北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第2回】デンマークモデルで北海道を救え

 

 北海道農業は開拓使によってアメリカ農業を模範に進められたが、北海道の実情に合わず、次第に有名無実化していった。現金収入を求め、投機的な農業が広がったが、換金作物ばかりを優先する収奪農法で地力は減退し、1913(大正2)年に記録的な冷害を受けると、北海道農業は存亡の縁に立たされた。
 このとき、二人の民間人が起ち上がり、地力を活かした持続可能な農業である「北方農業」という新たなモデルを提起し、北海道農業を救った。北海道酪農の父と呼ばれる宇都宮仙太郎、そして酪農学園の創設者 黒澤酉蔵である。

 
 

黒澤酉蔵、明治天皇に直訴した田中正造の元にはせ参じる

 
宇都宮仙太郎

宇都宮仙太郎 写真出典①

 
 北海道農業を破滅の危機から救ったのは二人の酪農家だった。
 一人は宇都宮仙太郎。1866(慶応2)年、現在の大分県中津市に生まれた。上京後、尊敬する福沢諭吉に北海道行きを勧められ、19歳で札幌農学校2期生の町村金弥が場長を務める開拓使真駒内牧場に牧夫として入職する。1887(明治20)年、アメリカに渡り、ワシントン州の牧場で本場の酪農を学ぶ。帰国後雨竜農場で働いたが、1981(明治24)年、札幌の北1条西15~16丁目の一角を借りて牛を飼い始めた。宇都宮に続いて札幌で搾乳業者が10数件に増えると、宇都宮はリーダーに推され、1897(明治30年)頃、「札幌牛乳搾取業組合」を設立した。
 そして1905(明治38)年7月31日、豊平にあった宇都宮牧場は、牧夫として20歳の若者、黒澤酉蔵を迎えた。この男が二人目である。
 
黒澤酉蔵

黒澤酉蔵  写真出典③

 黒澤は1885(明治18)年、今の茨城県常陸太田市に没落した小作の家に生まれた。暮らしは貧しかったが向学心が強く、上京して神田の英語学校で英語を学んでいた。そうした黒澤の運命を一変させたのは、栃木県で起こった足尾銅山鉱毒事件である。
 足尾銅山は銅の国内生産量の4分の1を占める国内有数の鉱山だったが、銅の精錬で輩出される鉱毒ガス、排水に含まれる鉱毒によって渡良瀬川が汚染さ
田中正造

田中正造  写真出典②

れ、汚染土が堆積した田園では稲の立ち枯れが広がった。生産基盤を破壊され、隣接部落が廃村になった。農民は鉱山の閉山と救済を求めて立ち上がった。史上初の公害反対闘争──その先頭に立ったのが国会議員の田中正造だった。
 1901(明治34)年12月10日、一向に動こうとしない政府に業を煮やして田中は、帝国議会の開院式に向かう明治天皇の車列に飛び出して、直訴を行った。この大胆な行動は全国的な反響を呼び、東京では号外も配られた。
 田中の直訴は、正義感の強い黒澤青年を強く刺激した。
 
 直訴事件は新聞の全面を埋めて報道されましたので、私もこれを読みました。私は当時十七歳です。「いまどきこういう偉い人が世の中におるのかしらん」と非常に感激して、さっそく先生の定宿を探して訪ねていったのです。
 旅館は東京・新橋駅の前にあった越中屋という安宿です。すぐに会ってくれました。新聞の写真では全く獅子のようなすさまじい容貌でしたし、獅子吼するとはこの人の演説のことではなかろうかと思っていましたが、会ってみると、それはそれはやさしい好々爺なんです。私は本当に自分のおじいさんに会っているような気分になりました。[1]
 
 直訴後4~5日目だったという。田中正造の人柄に惹かれた黒澤は、田中の手足となり、鉱毒事件の救済運動に没頭した。青年行動隊を組織し、街頭に立って「難民を救え」と叫び続け、義損金を募って罹災者に送った。官憲に追われ投獄されたこともある。
 

