます。戦前であれば官幣社・国幣社クラスです。この別表はたびたび更新されましたが、『神社本廳四十五年誌』(1991)に掲載された北海道の「別表神社」は
・北海道神宮
・函館八幡宮
・住吉神社
・上川神社
・帯広神社
・樽前山神社
となっています。樽前山神社は北海道で6番目の「別表神社」となったのです。
■霊峰樽前山を祀る
樽前神社はどのような来歴の神社なのか? 残念ながら同社の公式サイトに由来の記載はありませんが、北海道神社庁公式サイトでは次のように由来を記しています。
『樽前の 神の稜威は幸沢に 満ち足るが如く 満ち溢るるが如し』と昔より称えられし霊峰樽前山に対する信仰は古く、山麓に神祠を設け祀ったのが創祀と言われている。明治8(1875)年に明治天皇の勅命により祭神「大山津見神」に加え「久々能智神」「鹿屋野比売神」の3神が定められ、山麓より町の中心地に御奉遷されこの地の総鎮守郷社として奉斎される。
爾来、苫小牧地域の開発発展に御神徳著しく、昭和11(1936)年には県社に昇格、更には昭和61(1986)年には「別表神社」に列せられ道内屈指の名社に数えられるに至った。畏くも年号改まり平成の御代、新社殿の移転御造営が御大典記念事業としてなされ、平成4(1992)年7月14日に矢代町高丘(薪炭ビリン山)の地に御移遷御鎮座されたのである。②
樽前山神社が別表神社に上げられたのは比較的最近で、現在の社殿も平成4(1992)年に平成の御代御大典事業として遷座されたものです。御祭神は次の神々となっています。
大山津見神(おおやまつみのかみ) 山霊(山を司る神)
久々能智神(くくのちのかみ) 木霊(木々を司る神)
鹿屋野比売神(かやのひめのかみ) 草霊(原野を司る神) ①
■明治7年苫小牧で創建
樽前山神社の歴史を『苫小牧市史下巻』(1976)で少し詳しく見ていきましょう。樽前山神社は、明治7(1874)年7月12日に三国忠兵衛他5名の願出により駅逓「苫細駅」(現苫小牧)西側に建立が認められたもので、明治8(1875)年5月に内務省通達によって勇払郡6郡の郷社の社格が定められました。
同市史は昭和15(1940)年の『苫小牧町史』を引用して、「活火山樽前山を神聖視してこれを崇拝せんとする人情の必然は、円空坊、五島判官等の熱心なる信仰によって大いに伸張され、三郡の郷社として美事に結実したものである」と紹介しています。
樽前山神社(大正7年)⑤
しかし、大正10(1921)年に市街中心部1007戸を灰燼に帰した「こいのぼり大火」に遭い、創建時の資料は焼失してしまったそうです。
数少ない資料として移転前の本宮御神門手前に移された石造手水鉢に「元治二年乙丑七吉日願主山田文治支配人山田仁右衛門」と刻まれていることから、元治2年すなわち1865年以前に建立されたことは明らかです。
移転前の樽前山神社⑤
■有珠山噴火と円空の巡礼
さて、弘化2(1845)年に「タルマエ」に足を踏み入れた松浦武四郎は、
この山上に観音の像ありて霊験著しき由なるが、この仏像はすなわち行基菩薩の作にして、大同2(807)年、この島(蝦夷島)に渡海したまい、むかしより誰一人上がるものなき、猛獣毒蛇古くから在して土俗を害することを憐れみたまい、一刀札にこの山麓にて観音像の形を刻み、しかるに山上に持ち上げて安置したまいしが、猛獣毒蛇も人を害すること無かりしと書きたる ③
と『初航蝦夷日誌』に書いています。
武四郎は、樽前山山麓で標板を見たこと、そこには樽前山に観音像が祭られており、これにより猛獣毒蛇の害が無くなったこと、これを彫ったのが行基上人であること、が記されたと言っています。行基は日本最古の地図を作成したことで知られる奈良時代の僧です。武四郎の伝えは、この地方を寛文年間に訪れた修験僧円空と混同したもののようです。
円空は寛永9(1632)年生まれの修験僧・仏師で、生涯に12万体(現存約5000体)もの仏像を彫りました。この頃、北海道では寛永17(1640)年に駒ヶ岳が噴火して津波を起こし、死者700人という大被害をもたらしました。さらに寛文3(1663)に有珠山が噴火します。
神仏の力が信じられていた時代に円空は寛文5(1665)34歳の年に蝦夷地に渡り、翌6年まで道内を巡り、仏像を彫りました。円空は災厄に対して少しでも力になりたいと蝦夷地に向かったのでしょう。
この頃の修験僧は、洞窟をこの世とあの世の境界と位置付け、その中に籠もって一心不乱に所業を続けました。円空も衆生救済の願いを込めて洞窟で仏像制作に打ち込んだと思われます。『苫小牧市史下巻』によれば、寛政4(1792)年に有珠地域を旅した菅江真澄の旅行記には、礼文華海岸の洞窟に5体の円空仏が安置されていたことが記されています。円空の修行の跡でした。
これら円空仏は、寛政11(1799)年に蝦夷地を直轄した幕府の役人松田伝十郎の記録によれば、一つは洞爺湖の観音島、千歳の弁天堂、釧路の厳島神社、そして樽前山の拝殿の場所に移されたと言います。武四郎が言及した「行基菩薩の作」は、この円空仏であるに違いありません。
続いて安政3(1856)年に蝦夷地を調査した幕吏榊原桂三・市川十郎の記録では、「樽前権現社」という社に円空仏が祭られていることが報告されています。有珠山噴火の被害を救う目的で彫られた円空仏は、この地域の人たちの崇敬を集めていたのでした。
樽前権現社は、有力者水島彦右衛門らこの地の網元によって災害から守る神として護持されました。先に紹介した山田仁右衛門寄進の元治二年石造手水鉢は、樽前権現社に設けられていたものでした。
「蝦夷地ユウフツ場所の図」⑤
左下に「タルマエ」の文字と社の印が見える(安政5年頃)
■円空仏はどこへ?
