北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道開拓の先駆者 2019/11/13

[室蘭] 絵鞆アイヌ・サラグルと隠れキリシタン・ペトロ西友吉

 

室蘭市史を読んで見つけた逸話です。調べたところ代表的なアイヌ史の概説本、榎森進『アイヌ民族の歴史』(2007・草風館)、関口明他『アイヌ民族の歴史』(2015・山川出版)、平山佑人『アイヌ民族の歴史~日本の先住民族を理解するための160話』(2014・明石書店)にも載っていませんので、ほとんどの方が知らない逸話と思います。
 
長崎での江戸幕府のキリシタン迫害から逃れ、室蘭の絵鞆(えとも)でアイヌとともに暮らしていたペトロ西友吉と、カトリックの洗礼を受けけキリスト教に入信した絵鞆アイヌのサラグルは、ベルリオーズ司教の指導の下、室蘭におけるカトリック教会の土台をつくりました。アイヌと和人が協力して室蘭に於けるキリスト教の基盤をつくったという話で、江戸時代の長崎におけるキリスト教弾圧の激しさも伺える話です。以下『室蘭市史』から
 

室蘭 絵鞆岬 (写真出典①)

 
カトリック教会は明治17年函館にベルリオーズ神父を派遣し、同24年に函館教区をおいて、ベルリオーズ司教が教区長となった。この年、ルソー神父が室蘭教会主任司祭に任命され、同26年7月教会の献堂式が行われた。ベルリオーズ司教は、アイヌ民族への伝道をすすめるために紋別と白老に伝道所を開き、アイヌ語の「カトリック要程」を編集した。
 
同26年、ベルリオーズ司教はアイヌ民族への伝道のために室蘭にきた。絵鞆のサラグルというアイヌの家に滞在して、アイヌ語を学んでいたとき、明治初期のキリスト教徒迫害を避けて九州の長崎から絵鞆にきて、アイヌ婦人と結婚し、信仰を守りつづけていたペトロ・西友吉にめぐり会った。
 

朝、私はパチパチときかんに燃える火の音に目を覚ましました。その火はサラグルがまだ夜の明けぬ中から焚きつけたものです。(中略)起きて見ると私の夜具や周囲の床の上にウッスラ雪が降っていました。
 
ある日、日本人の老爺が私共を訪ねて来ました。私はちょうど昼食をしたためているところだったので、ただその老爺の挨拶に礼を返したばかりで、談話は宿の主人にまかせました。彼は帰る時、私に向ってていねいに挨拶しましたが、そのうやうやしきに少々驚かされたくらいです。
 
「あの人は誰かね」と私はサラグルにたずねました。
 
この部落にいるおじいさんです。ずっと前に長崎から来て、私の家内の姉と結婚しました。あの人は金持ではありませんが、正直でアイヌ民族に対しても情誼に厚いので、皆に尊敬きれております。それに何でもよく知っている人ですよ。
 
その晩でした。小屋の前で咳ばらいが聞えました。
 
「ああ、友吉さんが来たな」とサラグルは眩いて「あの、昼に来た人です。今晩うちで遊んでゆくのでしょう」
 
それは本当でした。型の如く挨拶がすむと、私は友吉に申しました。
 
「あなたは長崎の方だそうですが、私も去年そこへりまして好い印象を受けました。あすこには沢山キリシタンがいますね」
 
彼はキリシタンという言葉を聞くと顔色を変えました。そして「長崎のバテル様という人を知っているか」と訊きました。
 
「では、あなたも信者ですね」と私は叫んで、今度は彼にその故郷の「バテル様」の名前を言ってやりました。
 
しかし、彼はただバテル様という言葉を知っているだけで、それがその人の名前と思っていたのでした。
 
友吉がずいぶん用心しているので、私は長崎近郊のこと、その驚嘆すべきキリスト教会のこと、そこここの村のことなどを語りあい、それから宗教の話にかえって、デウス様(天主)とか、スピリト・サント(聖霊)とか、ビルジェン・サンタ・マリア(童貞聖マリア)とか、オラシオ(祈睦)とか、ケレンド(信経)などという昔のラテン語やポルトガル語をつとめて用いてみました。
 
するときすがの彼もついに折れて、私に「ケレンドのオラシオを唱えることができるか」と尋ねました。それで昔のキリシタンが用いていた言葉で唱えると、彼は満足したらしく、しばらく黙って考えていましたが、それから姿勢を改めて十字架の印をし、主祈文、天使祝詞、信経、懺悔の祈祷、十誠、告白の祈祷の一部、それに御告の祈祷(アンジュエルス)を調えました。(中略)友吉は祈り終ると心からの感動をこめてから申しました。
 
いかにも私はキリンタンで、昔のキリンタンの子孫でございます。
今から23年ほど前、バテル様に教会へ入れていただきました。しかし、その頃は迫害がひどかったので、キリシタンの集会にはたった2度しか出席しませんでしたが、それがお上の忌諱に触れ、罰として裸足で3日間、高島の鉱山で働くよう申し渡されました。
 
その後、私は周囲の事情からこの遠い蝦夷の片隅に入り、貧しいながらも祈祷が自由にできる幸福に、ここで暮しております。そして、その祈祷の義務を果すおかげでしょう。ありがたいことにこの年齢になるまで病気ひとつしたことがありません。
 
死ぬまでにぜひ一度、私の先祖の宗門の先生に逢わせてください──といつも天主様にお願しておりました。
 
先程からの私の無礼をどうぞお赦し下きい。実は日本に偽の宣教師が沢山入りこんでいると聞いたので、あなたに対しても用心していたのでございます。しかし、今は疑いの雲も残りなく晴れました。私は天主様が23年このかたお願いしてきた私の祈禧をききいれて下きったのだという気持ちがします。私はとうとう救われました。救われました──。ああ、なんというお恵みでしょう。有難い、有難い──。(ゲルハルド・フーベル著「蝦夷切支丹史」より)

 
この友吉という老人は、ペトロ・西友吉といって、長崎近在の深堀村で父与右衛門、母春の子として生まれ、23年前、絵鞆にきたというから、明治3年のことである。友吉は明治新政府のキリスト教徒迫害で捕われ、長崎港外の高島に鉱山懲役に送られた。そのあと信仰の自由を求めて北海道に渡ってきたものと思われる。
 
どのような縁で絵鞆のアイヌとともに生活するようになったかは明らかではない。蝦夷地においても、江戸幕府直轄時代から「邪宗門にしたがふもの共罪おもかるべし」として、きびしい切支丹禁教を布告していたし、新政府も禁教政策をうけついだ。迫害を逃れて九州からはるばる北海道までやってきた友吉をアイヌの人々はあたたかく迎えて、かくまったのである。
 
サラグルの「あの人は金持ではありませんが、正直でアイヌに対しても情誼に厚いので、皆に尊敬きれております。それに何でもよく知っている人ですよ」ということばからも、友吉は尊敬され信頼されていたことがわかる。
 
ベルリオーズ司教はその後、友吉の妻と3人の子、サラグル一家に洗礼を授けた。これらの人びとが室蘭教会の土台をつくったのである。


【引用出典】
『室蘭市史 第三巻』1985・室蘭市・821〜824p
【写真出典】
①室蘭市HP>フォトギャラリー > 室蘭八景 
http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1400/pg_view.html#etomo
 
 

 
 

 
 

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