北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

ケーススタディ① [遠別町]愛知団体

 

開拓入門として、拓殖区画や費用、開拓の進め方などを学んで来ました。実際に成功した開拓団をいくつかケーススタディとして紹介します。入植地の状況や団体の構成などによって一概には言えませんが、成功した開拓には共通する要素があるものです。今回紹介するケースは、明治29年、愛知県春日井郡と愛知郡から遠別町に50戸が入植した「愛知団体」のケースです。『遠別町史』(1957)より紹介します。
 

 


■移民団を組織する

愛知団体は明治29年秋、愛知県東春井郡並びに愛知郡の各町村の人たちが、集って結合した団体であり、北海道天塩郡遠別原野に50戸分375町歩、小作予定地25戸分182町5反歩の貸下げを受けて誕生したのであった。
 
当時、愛知県は人口過剰な上、幾耕地がわずなため、農民の生活は逐年困難に向っていた。明治29年春にはこの地に大洪水が起ったため、農地は無惨にいためつけられ、営農を続けることができなくなり、他に新天地を求めたいと考える者が次第に多くなったのであった。
 
このおり、横井京介、水野金次郎の両氏が困難のあまり、北海道胆振国厚真村の知人をたずねたところ、北海道の将来の有望なことを知ったのであった。
 
そこで同年秋に婦郷し、このことを説いて同志48戸を募って愛知団体を組織し、団体長に水野嘉六、副団体長に高木源太郎の二氏が挙げられた。
 
両氏は同年冬に渡道して、胆振、石狩、天塩の各地を視察した結果、遠別原野が地味肥沃でかつ海岸に近いことから、ここに移住することを決めて、土地の貸付を受けたのであった。
 
しかし、翌明治30年いよいよ目的地に移住が決ってから、最初の48戸が19戸に減じたのであった。
 


ここでのポイントは、北海道開拓を発案したのは横井京介、水野金次郎の両氏でしたが、団長・副団長になったのは水野嘉六、高木源太郎であるということです。
 
先に『団体入植』で取り上げましたが、開拓団でもっとも重要なのはリーダーであり、人徳、指導力のほか、財力も合わせてもっていなければなりませんでした。発案者である横井氏、水野氏は団長の座をふさわしい人物にお願いしたのでしょう。
 
そうしてお願いされた開拓団の団長のほとんどは、母村でも尊敬を集めている方々で、移住しなくても困らない立場です。それなのに村民の声に応え、しなくてもよい苦労をいたしました。本当に頭が下がります。ちなみに愛知団体の団体規約は道のモデル規約をほぼそのまま取り入れています。
 
苦労を重ねた団長の水野嘉六氏ですが、明治32年3月15日、区画道路開削の工事費用返済のための旅路の途中で乗船していた船が沈没し、亡くなりました。

氏を失った団員の悲しみは深かったが、その偉大な精神を継承して、一層結束を固めて進んだのである。

とのことです。
 


■名古屋から目的地上陸まで20日間

明治30年3月4日(旧歴)これらの人々は、大いなる希望に胸を躍らせて名古屋市熱田港より乗船したのである。三重県四日市港を経て、横浜港に到達。そこで5日間程、北海道行きの船を待ち、3月上旬に、ようやく小樽港に到着。さらに初山別行きの北辰丸に乗って、3月25日いよいよ目的地へ上ったのであった。
 
初山別でひとまず旅装を解いた一行は、女子供を残して、翌日、男子は歌越別に向って出発したが、初山別と歌越別の間のわずか4里の道も渡道早々で地理不案内のため、団体長の命令で電柱(ママ)のみを進路にとって、未開の山路な歩いたので、その日の中に歌越別にたどりつけないで、大木につかまったまま野宿した者が多かったという。
 
入植当時の経路は、主として小樽から海上航路で初山別へ上がり,歌越浜を経て海岸の渚をつたい、市街地から入植地まで遠別川沿いに、熊道あるいはアイヌ道と称する細通を通ったが、その頃は区画割測量のときの仮道筋があるだけであった。
 
歌越別での一行は、団体長を先頭に現地に上る者と、再び初山別に引返して家族を連れにもどる者とに分れた。家族は歌越別の漁場主伊勢福太郎氏の馬小屋に泊まっていたのであった。
 
一方、現地視察の一行は、愛知団体の貸付地へ向い、日沈までかかつて、かろうじて10号附近にたどりついたが、そこは濁流逆巻く遠別川が春の雪融けの水によってとうとうと流れており、渡船とてなく一行は思案にくれたのであった。
 
