出版情報
札幌開拓の偉人島義勇の「入北記」が「佐賀城本丸クラッシック」の第一段に
開拓使判官として札幌の礎を築いた島義勇判官ですが、佐賀藩士時代に2年間に渡って行った北海道探索の記録を「入北記」としてまとめています。この「入北記」がこの度、佐賀県の佐賀城本丸博物館により活字化されました。(この情報は北海道開拓倶楽部読者の方からいただきました)
佐賀県の佐賀城本丸博物館は新たな事業として佐賀県が誇る幕末の偉人「佐賀の七賢人」にまつわる古文書を活字化して刊行する事業を始めました。その栄えある第一弾に選ばれたのが島義勇の『入北記』です。このことを地元の佐賀新聞は次のように伝えています。

島義勇①
佐賀城本丸歴史館(七田忠昭館長)が、幕末維新期の古文書を活字化する新シリーズ「佐賀城本丸クラシックス」を3月から発刊する。これまで埋もれていた一次的資料を掘り起こし、近代日本の礎を築いた佐賀の七賢人らの足跡に迫る。
第1弾は、後に「北海道開拓の父」と呼ばれる島義勇(しま・よしたけ)(1822~1874年)の「入北記(にゅうほくき)」。明治新政府の北海道開拓判官として赴く10年以上前の佐賀藩士時代の記録で、藩主鍋島直正(閑叟=かんそう)の命で北海道から樺太を調査した。この体験が、明治に入って北海道開拓に生かされていった過程がうかがえる。
「入北記」は原本の一部が所在不明となっており、北海道大学などの協力で原本や写し、記録写真を寄せ集めて全体像をほぼ再現した。本格的な出版は初めてで、調査・編集は佐賀城本丸歴史館の藤井祐介学芸員が担当した。[1]
佐賀城本丸博物館発行のチラシはこう紹介しています。
明治2年、新政府の開拓判官として札幌を中心とする北海道の都市建設に先鞭をつけた島義勇は、すでにそれを遡る安政4年3月7日に函館を立っていた。蝦夷地開拓を企てる佐賀藩主鍋島直正に命じられて海を渡った島義勇はこの探検で北海道や南樺太を踏破し「入北記」を著した。
そこには当時の 蝦夷地の地形や物産、アイヌの生活などが詳しく記録されている。本書は佐賀からの行程を含む紀行文8編、関連書簡などを中心に島義勇の記述を復刻出版するものである。 その記録を紐解けば島義勇がのちに蝦夷地開拓の大任を担ったことに、宿命的なものを感じずにいられない。[2]
北海道では排斥されていく一方の北海道開拓の功労者ですが、本州では出身地の偉人として顕彰がすすんでいます。長い歴史の中で多くの歴史的な偉人を輩出した佐賀県でも、島義勇が郷里の「七賢人」に選ばれているのはその現れでしょう。全国的には評価の進む北海道開拓ですが、本家本本元では哀しいことに排斥がすすんでいます。道民として悲しむべきことです。
なお、佐賀城本丸クラシックス1「島義勇入北記」についてご関心の方は下記リンクよりお問い合わせください。


佐賀城本丸クラシックス・島義勇入北記」②
【引用参照出典】
[1]佐賀新聞LIVE 2021/3/2 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/639232
[2]佐賀県立佐賀城本丸歴史館公式サイト https://saga-museum.jp/sagajou/e65313161c9518ed7f413922edfcbfe1.pdf
①佐賀県立佐賀城本丸歴史館公式サイト>佐賀の群像 https://saga-museum.jp/sagajou/about/7kenjin.html
②https://www.saga-s.co.jp/articles/gallery/639232?ph=1