[留萌]昭和10年 白鳥ソイさん 86歳の談話
メノコはよく働きます
メノコも和人の妻になることを喜びました
令和3(2021)年3月12日、日本テレビのワイドショー「スッキリ」の番組中、アイヌ民族に対して不適切な表現がありました。番組ではすぐに謝罪しましたが、この問題の根深さを改めて印象づけました。この問題に対して私たちはどう向きあっていけばよいのか、留萌の事例をひきつつ、私見を述べます。
北海道の先住民族であるアイヌの人々と後住和人の子孫である私たち。北海道ではこの2民族の共生が求められています。アイヌ協会も

しかし、一方で、アイヌ民族は日本の侵略政策の被害者であり、和人は被害者であるアイヌ民族た対して謝罪し続けることが民族の共生だとする声もあります。両民族の関係を被害と加害の関係に位置付けてしまえば、両民族の対等な関係性崩れてしまいます。そこには「分断」しか残りません。
アイヌ民族を侵略された民族とした場合、この問題は、アイヌ民族が主権を握る独立国家を打ち立てるか、北海道から和人が総撤退するしか、そのいずれかにしか最終解決の道はなくなります。
そのことが叶わなければ、2つの民族は未来永劫に、被害と加害、糾弾と贖罪の関係を続けていかなければなりません。それは果たしてアイヌ民族が望んでいることなのでしょうか?
その関係の中に「それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践」が生まれないことは明らかです。差別の解消というネガティブからの離脱が、糾弾と贖罪というネガティブの応酬から生まれると考えることはできません。
北海道の歴史を見るとき、人権意識の時代的な制約や社会システムの未発達による錯誤、またどこにもでもいる一部の不見識な人たちの心ない行為などはあったにしろ、大勢として、アイヌ民族は和人の開拓事業によく協力したし、明治政府、開拓使または後継の北海道庁も厚生に意を尽くしたのです。
そこには新大陸で見られた人類史の犯罪とも言うべきアングロサクソンによる凄惨な先住民迫害はありません。〝白人だけが神の創造物〟と信じる彼らは、先住少数民族を〝人外〟のもとしたのです。アングロサクソンにとって、先住民族を撃ち殺すことは器物破損と同じでした。実際に彼らは先住民族を狩猟の対象にしていたのです。
昨年、北米の大きな社会問題となった黒人差別の根底には、このキリスト教に基づく人種優越意識があります。今、アングロサクソンによる先住民族迫害と北海道での和人とアイヌの関係を、知ってから知らずしてか、同じカテゴリーの中で語る言説が多いのですが、似て非なるものです。
北海道という世界的にも希な極寒豪雪の地がわずか100年余りで世界に誇れる豊かな大地に開拓できたのも、この土地で生きる術を和人入植者に授けたアイヌの人々の物心両面の支援の賜なのです。
また19世紀末にロシアの脅威が北方に迫ったとき、和人側に立ってロシアと戦ったのもアイヌの人々です。アイヌの人々がいなければ、津軽海峡の北側はソ連領=ロシア領であった蓋然性は高かったと言わざるをえません。
そこまで見た時に、私たち和人はアイヌの人々に対して十分な感謝を示してきたと言えるでしょうか?