そのとき、またたま13線に10町歩の貸付けた空知郡夕張町の森角卯之助氏と会い、同氏の指導により、おがみ小屋を建てて、3日間を費やし、丸木舟を急造したのであった。
 
この丸木舟で東岸に辿りつくことができ、それより道なき原生林を地図を頼りに通って、ようやく遠別原野入植予定地にいたのである。
 
早速、間口9尺に奥行き3間の笹ふきのささやかな着手小屋9戸を建てて、日没までに全員無事に小屋へ到着したのであった。
 


当時の交通環境は現在の私たちにはまったく想像できません。遠別から入植地までの道のりは上記の如くですが、

水野団体長は、小樽から郷里へ再度の移民募集と来年の夏季の食糧等の物資購入のため行き、小樽で買い求めた食糧は11月の末に羽幌港まで送ったが、年内に時化読きのため遠別への回航ができなく、羽幌で一冬越さなければならないことがしばしばあった

といいます。水野団長は、数日足止めされるのではなく、なんと一冬足止めされています。必要なものは母村から送ってもらう、と安易な計画を立てると失敗します。荷物は届かない、届けば儲けものと思う方が良いでしょう。
 


■最初の仕事は木を伐ること

入植当時の現地は、まだ見渡す限りの樹海で、赤だも、やちだも、どろなどが隆々と天を指し、仰いでも日を見ることのできないところが多かった。
 
また乾燥地にはフキ、アザミ、イクドリや笹が6尺以上も伸び、湿地帯にはアイヌワラ、菅、フキ等が密生していた。動物では狐、狸、兎、川うそ、貂(てん)、りす、熊などもたくさんいた。
 
このよう自然林の中を遠別川が曲りくねって流れていた。しかし土地はおおむね肥沃で、開拓の鍬を待っていたのであった。しかしながらこのような無人の境に開拓の鍬を振うため、幾百間を距てて散点入地した開拓者の強い決意と、また心細さはいかばかりであったろう。
 
入地して最初の仕事は木を伐ることであった。
 
こうした密林の開墾は容易でなく、大きなまさかりで傷をつけて枯らしたり、鋸の目が思うように立てられないので、大木の根本に木を寄せかけて、火の力で燃え切らせて倒したりした。それでも倒れぬときは燃え口に挺を入れ、無理に倒した。
 
境界の木を切るときなどは始末に困るので、隣の方へ傾いているものは、むりやり隣の方へ押し付け合いをしたものだという。
 
こうして倒した木はどうにか動かせる程度に切って、大勢でこれを士場巻式に積み上げ、適当に乾いた頃を見はからって火をつけ、「良く燃える」と言って喜んだものだということである。
 
いま考えると実に不生産的な話だが、そうしたことによってだんだん空き地ができたのであるが、ずいぶん危険な仕事をしたものであった。
 


かつて、北海道でも最後だろう「拝み小屋」生活した方にインタビューしたことがあります。粗末な拝み小屋はさぞ寒かっただろうと聞きましたが、豊富に木材があったので暖には困らなかったということです。
 
とはいえ、木材は貴重な資源なので有効活用すべきですが、この愛知団体は伐採作業に慣れていないようで、伐る代わりに燃やしています。山火事の恐れもあるため、できるだけ樹木は切り倒したいところです。
 


■開拓団、道路を開く

かくて開墾耕作のかたわらの比較的高地の乾燥したところに住居を設け、その周囲から切り拓いていった。
 
最初の年はそれでも4~5反くらいずつしか拓けなかったようだが、木を切った跡は笹を刈るとすぐ鍬で削って畝を作り、南瓜、馬鈴薯、小豆、粟等少しずつ蒔いた。しかし播種期の遅れたためと、秋霜が早かったため十分に成熟をしなかったが、馬鈴薯のみは採れて大切な主食となったのであった。
 
とくに愛知県人は背に負うことをしなかったから、長着物のすそを端しよって天秤棒の片方は荷物、片方には幼児を乗せ、身の丈を没する笹藪や木立の中をくぐり抜けて歩いたもので、その姿は現在はとても想像もできぬことだた思う。
 
