[西興部]岐阜団体
北海道開拓入植団の成功と失敗
北海道の開拓移民は本州の貧しさから逃れてきた敗者のように語られることがあります。移住の動機がそうであったとしても、待ち構えていたのは過酷な気候と厳しい自然です。これに打ち勝った者だけが北海道民になれました。道民は敗者復活戦の勝者の子孫ということができます。北海道開拓の勝者と敗者──その違いを『西興部村史』に教わります。
西興部村全景①
■それぞれの北海道移住
オホーツク支庁の最北西部西興部村は、北海道でもっとも遅く開拓の鍬が入った地域の一つです。農業には気候が厳しく、消費地からは遠く交通の便が極めて悪い──そうした厳しい条件が入植者を遠ざけたのでした。現在の西興部村となる上興部原野は、大正2(1913)年になって初めて開拓が始められました。『西興部村史』(1973)は、この地に新天地を求めてきた入植者の事情を次のように紹介しています。
一般入殖者も、団体入殖者も、北海道移住には、それなりの動機や背景があった。
明治初年、藩籍を離れた士族は、禄高に応じて、転業資金として、現金、あるいは公債が支給された。西南戦争後からの悪性インフレーションで、士族は公債も手離し、明治14(1881)年以後、政府はデフレーション政策をとったが、既に士族の手には公債はなく、生活は困窮のどん底におちていた。
物価の急落、不況で、中小企業は相次いで倒産した。農村においても米価は下落し、農民生活は極度に窮乏して、中小自作者の土地は、大地主が獲得するところとなり、小作者が激増した。大地主に集中した土地は、小作者の手には容易に戻らず、小作者は、2、3男対策もあって、府県農民の生活は苦しかった。政府はこれらを北海道開拓の移民とする政策がとられたのである。
本村地域への入殖も、このような背景のもとで行われ、明治40(1907)年以降の入殖については、日露戦争終結による不況到来に起因するところも多い。
入殖の動機も一様でないが、内地府県の開拓は、余すところなく進んで、山頂まで石垣を積み、わずか数坪ずつの段々の田、畑で、いわゆる「田ごとの月を眺める」農業に耐え兼ねた者(四国、新田ムラの一団体)や一村の大火災のため(宮城、吉野甚六)、復興を北海道の新天地に求めた者など、災害が転機となった者も少なくない。
また、養蚕で一旗あげよう(山形、村形惣治、山形団体)とした者、あるいは、ハッカ栽培に夢を託した者(岐阜団体)など、新しい企業を、北海道に求めた者も多かった。[1]
■開拓失敗の原因
このようにして西興部村に新天地求めて多くの入植者が渡ってきましたが、ほとんどの入植者は開拓に失敗しました。その原因を村史は次のように記しています。
本村各地区に、明治41(1908)年以降、入殖の団体移住民は早くは大正年代に、その他も昭和初期ごろまでに、ほとんど解体離散し、わずかに地名に名残りを留めるのみとなり、このうち上藻岐阜団体が当時の面影を残すだけである。
ではどうして、本村地域の場合、定着できなかったのであろうか。それには次のような理由があげられる。
1 団体入殖地は、第二次解放による上興部原野増画地(明治41(1908)年以降)であって、ほとんどが沢峡・山麓などで、営農適地でないところが多かった。
2 交通不便と密林、苛烈な自然環境に、営農意欲を失った。
3 団体長のなかには、先がけて離脱、その職務を果たさなかった。
4 造材や炭焼きに転業、賃銀を得るようになった。
5 当初から地主の承の夢をもって、確固とした信念がないものもあった。 [2]
■岐阜団体を襲った試練
大沢善助②
北海道に新天地を求めた、岐阜県武儀郡北武藝村の大沢善助等は、一族を主とした同志を募り、団結規約書を作り、出身地の村長石原丑之助の移住証明を得て、大正2(1921)年3月、渡道した。
最初の入殖予定地は、遠軽村社名渕であったが、湿地のため生業の見込みたたずとして、この土地を見限り、新たに入殖地を探すこととして、親族で湧別村芭露に入殖していた大沢重太郎を頼って、ここでひとまず旅装を解いた。
一行は、芭露、計呂地その他に分散して、新入殖地で使用する種子を得ようと親族の土地を借り受けて、わずかながら作付した。そのうち新入殖地は、本村上モウオコッペと決定したので同年7、8月に上藻に入り、入殖のための着手小屋を建設した。
