北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第4回】関口峯二 遠軽「北海道家庭学校農場」に入植する

 

■遠軽「北海道家庭学校」の理想

 
上斜里経営試験場を任されたのが関口峯二である。峯二は1892(明治25)年、群馬県出身。旧制前橋中学校を卒業し、教員生活の後、北海道開拓の大志を抱いて1918(大正7)年に渡道した。最初に向かったのは遠軽の北海道家庭学校だった[1]。北海道家庭学校の創設も、北海道の誇らしい開拓物語だ。
 
信太寿之

信太寿之(写真出典①)

遠軽は、キリスト教私立大学によって理想都をつくろうと1896(明治29)年に、東北学院の創始者押川方義と札幌日本キリスト教会の信太寿之によって設立された北海道同志教育会の学田農場によって開かれたまちだが、1898(明治31)年、湧別川の大水害でその理想が潰えそうになったとき、その精神を受け継いで日本で最初につくられたキリスト教精神に基づく少年の感化施設が「北海道家庭学校」だ。
 
創設者の岡留幸助は元治1年、今の岡山県高梁市に米屋の息子として生まれた。若くしてキリスト教に奉じたのは、士農工商の身分佐賀の厳しい江戸時代の封建制度の中で憤りを持ち、神の下では身分の差が無いというキリスト教の教えに衝撃を受けたためという。
 
1888(明治21)年、24歳で同志社大学の前身京都神学校を卒業し、牧師として各地をまわり布教に努めていた。こうしたおり、同窓生で空知集治監の典獄(刑務所長)であった大井上輝前が教誨師を求めて後輩に声をかけたのだ。呼びかけに応えた留岡は1891(明治24)年、北海道に渡った。
 
岡留幸助

留岡幸助(写真出典②)

教誨師は、キリスト教や仏教の教えを通して、収監されている囚人に教えを説き教化を行う役職だが、留岡はこの仕事を通じて囚人の8割近くが14~5歳の頃に最初の犯罪を犯していることを知り「本を立つことなく、本ばかり治めているようなものではないか。特殊な学校を興し、少年の内にしかるべき教育を施すならば大いにその成果も上がり、あるいは凶悪犯罪も犯すこともなくなるのではないか」[2]と考えた。
 
1894(明治27)年5月、留岡はアメリカに渡って教育事情・監獄事情を調査。マサチューセッツ州立青年刑務所では囚人と同じ生活を送ってみたこともあったという。1896(明治29)年初夏に帰国し、アメリカで学んだことから私立感化院の構想を立て、各界から寄付を集めて1906(明治39)年「財団法人東京家庭学校」を設立した。そして1914(大正3)年、開墾作業の中で「少年をして良く働かせ、良く食わせ、良く眠らせる。いわゆる三能主義」によって感化を進めるべく、遠軽社名淵原野1000ヘクタールの払い下げを受けて「東京家庭学校北海道農場」(現北海道家庭学校)を創設した。
 
家庭学校農場は1000ヘクタールのうち50ヘクタールを生徒定員150名が自給自足を通して学ぶ感化部の農園とし、750ヘクタールを小作地として10年計画で150戸を入植させ、小作料収入によって教育事業を賄うこととした。北海道の小作人よる開墾では「開き分け」と言って開墾の成功時には半分を譲り渡すことを条件に入植させることが多かったが、学校の運営費捻出のため、この農場ではそうした措置は取られなかった。その代わり、留岡は小作人を「分家」と呼び、「小作人慶弔規定」「小作人表彰規定」「小作人品評会規定」などを設けて、手厚く保護と指導にあたった。
 

■関口峯二、北海道開拓を志す

 
ほとんどの北海道入植者が土地を確保すると直ちに開墾作業に入るのに対して関口峯二は、一旦でどこかで開墾を経験してから開拓に入ろうと考えた。それは厳しい開拓の苦労を二度経験することなのだが、若い峯二はそれがどれほどの苦労を重ねることなのか、正しく認識していなかった。峯二の北海道開拓は青年らしい〝自分探し〟 の結論だった。
 
(旧制)中学生の頃は人生問題に考え悩んだ。自分にとっては此の一生は絶対的なものであり、これを有意義に過すことを考えねばならない。しからば自分は何をなすべきか……と考える時、真に悩みに悩んだ。考えた末、自分の興味を持つ道で、しかも他の犠牲によって生きるとを避けられる農をもって生きんことを求めた。中学を卒業の際、あるところから養子となって医業を継ぐならば大学えの学資を出すという話があったが、「意義ある人生」を求めている青年には巨大の富も黄金の冠も誘惑できなかった。[3]
 