その頃の輸送は、人の背に負って来るものの外は駄鞍馬が唯一のものであった。
 
明治31年8月、区画道路の開さくが、団長水野嘉六氏の請負で行われ、交通輸送は急速に発達した。
 


開拓地の交通事情が忍ばれますが、ここのポイントは団長の水野氏が区画地の道路開削を行ったというところでしょう。北海道の道路開削と言えば、すぐに囚人やタコ部屋などが話題になりますが、そうしてつくられた道は今の国道の一部であり、町村道や生活道路にあたる道はほとんど開拓者自身によってつくられました。
 
 愛知団体では団長の水野氏が道路開削を請け負っています。
 

三十一年八月、市街から基線二十三号までの、道路開さく工事が行なわれ、愛知団体長の水野嘉六氏が代表となり道庁から諸負い、各部落に分担させて工事を進捗させた。工事資金調達のため、拓銀の肥田という同郷の知人の保証を得て、一千円を借用して事業にあたったのである。三十二年三月借金返済のため出札途中、増毛の岩尾沖で乗船した北辰丸が沈没し、船と運命をともにするという悲惨事があって、しばし一同を呆然とさせた。

 
この道路工事も団長自ら借金をして行ったようで、その返済のために向かう途中で命を落とすわけですが、団長は開拓団をまとめるだけではなく、入植地に必要なインフラ整備を行う役割もありました。資金力のあったものでなければならなかったのです。
 
これでも「北海道開拓は官依存」でしょうか?
 


■最初に学校を開く

草分け当時の教育としては、開墾事業に追われていたため子供の教育へは手が届かなかったが、明治35年8月に酒中井千松氏の住宅の一室を私立教授場として借り受けて、その産声をあげている。このときの生徒は14人で、密林で4~5間離れると、先に行く人が見えなかったという。
 
教師は勇払郡厚真村から、天理教布教の目的で来村中の石松長三郎という人で、翌年の1月に石松氏が離村したため中止された。
 
後明治37年2月に団体長水野嘉六氏の室家を借り受けて、大橋国之助氏を教師として児童18名の教育にあたったのであるが、23号に設立された第三簡易教育所の分教場が13号に設立認可されたので、そこへ移った。この第三簡易教育所が現在の中央小学校の基礎を作っている。
 
当時の学校は、開拓が忙しいので夏は休学し、冬だけ学び、学校はストーブがなく、炉で焚火をし、机は飯台でお座りをして勉強した。児童の服装は真夏でも浅黄木綿の襦袢に同じ股引き、手製ネルの古足袋に三角頭巾をかぶり、履物はつまごをはいて通ったものだという。
 


開拓が入植地に落ち着くと、最初に行ったのが神社仏閣と学校の創設です。学校は必ずしも開拓に必要なものではありませんが、成功した開拓団は例外なく学校づくりを行っています。
 
言葉を替えて言えば、教育を後回しにするような志の低い開拓団では成功は覚束なかった、ということです。愛知団体の例で分かるように、学校の開設も団長の仕事でした。
 


■心の拠となった神仏

宗教は草分当時から盛んであった。愛知団体に前後して20号から28号に入植した越前団体に、団体とともに法義を広めようとして移住した山本祖明師が22号に曹洞宗説教所を建てて、遠別山正法寺と称した。これが遠別における寺院の最初である。
 
団体員は入地したときから寄り合と称して、毎月14日を定例日と定めで各戸順番に宿をして法話会淀開いていた。これは念仏講と称して昭和18年頃まで続けられた。
 
社は明治32年6月に18号の水野金次郎氏所有地内に、ささやかな神殿並びに拝殿を建立し、天神様を祀った。
 
このように草分け当時より、団体員は宗教心に富み、部落融合の精神的基礎を築きつつ、現在の中央部落を形作ってきたのである。
 


ここに出てくる山本祖明師は、自ら開墾しながら布教もするという「開拓開教師」と呼ばれる開拓期の北海道だけにあった存在です。
 
愛知団体が続けた「念仏講」は、当番の家に住民が集まり、お坊さんの説教を聞き、お経を上げるものですが、苛酷な環境に生きる人たちにとって宗教は重要な心のどころでした。葬式仏教といわれることも多い日本の仏教ですが、開拓期の北海道では今を生きる人々の心の支えでした。
 
神社は必ず建てます。登山隊が山頂に掲げる国旗のようなもので、ここが私たちの故郷になるという宣言でした。愛知団体の例では団長所有地内に最初の拝殿が設けられています。
 

 


 【引用出典】
『遠別町史』1957・遠別町 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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