宇都宮仙太郎、酪農の「3つの徳」を説く

 
 足尾銅山鉱毒被害の救済運動に従事して4年。黒澤は、母の死をきっかけに運動から離れ、心機一転北海道を目指すこととなった。
 
 私はかねがね、北海道の開発は国自らが一貫した理想と強固な信念をもって、協力に実施する価値のある国家的事業であると考えていました。北海道の広さは欧州の一国、米国の一州に匹敵するものですし、四海の海洋資源、地上、地下の有用豊富な資源を考え合わせますと、この地に人類の一大理想郷を建設したいという願望、または必ず達成しなければならないという使命感、やれば必ず出来るという信念が私の体内に渾然一体となって湧き上がってくるのです。[2]
 
 10代で田中正造の同志となった青年が、新たな情熱を燃やせる魅力が明治の北海道にはあった。
 1905(明治38)年7月、自由移民の一人として黒澤は室蘭港に立つ。知人を介して宇都宮に会った黒澤は、宇都宮より酪農には「役人に頭を下げなくてよい」「嘘をつかなくてもよい」「牛乳は人々を健康にする」という三つの徳があると説かれ、酪農を一生の仕事に定めた。
 
 役人に頭を下げなくてよい──。足尾鉱毒問題で、私は渡道前の4年間、文字通り寝食を忘れて飛び回りましたが、警察にいじめられたり、牢獄に放り込まれたりで、役人には恨み神髄というわけです。次のウソをつかなくても良いということも私の胸に響きました。
  第三の話も全く耳に新しく聞こえました。なにしろいまから六十五年も前のことで、世の中に栄養なんていう考えのなかった時代です。そのときに、牛乳は人間の身体をよくするのだ、というのです。宇都宮さんはこういう話を意気込むでもなく、実に淡々として話してくれました。私はこの話を聞いていて『これだ、なるほど、これだ』とまるで、電気に打たれたような感じになり、即座に入門の決心をしました。[3]
 
 政治犯として逮捕歴もある黒澤酉蔵は、北海道に渡ったあとも執拗に官憲のマークを受けるが、宇都宮は嫌な顔一つ見せず、黒澤を迎えた。
 

ウィスコンシン大学ヘンリー総長、最後の訴え

 
 黒澤という信頼できる従業員を得た宇都宮は、1906(明治39)年、再びアメリカに渡った。この時、前回訪米のときに指導を受けたウィスコンシン大学ヘンリー総長の最終講義を聴講する。
 
 時の総長ヘンリー博士が大学を去るにあたって州農民1500名を集めて述べられた言葉、この時の光景はいまなお私の記憶に深い印象を残しております。その時ヘンリー博士は、デンマークとウィンスコンティン州の農業を数字を持って比較説明し、さらに「デンマークは北欧の一小国で、面積もウィンスコンティンの4分1に過ぎない。しかも土地痩薄、天然の資源に乏しい土地でありながら、農業は進歩し農民は豊かに、文化の程度も高く、組合も発達していることは世界一である。
 ウィンスコンティンはデンマークを模範に進むべきである。諸君は将来ウィンスコンティン農業界の先覚者となる人々であるから、一大決心と努力を持ってウィンスコンティン州の農業をデンマークのようにすすめていただきたい」と説き、涙声とともに下って農民に非常に深い感動を与えました。当時東邦の一学生であった私にとっても、その感動は決して他に劣るものではありませんでした。[4]
 
 ヘンリー総長の言葉に感動を受けた宇都宮は、ホルスタインの純粋種5頭を土産に帰国し、黒澤とともにすぐにデンマーク農業の研究を始めた。
 

北海道農業を救うのはデンマークモデル

 
 デンマークはむかしドイツとたたかって敗れ、国が滅びる寸前に至り、国力は極端に衰弱していました。青年はどんどんよその国にへと出ていき一体デンマークはどうなってしまうのか、土壇場まできてしまったのです。そのとき「外で失ったものを内で取り返せ」「剣で失ったものを鍬で取りかえせ」という一大救国運動が起こりました。グルンドヴィを指導者と仰ぐ愛国運動はりょう原の火のように国民を捉え、青少年の血潮をよびさましました。世界に冠たる酪農民、高福祉の国として再生したデンマークは、私にとって限りない希望の故郷といえる社会でした。[5]
 
