【旭川・比布】 上川盆地の水稲耕作の発達 ①
始まりは中山久蔵 赤毛種



比布町は「ゆめぴりか」の生まれた町①
『比布町史』の「水稲耕作の発達」は次のような書き出しで始まります。
北海道における稲作発達の過程を大きく分類する。①大正初期以前の試作時代、②大正8、9年までの発達時代、③昭和4、5年までの乱作時代、④昭和9・10年凶作以後の整理時代、④戦時、戦後の食料増産時代、④昭和31年凶作以後の産米改良時代、に大別することができる。[1]
令和に生きる私たちは、北海道の水田はなんとなく昔からそこにあるものという受け止めが大半ではないでしょうか。 せいぜい「きらら397」「きたあかり」「ななつぼし」などの新しい品種が誕生していることを気にかける程度です。 しかし、比布町私からは この北海道の稲作に大きな時代の変遷があったことを教えてくれます。
そして、北海道で最初に米作が行われていたのは道南渡島地方であると『比布町史』は教えてくれます。300年以上前の貞享年間には米作が行われていたいうのです。
記録のうえでは5代将軍綱吉の時代である貞享2(1685)年に渡島国文月村(いまの大野村文月)ではじめて新田が開かれ、ついで元禄5(1692)年には函館に近い亀田で作右衛門という農民が試作を行い、その後7、8年を経て江差でも開田をみたというから本道の稲作もすでに270有余年の歳月を経てきたのである。[2]
ところが渡島半島から北で米はつくられていません。北方に適した品種や農法が開発されていなかったからだといいます。
しかし明治初期までの本道稲作は、地域的には渡島・檜山という道南地方に限定された作物であったし、その栽培法においては府県における稲作の摸倣延長に過ぎない状態であり、産米の質的内容を決定する品種は、東北・北地方から移された白髯・地米・あかいねなどとという本道では晩熟に属するもので、とくに耐冷性を強く要求する本道の風土に適するものではなかった。[3]
このようなことから開拓使は北海道で稲作は不適当であると考え、農業の指導にあたったケプロンやクラークの意見に従い、麦作を採用して、琴似や山鼻の屯田兵村には水田禁止令を出したほどです。こうした中で 北海道米作の突破口を開いたは誰でしょうか?
本道の稲作に北進の可能性を与えたものは、明治6(1873)年に札幌郡広島村字島松の中山久蔵が、津軽早稲から選出した早熟耐冷性の赤毛種であり、さらにこの赤毛種の発見に続いて稲作が飛躍的な発展をとげる契機をつくったのは、明治24(1891)年から同35年ごろまで、上川地方の多くの先達が苦心を続けた試作の成功であった。[4]
『比布町史』は中山久蔵らの先駆者が北方稲作の扉を開いたことを教えてくれますが、それにしても明治6(1873)年の中山久蔵の米作成功が上川盆地に及ぶのには20年近くの歳月が流れています。
明治22(1889)年に忠別農作試験場が設置された上川地方はまだ1村も設けられておらず、戸口もわずかに42戸、217人という未開の地であったが、翌23年に永山村・旭川村・神居村の3村が開基し、この年から永山屯川兵村の建設工事がはじまったので、その戸口も577戸、2684人に急増したのである。[5]
上川盆地は、稲作うんぬんの前に開墾が行われていなかったのです。上川盆地は、現在では日本を代表する米作地域となっていますが、ここで初めて米づくりを行ったのは杉沢繁吉という人物でした。
このとき青森県津軽出身の杉沢繁吉は樵夫として雨竜原野の用材伐木の仕事に従事しており、その作業終了後は雨竜原野西5線に居を構えて無願開壑をはじめ、明治24(1891)年春に忠別在住の福井県人富生貞吉の協力を得て、亀田郡大野産の赤毛種で苗を育て、6月に入って約5畝歩に田植えを行ったが、さいわい天候にめぐまれて、やや徒長気味ながらよく生育し、秋には見事に稔実して1斗5升の収穫をあげることができた。この赤毛種は色沢黒淡暗色を呈し、粒形は大きい方で軟珊であったが、香味と粘着力に富んでいたと伝えられている。[6]
中山久蔵が開発した「赤毛種」が杉沢繁吉の手に渡り、福井県人富生貞吉の協力を得て試作を行ったところ好成績を上げたという記述です。「無願開墾」とは、道庁の国有地貸下げ制度によらず、原野を無許可で開墾することです。成功しても見つかれば没収です。旭川盆地の稲作の開祖である杉沢繁吉は少々荒っぽい人物であったようです。それだけに成功するはずがないと思われていた稲作に挑戦したのでしょう。
この明治24(1891)年に杉沢の他にも米の試作を試みましたが、失敗に終わっています。「赤毛種」ではなかったからです。
明治24(1891)年にはこの杉沢繁吉のほかに、永山村の加藤米作・山口千代吉の2人も戸長本田親美からもらいうけた種もみを用い、いまの永山神神社にあたる湿地約1畝歩に試作を行っているが、この2人の試作した種もみは赤毛種でなかったために登熟をみることができなかった。[7]
杉沢の試作は「無願開墾」という非正規なものでした。本格的に普及するためには「正規な」取り組みが必要です。その役割になったのが、上川農事試験場の主任・黒沢信良でした。中山久蔵の「赤毛種」は、道立の農業試験場で改良を加えられます。これが黒沢の手に渡ったのです。
上川地方の稲作が明治24(1891)年に開始されて、各町の先達がそおそれ試作の苦心を統けていたころにおける全道的な勘きとしては、まず明治26(1893)年に上白石・真駒内・亀田の3カ所に稲作試験場が設けられ、明治28(1895)年1月になると、上白石稲作試験場で生産された赤毛種の種もみが、北海道庁の手を経て旭川4村戸長役場管内の篤志農家に配付されており、同年12月に上川農事試験場の主任となった黒沢信良は、着任と同時に試験水田2反歩余を造成し、翌29年から水稲の移植・直播比較試験に着手したのである。[8]
さてこの黒沢の取り組みはどのように広がっていったのでしょうか?
【引用出典】
[1] ~[8] 『比布町史』1964・416〜418p
①ぴっぷ町観光情報サイト http://pippu-kanko.sakura.ne.jp/01_pippu_jiman#yumepirika