時は流れて明治維新を迎え、新政府は神仏混淆を厳しく禁止しました。円空作の観音像を神体とするこの樽前権現社もその対象となり、全国からはやや遅れて明治7(1874)年に樽前権現社を廃止して、あらたに苫小牧に樽前山神社を建立しました。ちなみに勇払の恵比須神社(苫小牧市字勇払138番地)には、廃止となった「樽前大権現」の扁額2枚が残され、苫小牧市の有形文化財に指定されています。
樽前権現社の額⑤
神仏混合の禁止により、樽前権現社はかつての御神体である円空仏を放し、新たに御神体として大山津見神、久々能智神、鹿屋野比売神を迎えるのですが、円空仏はどこにいったのでしょうか?
樽前権現が樽前山神社と名前を変えて苫小牧に移ったことで、樽前地区に神社が無くなりました。樽前権現の社殿は保持されており、覚生地区の人口が増えるとここに「遙拝所」と書いた御幣とともに移しました。そして大正7(1918)年に社殿を改築するおりに、白老八幡宮の宮司鈴木健治が新たに祭神を定めました。さらに大正12(1923)年に社殿を錦岡駅付近に移転します。そしてこの社は錦岡樽前神社と呼ばれるようになりました。
錦岡樽前神社②
そして昭和41(1966)年に社殿の改築が行われますが、このときにさらしにぐるぐるまきにした円空仏が発見され、北海道大学の北海道史の大家・高倉新一郎教授に鑑定を依頼したところ円空仏であることが明らかになりました。
この錦岡樽前神社の円空仏についてこんな言い伝えがあると市史は記しています。錦岡古老の中浜カメさんの記憶です。
円空仏はむかし樽前川の中流に祭ってあった。その近くに美濃国から来た中年の夫婦者が住んでいた。ある年、悪い病気が流行した。家には一匹の犬が飼われていた。ある晩、犬が激しく吠えるので、夫婦者は乞食でもうろついているのかと思って、外を見たが何も見えなかった。外は霧が立ちこめていた。よく見ると川霧の中からお坊さんが歩いてくる。黒い衣を着たお坊さんが川上から川下に歩いてった。次の朝、起きてから円空仏のある御堂に行ったら、中の仏様が汗をかき、衣もぐっしょり濡れていた。そのことがあってから悪い病気が流行らなくなった、という。④
円空仏(錦岡樽前神社伝来)⑥
■スケート苫小牧の起点
一方樽前山神社は、大正10(1921)年の大火の後、矢代町に移転。大正12(1923)年11月に遷宮式を行いました。あわせて松前より代々神職の家に生まれた永井材里を迎えて宮司としました。これにより基礎が固まります。この場所の近くには遊郭がありましたが、神社の遷座を受けて浜町への移転が決められたそうです。
王子製紙が苫小牧に工場を建設することを決めたのは明治39(1906)年です。そのときの苫小牧の人口はわずか809戸3261人の漁村でした。この後、工場の発展とともに城下町として苫小牧も急成長します。それとともに矢代町に移転した樽前山神社も苫小牧の鎮守として発展していきました。大正7(1918)年1月、苫小牧は町制施行を認められ正式に「苫小牧町」となりますが、このときの町制実施報告祭が樽前山神社で執り行われました。
しかし、昭和初期の不況期に神社経営も厳しくなりました。そこで氏子が集まり、境内地にあった「神社池」を広げて、夏はプールにして料金を徴収したり、ボートを浮かべたりして収入に充てることを考えました。とはいうものの浚渫する費用が神社にありません。
そこで苫小牧スケート協会が助け船を出し、冬に凍った池をスケートリンクとして使わせてもらうことを条件に浚渫工事を支援することを申し出ました。こうして昭和6(1931)年11月9日「樽前神社横沼リンク」ができました。
樽前神社横沼リンク④
このリンクは一周250m、中にホッケーリンク1面を持ち、正式な競技ができる施設でした。このリンクを舞台に「氷上カーニバル」が盛大に催されるなど、苫小牧のスケート・アイスホッケー発展の礎となっていきました。
またこの池は夏にはプールとして開放されました。このことが苫小牧で水泳が本格的に普及するきっかけとなったと市史は言います。
【主要参考文献】
①樽前神社公式サイト https://www.tarumaesanjinja.net
②北海道神社庁公式サイト https://hokkaidojinjacho.jp
③『苫小牧市史 上巻』1975
④『苫小牧市史 下巻』1976
⑤苫小牧市市史編さん室 編『目でみる苫小牧の百年 : 苫小牧市開基百年記念』苫小牧市・1973
⑥江差フォトクラブ編『写真集 北海道の円空仏』1978