北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 
第3章 開拓獣医 浅利義市 白老村長になる

 

■浅利義市、ニシン千石場所に産まれる

 浅利義市は、1904(明治37)年、日本海岸の漁師町増毛町で漁場持ちの親方浅利金蔵の三男として生まれた。気性の荒い海の男たちに囲まれて育ったものの、義市少年は繊細で勉強好きな少年だったという。
 

浅利義市(出典①)

当時の増毛町は、ニシンの千石場所とも言われ、大変な繁栄を誇った。豊漁ともなると漁場持ちの親方連中は、若衆はもちろん、無関係の通行人にまで紅白の大漁豆を振る舞った。しかし、管理できない水産資源に頼った経済は不安定で、不漁が数年続くと、国からの救済米で糊口を凌ぐ有り様だった。そんな様子を見ながら多感な義市少年はこう考えた。
 
こんな仕事は駄目だ。ニシンが取れたときはあんなにも景気が良かったのに、不漁となると国から米を貰って生活する。こんな仕事に就きたくない。自然に左右されない仕事。技術を買ってもらえる仕事。そして人の役に立つ仕事。そうだ医者になろう。医者になって病で困った人を救おう
 
義市の決心を父である浅利金蔵も認め、医者になる勉強をするため義市を東京へと送りだした。しかし、医学校の受験を控えて増毛は不漁期に入り、家業は困窮する。公的な助成が充実していない時代で、医学校に進む学費はすべて自腹、義市は医科大学へ進学を断念せざるを得なかった。
 
それでも医学の道があきらめられない義市は、1925(大正14)年、獣医師を目指して東京青山の東京獣医学校獣医科に入学する。
 

■下川で開拓獣医になる

 1927(昭和2)年、獣医師の免許を取得した義市は、どうしたことか警視庁の巡査になった。まだ20代の青年。前年に測位した昭和天皇の騎馬隊の美しい隊列に魅せられ、獣医師として加わることを目指したという。
 
しかし、警察学校卒業後、命じられたのは巡査として市中の警らにあたること。専門を活かせない処遇に1年で警視庁を辞めて、義市は北海道に戻り、木材を運ぶ多くの馬がいた下川村(現:上川管内下川町)で開業した。
 
道北の内陸部にある下川の開拓は1901(明治34)年の岐阜団体入植と後発で、義市が開業した昭和初年にはまだまだ開拓の槌音が響いていた。入植者にとって牛馬は命よりも大切な生き物。「開拓獣医」と呼ばれた義市のような存在は、ことのほか頼りにされた。
 
牛馬の病気やケガに夜昼の区別はなく、仕事に追われる日々を送っているうちに義市は30歳を迎えた。身元を心配するまちの有力者から紹介を受け、1935(昭和10)年、自分より8歳年下、北見紋別渚滑村郵便局員田中ウメと結婚した。
 
1936(昭和11)年、長男が誕生。前後して道庁畜産課から「胆振畜産組合で技師として獣医師を探している、どうか」との打診があった。
 

■乳飲み子を抱えた妻に負け、白老村へ

 1937(昭和12)年7月7、盧溝橋事件が起こり、日本は戦争の時代に入る。日清戦争以来、断続的に中国北東部を戦場に戦ってきたが、寒さの厳しいかの地で軍馬の凍死が絶えず、軍の悩みとなっていた。そこで軍は、満州地域と気候が近く、広大な牧野が広がる北海道を軍馬の改良と生産の拠点に選ぶ。
 
当時、白老村は北海道で最も貧しい村と言われていた。
 
太平洋に面した村域は東西に長く、そのほとんどがススキと柏の灌木に覆われた原野。樽前山と有珠山という日本を代表する活火山に挟まれ、定期的な噴火が火山灰を何層にも降り積もらせた。地下のマグマに由来する火山灰はまったく栄養素を含んでいない。厚く堆積した火山灰はこのまちから農業の可能性を奪っていた。
 
この村に入植した開拓者で生き残った者たちは、牛馬の生産に活路を求めた。軍の要求に応え、大陸での戦線が拡大した1935(昭和10)年代に白老を含む胆振地域で軍馬の生産が急拡大した。そうした軍馬生産を支える獣医として義市に声がかかったのである。
 
畜産組合職員という誘いを喜んだのは義市の妻ウメだった。獣医は多忙なうえ、収入も不安定。農民は1年に1度の収穫期にまとめて支払をするのが、この時代の習わしで、冷害などで治療費を支払ってもらえないことも度々だった。組合職員ともなれば給料は固定月給である。乳飲み子を抱えたウメは何よりも安定した暮らしを望んだ。
 
「今さら給料取りになれるか」と義市は消極的だったが、新妻の強い姿勢に推されて1938(昭和13)年12月22日に白老村に赴任する。白老村役場に胆振畜産組合白老支部があり、ここが義市の新たな職場となった。
 
東京生活を経験した義市はおしゃれ好きだった。将校服とロングブーツで身を固め、牛馬の異変があれば、米国製の大型バイク・ハーレー・ダビットソン1200ccにまたがって駆けつける。その姿は村の若者たちのあこがれを誘った。
 
漁業者にも人気だった。当時、白老には港がなく、馬で漁船を引き揚げていたので漁師も獣医の顧客だったのである。もともとは増毛の網元の息子、漁師と話が合う。その上、義市はことのほか歌がうまく、寄り合いに呼ばれると、増毛に伝わる漁師歌を朗々と歌い、人気を集めた。
 

■青年グループに推され、病床から町長選へ

太平洋戦争に敗戦し、日本は連合国の支配を受ける。民主主義改革の一環として、任命制だった都道府県知事、市町村長が普通選挙で選ばれることになった。1947(昭和22)年4月5日、公選制になって最初の白老村長選挙がこの日に行われた。
 
白老村の前任村長は戦争協力者として公職追放を受けていた。まちの有力者たちは「戦後の混乱期だからこそ行政経験のある者でなければ務まらない」として元助役を担ぎ上げた。助役も公職追放を受けた立場であったが、町村長立候補資格審査を受けて立候補が認められた。
 
上層部の動きに反発したのが若者世代だった。〝日本を敗戦に追い込んだ古い世代には任せられない。新しい時代は自分たちが担う〟という強い自負が彼らにはあった。若者たちが一致して推したのが浅利義市だったのである。義市は獣医であったが、1941(昭和16)年から白老村書記補を兼務し、行政経験もゼロではなかったのだ。
 
義市に町長になるつもりはまったくなかった。「馬を診るより他に何もできないし、だいいち金がない」と固辞し続ける。そもそもこの時の義市は、持病の胆石が悪化し、外にも歩けない状態だった。それでも今で言うところの〝勝手連〟をつくった若者たちは、渋る義市を「今さら何を言う。お前が出なければこっちの面子はどうなる。たとえ死んでも良いから出ろ」と叱りつけたという。
 
白老村長選に立候補したものの、選挙期間中、義市はずっと病床にあり、オート三輪を改造した選挙カーに乗ってまちを回ったのは投票日の前日だけだった。
 
迎えた投票日、浅利義市1659票、元助役の荒川忠夫1432票、227票差で義市は初代民選村長に選ばれた。
 

 

【参考文献】
『新白老町史』1992・白老町
『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会
『札幌日本大学学園 創立50周年記念誌』2013・札幌日本大学学園
【写真図版出典】
①『根性ー浅利義一伝』1987・白老町名誉町民浅利義一顕彰会

 
 

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