清水及衛
(しみずともえ 写真出典③)

学業優秀で、養子となり家業を継ぐならば医科大学へ進学させようという申し出を断り、関口峯二が農業を目指したのは、叔父である清水及衛(ともえ)の影響であったという。清水及衛は1874(明治7)年に今の前橋市中野町で生まれた農業指導者で、村の農民26人と「積みなわ組合」を結成し、日本で最初に農協の前身である産業組合を組織した人物として知られている[4]。昭和前期の農業指導者として全国的な活躍をした。残念ながら峯二の生家は伝わっていないが、峯二は小さな頃から叔父にあこがれを抱いていたという。
 
私の叔父は群馬県の勢多郡野中という部落の一農夫であったが、農事改良や農村振興に力を尽くし、先年六十余才で世を去ったが、和田傳氏によって『野の真珠』といふ題名の書でその一生を記された清水及衞である。その行うところ、語るところに子供ながらも興味をもった。自分も将来、農の道を歩もうと思う心が早くも小学生時代におきていた[4]。
 
旧制前橋中学を卒業した峯二は「兄が軍隊に入っている間、郷校の校長に頼まれて三年間教員生活をした」という。優秀だったのである。こうした峯二青年が北海道に関心を寄せたのは、やはり清水及衛の縁であった。
 
父の知入で北見の家庭学校農場につとめていた高野一司氏が上京の節、叔父の家を訪れて北見の開拓地の色々の話をされたのを又聞きして心を引かれたところへ、国木田独歩の『空知川の岸辺』を読んで多感な青年は北海道の原始林にあこがれを抱いたのである[5]。
 
峯二の言う『空知川の岸辺』は、文豪の国木田独歩が1895(明治28)年9月25日、北海道を訪れた際に空知太駅(現砂川市空知太)で下車し、近隣を探索した紀行文である。文豪の筆で北海道の原生林が美しく描写されていた[6]。
 

■自らを追い込んだ地獄、死の荒野

 
1918(大正7)年4月、24歳になった峯二は嫌がる両親を説得して、講演のために山形に向かう叔父清水及衛とともに故郷を出発した。この時峯二は、4年間は各地で修業し、28歳で開拓農家として独立する、という計画を立てた。「二十八才は私が大學へ入ったとすれば順調に行って卒業する年齢なのである。大學に入る代りに実際の修業をする。それが私の立てたプランであった」という。途中で叔父と別れ、北海道に渡ると遠軽に入った。そして家庭学校と小作契約を結び、白滝の第2農場に5月から開墾作業に入った。
 

明治42年7月開墾作業の様子

明治42年7月、遠軽での開墾作業の様子(写真出典④)

 
農場の一部を小作契約して開墾に着手した。求むること急で手段を選ばない無茶なことであった。経験もなく知識もなく、単身北海の冷厳なる大自然に体当ったのである。そこは広葉樹の疎らに生えた細い流れが蜿蜒(えんえん)とせせらぐ開墾着手間もない原野であった。
 
一丁の小鋸と鎌と鍬とナタとが農具であった。ナタは炊事の際の調理具にもなり、薪割マサカリにもなった。わずか釘代七十銭の九尺二間の葦小屋が住居であった。大雨の夜は雨もり烈しく、夜具をたたんでその上に座し、雨の止むのを待ったこともあった。
 
最初は野菜にも不自由してギボシの若芽などを食した。わらびをアク抜きしないで食して、その苫さに吐き出したこともあった。その夏は霧雨の多い年で虫も多く苫しめられた。毎日の過労と粗食に肉はこけ、頭髪はのび、風呂は何十日も入らず、人と語らぬ日も幾日続いた[7]。
 
たった一人での大自然との格闘。想像を絶する困難。絶対的な孤独の中で峯二は、故郷に踏みとどまっていれば確実に得られただろう生活に未練を感じないわけにはいかなかった。
 
月煌々とカヤの間から差し込む夜半など、思うのは郷里の人々の姿であり、同じ学窓を出た人たちの都会の明い灯の下で暮す幸幅であった。こんな開墾生活に何が前途の光明をもたらしてくれるであろうか。われ誤てり、もう一度出発点に戻って世俗の幸福を求むるこそ選ぶべき最善の道ではないだろうか。かく考える時、煩悶の日々は続いた。あこがれてきた北海道の原始林は今や自分を追い込んだ地獄であり、死の荒野であった[8]。
 