今、北海道でなすべき事は、まさに「和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践」であり、その基礎は、両民族の関係を「糾弾と贖罪の関係」から「理解と感謝の関係」に置き換えることです。
次に『留萌市史』(1970)に掲載されたアイヌの古老・白鳥ソイさんの談話を紹介します。これは昭和10年頃に採録されたもので、当時白鳥さんは86歳でした。ソイさんは青森県移民の白鳥才藏さんと結婚され、明治10年頃に留萌の三泊に移り、この地の〝草分けの人〟になりました。
なお、文中に登場する「栖原」は、天明7年より留萌場所を預かる場所請け商人ですが、栖原家は留萌場所を預かるとアイヌの人々の扶養に意を注ぎました。そのことが留萌場所の繁栄に繋がっています。
松前期の場所請け商人のアイヌの人々に対する非道は知られるところですが、すべてがそうであったわけでない。栖原家のような例もあったことも含めてお読みください。素直に白鳥ソイさんに対して感謝の気持ちが湧くはずです。
■古老談
留萌のアイヌは今の礼受・元町・臼谷の3ヵ所にいました。このアイヌはみな栖原の俾用人で、衣食その他はみな栖原から供給されていました。アイヌは子供が生まれると、お椀で一杯ずつの白米(アイヌは玄米を常食とした)を栖原から貰ったものです。一般人もうるち米などは薬(富山)と同様でとても手に入りませんでした。
当時の栖原の帳場の勢力はたいしたもので、正妻はもちろんシャモ(和人)は和人の正妻のほかに必ずメノコ(アイヌ女子)を妾として置くことになっており、この人からアイヌ語を学んだものでした。アイヌの熊祭りは明治26(1893)年ごろまであって、よく濁り酒を赤いお椀で呑みながら踊り、喜んでいました。場所はウスヤのコタンでした。
留萌コタンのアイヌは栖原からの仕送りの米を食ったが、ウシバイバ(ウバユリの一種)シャク・フキ・ヒル(いずれも全道山野にある)などを野山から集め、鮭や他の魚を米と一つ鍋に入れて雑炊の様なものを作って食べました。これは和人にはなかなかたべられません。
家は全部笹で外部を覆いますが、すべて最初は地面でこれを編み終ってから、壁や屋根とします。窓は対称的に2つ作りますが、窓から顔は出しませんし、他人も窓から決して覗いてはなりません。もし覗いた場合にはチャランケ(強硬な談判)をつけれても仕方がないことになっていました。
アイヌが死ぬと黒い着物で包み、ガマで織ったキナ(ござ様のもの)でさらに巻き、一本のばしにして埋めました。卒塔婆は丸い4~5尺(1m半位)の棒で、マキリでこれを削りますが、この時は下から上へと巻くように削り、鉋(かんな)くずの長いようなものを作り、これを切りはなさず、上の方につけておきます。この棒を墓場に建てるのです。この削り屑は相当長い間棒の上にっいています。

メノコ達の踊り(①)
和人はよくメノコを妻にしましたが、メノコはよく働きます。メノコも和人の妻になることを喜び、したがってアイヌの若者には娘日照りといったふうでした。
メノコがあまりよく働くのでよくこんな事を言いました。「動きたくないものはメノコを嬶にせい」。
アイヌは一般にそうでしたが、メノコなどはとても単純でがまん強く、自分の会いたい人が留守だといわれても、その相手が帰るまで丸一日でも待っているということもあります。その人が帰ってくると、その喜び方といったらないものでした。その間だれが何といっても何をきいても黙っています。辛抱強いのには驚くほかありません。
アイヌは入れ墨をします。マキリで傷をつけ、樺を燃やしてその煤をすりこみます。今はもうやりません。
また今(昭和10年)でも、鰊漁のときに三泊では白老からアイヌを漁夫として毎年雇入れますが、メノコは飯たきをします。秋田・南部辺の女や近所の山出し女などは、メノコの働きぶりにはとてもかないません。
メノコは和人女の2・3人前働きますが、第一寝不足によく耐えます。第二は物事をきれいに始末します。第三は潰物の潰け方や魚の調理法が非常に上手です。それにいざ時化(しけ)で人手不足の場合などには、尻をはしょって海に入り、船を陸にあげる作業をしますが、こんなことはとても和人女にはできません。
アイヌは鮭の皮をはぎ、これを乾かしてケリ(靴)を作りますが、これが雪の上のはき物です。一冬に2足あると十分です。決して内部に水は入りません。しかし砂や土の上ではとても弱いものです。
【引用参照出典】
『留萌市史』1970・27-28p
①『北海道アイヌ風俗集』(出版者・出版年不明)北方資料デジタルライブラリーhttps://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/