 デンマークは、面積は北海道より狭く、人口は等しい北ヨーロッパの小国。早くから協同組合方式による農業の集団経営を行っていた。アメリカ式の洋式農業が経営規模の拡大、経営の合理化を目指したのに対して、デンマークの農業は、同じ麦作を中心とした農業でありながら、家畜堆肥を畑に還元し、畑作残渣を家畜の肥料にするという地力維持に主眼を置いた有畜循環農業だった。
 
 根本ではアメリカ式の粗放な略奪農業はハダが合わないのです。それどころかアメリカの真似をしたくても貧乏で冷害続きの農村ではやれません。そこでデンマークとか北ドイツで発達した牛と輪作、とくに牛とビートが結び付く農業経営を範としようということになったわけです。
 地力が低いところへ粗放な略奪経営をやったものですから、北海道の農村ではいくら働いても楽にならないわけですから、このやり方を根本から改めてかかろうということです。専門的にいうと、これは北海道の農業を高度に集約化するということになりましょう。[6]
 
 
1920(大正9)年頃の牧場

1920(大正9)年頃の牧場  写真出典④


 宇都宮と黒澤酉蔵の研究に、道庁畜産課技師の岩澤達夫も加わり、札幌牛乳搾取業組合を中心に実践を行うが、書物の勉強だけで農業はわからない。宇都宮は娘婿の出納陽一をデンマークに留学させて本場の農業を学ばせた。
 一方、黒澤は、1909(明治42)年に、山鼻東屯田に田畑を借りて酪農家として独立していたが、1913(大正2)年、北海道を大冷害が襲うと、デンマークモデルこそが北海道の生きる道という確信を深める。
 
 私は道内の冷害地をみたとき、足尾銅山の現地で苦しんでいる農民のことを思いました。そうして、この二つのできごとに共通点のあることを発見したのです。それは田中先生鉱毒民救済の根本にあった思想「国土の尊厳を犯すものは必ず滅びる」ということでした。
 北海道の冷害といい、公害による国土の破壊といい、これまでずい分長い間、天災とかやむをえない災害として扱われてきました。しかし、いやしくも国富を増進し、国民福祉を向上させるために興した産業が、平気で国土の尊厳を傷つけるようなことになれば、それは本末転倒になります。私は冷害も公害も人間がつくり出したものだと考えています。[7] 
 

■宮尾長官を説き伏せる

 
宮尾俊治

宮尾俊治  写真出典⑤

 1921(大正10)年5月、二人のデンマーク農業研究に転機が訪れる。第16代北海道庁長官として愛知県から宮尾俊治が着任したのだ。
 7月、豊平館で開かれた札幌酪農信用購買販売利用組合の創業25周年祝賀会に宮尾長官が出席すると、宇都宮と黒澤はこの機をとらえて、「北海道開拓の在り方、農業の在り方に一大反省を加えて、デンマーク学び、デンマーク式で盛大に開発すべきである」と切々と訴えた。
 宮尾長官は農政に明るく、台湾総統時代にサトウキビ栽培を導入して台湾に製糖事業をおこした実績の持ち主である。この頃、大戦バブルによって広がった略奪農法による地力低下、バブル崩壊による農業経済の混乱が大きな課題だっただけに、長官は二人の言葉に熱心に耳を傾けた。若く行動力にあふれた黒澤は何度も道庁に宮尾長官に訪ねて説明を続けた。
 こうして二人のデンマーク農業研究は、北海道農業の将来を模索する北海道帝国大学や農業試験場の研究者、道庁の農政担当者、先進的な農業者らを巻き込み、「北海道畜牛研究会」として、官民を超えた広がりを持つようになった。
 そして1923(大正12)年、黒澤酉蔵は宮尾長官に対して、日本の農業史上、前代未聞の提案をするのだ。
 
(つづく)
 

 


【引用出典】
[1]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・155p
[2]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・3p
[3]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・8p
[4]『雪印乳業史 第1巻』1960・雪印乳業・36p
[5]『黒澤酉蔵生誕130年記念 酪翁自伝』学校法人酪農学園・2015
[6]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・162p
[7]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・12p
【写真出典】
①②⑤『雪印乳業史 第1巻』1960・雪印乳業
③国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/290.html
④北海道総務部行政資料室(編)『開拓の群像 中』1969・北海道

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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