■北見を第一の故郷としてこの原野に骨を埋めよう

 
やがて秋虫が鳴き初める頃となった。懊悩の中にまいた南瓜(かぼちゃ)も玉蜀黍(たまねぎ)も食べられるようになった。北見の土を拓いて作ったものを初めて食べるよろこび。それにしても何たる美味ぞ。南瓜といへば、郷里では砂糖や瞥油で味つけてどうにか食べているのである。ここのはそのまでも甘味……それも何ともいわれぬ良い風味があるのである。玉蜀黍も然り、薯(いも)も然り。琴線ひとたびふるれば無限の妙音を発す。渡道後半年はじめて、北海道の土の無限の妙味を身を以て感覚したのである。
 
狭められた私の行手には、にわかに希望の荒野があらわれた。そうだ、おれはあくまで北見に踏みとどまろう。踏みとどまって原始林を開拓していこう。北見を第一の故郷としてこの原野に骨を埋めよう。こう決心がつくと痩せこけた骨と皮の間から新鮮な力が湧き出初めた[9]
 
こうして峯二は、故郷に残してきた未練を断ち切り、北海道で生きる決意を固める。峯二の決意を固めさせたものは、収穫の喜び、北海道の大地の味覚だったが、それは今日の北海道新規就農者も同じではないだろうか。
 
峯二は遠軽の開拓農家として定着することはなかった。
入植2年目の1919(大正8)年秋、日本農業実践学校などを創設した農業指導者で著名な剣道家でもあった加藤完治が「清水及衛の甥がこちらにいるそうだが……」と遠軽の家庭学校を訪ねた。峯二の痩せ衰えた姿に愕然とした加藤はこれ以上の開墾を止めるように諭したが、峯二の決意は固かった。加藤の知らせから実家からも手紙が届き、峯二を諫めた。
 
一度固めた峯二の決意は揺るがない。妥協点として家庭学校農園での開墾を止める代わりに、北海道農事試験場北見支場に入って農業の勉強を続けることになった。この時、関口峯二26歳、独立の目標までまだ2年あった。
 

 


【引用出典・註】
 
[1][3][4][5][7][8][9]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部・1~4p
[2]『遠軽町史』1977・遠軽町役場・1005~1034p
[4]『情報誌「すきですまえばし」』前橋市観光協会・2002/7/15・6p「有名・無名の前橋人-日本で最初に産業組合を作った前橋人 清水 及衛(しみず ともえ)※これには次の紹介がありあす。
「清水及衛は明治7年勢多郡野中村(今の前橋市野中町)に農家の長男として生まれました。しかし、数ヶ月後に父が亡くなり、及衛は母親の手1つで育てられました。16歳の時には村に大火事があり及衛の家も焼けてしまいました。茫然自失の及衛を母がさとし、焼け跡に掘っ立て小屋を建て、まさにゼロからのスタートでした。及衛はよく働き、また勉強もしました。しかし生活はなかなか楽にはなりません。村全体が貧しかったからです。19歳で結婚し、一家の柱となった頃、村の農民26人と共に「積なわ組合(つみなわくみあい)」を創りました。この組合は農産物の作り方や肥料の研究、そして災害にそなえての貯金などを行いました。これが日本で最初の産業組合です。組合員は毎晩1房の縄をない、1ヶ月に30房を出し合い、その売り上げを積んでおく、というシステムから「積なわ組合」の名前がつけられたのです。正式な名前は「野中共同組合」です。組合長となった及衛は村の発展のために活躍しました。これが有名になり全国に認められるようになったのです。1902年(明治35年)には野中村50戸全員で、「無限責任野中信用組合」をつくり、29歳の及衛は組合長として、耕地整理を行うなどのかたわら、全国に組合の指導を行いました。1924年(大正13年)には木瀬村全域を含めた産業組合が出来、初代組合長となりました。68歳で亡くなるまで農業と農村を愛し、発展のために全力をつくしました。現在、亀里町の群馬県農協ビルの前に清水及衛の碑があります」
[6]木原直彦『北海道文学散歩 道央編』1883・360p
 
【写真出典】
 
①「えんがる歴史物語」HOME 1929年10月30日の出来事 http://story.engaru.jp/event-today/信太寿之が病のため他界した日/
②社会福祉法人北海道家庭学校HP>岡留幸助の北海道家庭学校の理念 http://kateigakko.org/new/philothophi_and_wish.html
③『情報誌「すきですまえばし」』前橋市観光協会・2002/7/15・6p
④「えんがる歴史物語HOME>資料館>ギャラリー>明治の農業風景 http://story.engaru.jp/story/明治の農業風景/
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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