北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

2020年、白老ポロト湖畔に「ウポポイ(民族共生空間)」がオープンします。ここでアイヌの文化だけが発信されるならば「共生」とは呼びません。白老の地では明治から今日まで、アイヌ民族と和人との間で共生を図るさまざまな試みが続けられてきました。この特集では、ウポポイの前身である「ポロトコタン」を創設した初代民選町長 浅利義市を中心に、ウポポイ前史として白老で行われた両民族の共生の歴史を紹介します。

  

【目次】

  

第1章 共生の原点 明治天皇と白老アイヌ

 
 

■明治14年、天皇とアイヌ民族、初めて対面する

 ウポポイ=民族共生空間の源流を訪ねれば、遠く1881(明治14)年9月3日に遡るだろう。
 
この日、白老で和人社会の頂点に立つ明治天皇とアイヌ民族が初めて対面した。どうしたことかアイヌ史の概説本ではまったく触れられていないが、この日本列島で太古から暮らす二つの民族の代表がはじめて姿を見せ合ったのだ。双方の歴史書に大見出しで記録されるべきだろう。
 
天皇がはじめて北海道の地に足を踏み入れたのは1876(明治9)年、明治天皇の函館行幸である。この時の行幸が函館にとどまったことから、1882(明治15)年に「開拓10年計画」が終了することを受けて開拓使は、これまでの北海道開発の成果を陛下に見ていただこうと再度の行幸を願った。
 
明治天皇は快くお聞き届けになり、1881(明治14)年の東北行幸に北海道を加えた。7月30日、東京を出発した天皇は東北各県を行幸され、8月30日小樽に入港、札幌の豊平館にお泊まりになり、翌日、開拓使本庁で黒田清隆次官から報告を受けられた。
 
この後、松島、千歳、苫小牧と進まれ、9月3日午後5時、白老村の大沢周次郎宅に宿泊された。明治天皇とアイヌ民族の対面はこの夜のことである。
 

■白老アイヌ、民族舞踊とイオマンテを披露する

 『新白老町史』に、この対面に参加したアイヌの証言が、1923(大正12)年に発行された『白老』中の「明治天皇館内御巡幸御誌料蒐禄」からの引用として紹介されている。
 

明治十四年九月三日白老御在所内庭に於ける明治天皇天覧のアイヌ熊祭の図

「明治十四年九月三日白老御在所内庭に於ける明治天皇天覧のアイヌ熊祭の図」(出典①)

 
私が二十歳であったと記憶しております。私宅の熊も連れて出たので、ちょうど助六がひきいてきた熊と、その外の熊と三頭でした。私が熊をひきいて参りましたので、御門の中へ入りました。
 
当時虻田あたりや、その他、遠方より大勢の土人が集って参りましたけれども、熊祭りをやって御覧に入れる場所は御門内の庭であったが、五、六問も枝の繁っているオンコの木がありましたので、庭が狭いように思いました。
 
それゆえ多数の土人中でも熊祭りや踊りの土人だけお入れになって、和人は一切御入れにならんでした。その時土人は男二十八名女三十二名と記憶しております。庭園に向った座敷はずっと縁側の戸をみな開け放して、御すだれを巻き揚げられてありました。
 
陛下の御覧になって居らる御座敷は陛下様の御休息室で、その次の室は宮様の御休室と承りましたが、その時は誰もおりませんでした。陛下様の側に立派な方一人と橡(くぬぎ)近くに両方向い合って役人らしい人が二人おりました。右の方の座敷には四人並んで座っておりました。
 
天覧の当時、座敷の橡側近く太い大きなローソクを立てられ、黒い洋服を召したまたまて御覧になっていられた。たまたまメノコ(土人の女)どもが円くなって踊っている内は終始ニコニコ御笑い遊ばすを拝見し、私等も大いに有難いことと思いました。園の四隅には大なる釣行燈を吊るして採光しました。
 
熊祭りの模様ですか、其れは熊の子に「メノコ」が乳を呑ませる時代より熊送りまでの経路を真似て御覧に入れたのです。[1]
 
こう証言したのは、森佐代吉はサリキテともいう白老アイヌ首長格の人物だ。
 

■天皇はなぜ和人を排除したのか

 アイヌの伝統舞踊を披露した上原シサノはこう語っている。
 
先帝陛下行幸当時、熊祭りを御覧に入れた模様ですが、それは実に立派なものでした。大沢氏の庭で御覧に入れたが、門番が付いておって、熊祭りや踊りの土人の外一切入れませんでした。門の両側は板塀で熊祭りや踊りの時は閉鎖しましたから、誰れも知っているものがないでしょう。
 
装束ですか、勿論今日と大差がないが其の当時皆男女共に長髪垂下し、男は長髭を蓄へて居りました。儀式も今日の略式でなかったので踊りも皆古風にやりました。[2]
 
大沢周次郎宅の庭は、和人の入場は排除され、天皇と随員、アイヌ民族の代表だけの空間となった。ここでアイヌの民族舞踊と熊祭(イオマンテ)が、略式ではなく正規のかたちで行われた。
 
ところで今私たちの子どもたちは学校で、北海道開拓はアイヌへの侵略であり、開拓によってアイヌは文化と生活基盤を奪われたと教わる。次は全道全小中学校に配布されている副読本『アイヌ民族:歴史と現在 小学生用』の一節だ。
 
「1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部にしました。そして、アイヌ民族を日本国民だとしたのです。しかし、日本の国はアイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました」[3](副読本『アイヌ民族:歴史と現在 小学生用』34P)
 
蝦夷地を〝一方的〟に日本領としてからわずか12年。侵略者の象徴である天皇が来る──アイヌ民族にとっては侵略を抗議する絶好の機会だ。さぞかし両者の対面は緊張したものだったに違いない。
 
ところが実際には会場から和人を排除するほど天皇はアイヌにまったくと言っていいほど警戒感を持っていなかったのである。
 


 [1][2]『新白老町史』1992・白老町
 [3]副読本『アイヌ民族:歴史と現在 小学生用』34P
『白老町史』1975・白老町
西谷内博美『白老における「アイヌ民族」の変容──イオマンテにみる神官機能の系譜──」2018・東信堂
【写真図版出典】
①満岡伸一『アイヌの足跡』第5版・1934

 
 

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