大正2(1913)年(1913)は、全道的な大凶作の年であり、新しい、上モウオコッペの入殖地で、使用するため作付したわずかの秋作は全滅し、悲惨な状態で同年秋と翌3年春とに分かれて入地したのである。 [3]
入植初年に入植団を襲った大凶作は、大沢ら岐阜団体に厳しい試練を与えました。
大正2(1913)年は、全道的な凶作で、開拓途上の本村地域も、山野草を主食とする悲惨な状態で、翌三年も凶作が続き、第一次世界大戦の影響等で、米価の高謄は依然おさまらず、深刻な不景気となり、極めて不安定な世相となった。特にこの年入地した上藻岐阜団体は、特に大きな打撃をうけ、食糧にこと欠く者も多かった。[4]
■成功の要因
こうした苦難がありながらも岐阜団体の開拓は成功しました。村史はその要因を次のように分析しています。
岐阜団体は、入殖後60余年を経過しているが、今もその子孫が農業を経営しており、村内他団体が2、3年で四散し、長くても10数年で団体の機能を失っているが、岐阜団体のみがこのように永続できたのも、入殖した土地が他団体と比較して肥沃、平坦で営農に適しており、瀬戸牛峠開通後は交通の便が良くなったことなどが最大の原因とみられる。
また、総代大沢善助が団体をよく統率し、営農にも留意し、あるいは説教所を設けて荒みがちな団体員の心の安らぎを求めたりして、団体員の融和を計り、団員の定着に力があったといわれる。 [5]
■自助共助の精神、高い倫理感
岐阜団体移住規約書③
(移住の目的)
第一条 北海道庁の規定せられたる団結移民の要領に準拠し、岐阜県武儀郡北武蕊村住民12戸、同県山県郡谷合村1戸をもって団結を組織し、北海道に移住して専ら農業に従事し、自作農たるをもって目的とす。移住者は皆、北海道に永住するの目的なるをもって、移住の際は、貸下予定地内に転籍するものとす。
(移住の戸数)
第2条 この移住団体は、大沢善助以下13戸、人員45人より成立するものとする。ただし、団体移住中異動を生し、補欠したるときは、村長の証明を添へ、総代人および補欠移住者連署の上、北海道庁へ届出るものとす。
第3条 大正2(1913)年に、貸下予定地に11戸移住するものとす。予定存置地に移住したるときは、ただちに各自より移住届を添へ、移住地の貸付願を、北海道庁へ差し出すものとす。
(団結員の権利、義務)
第4条 この団体は、各自同一の権義を有する自作農にして、土地貸下期限中は、小作をなさしめざるものとす。
第5条 移住者は勤倹を旨とし、決して奢侈に渉ることをなさず。移住の翌年より協議の上、応分の金品を貯蓄し、もって基本財産の基礎となし、凶荒または公共の用に供す。ただし、貯蓄の金品協議の上、もっとも確実なる方法を設け、総代人をしてこれを保管せしむ。
第6条 習慣の善良なるものはこれを保守し、否らざるものはこれを矯正することを務むべし。ことに左(下)の各項を遠守するものとす。
1 常に親睦を旨とし、かりそめにも喧嘩口論すべからす。
2 金額、物品を賭し、博変をなすべからす。
3 祝祭弔慰の外、みだりに集会して、酒宴を開くべからす。
4 冠婚葬祭その分を越ゆるべからず
5 忠君愛国の気風を養うべし
第7条 移住者中、疾病に罹りもしくは、不時の災害を被りたるときは、相互に救護をためすはもちろん、万が一開墾の進捗を妨を成功せざるの虞あるときは、相協力して、予期の功程を拳げしむるものとす。
第8条 移住旅費は、各自の負担とす。ただし、時宜により団結同盟者において、何分のーを補助することあるべし。
第9条 移住後、家作器具糧食等、各自に必要なものは、各自の負担とす。
第10条 本区域内における共同に属する道路、橋梁、用悪水路の修築は、共同負担とす。
(総代人に関する規定)
第11条 便宜上、団体中より互選をもって、総代人1名、副総代人1名を置き、左の事項を取扱はしむ
1 土地貸下その他に関し、官庁へ諸願届等に関する事項。
2 公達命令伝送の件。
3 開墾上管理の件
4 貯蓄金保管の件
5 規約違反者処分の件
(規約違反者処分事項)
第12条 本規約に違背し、もしくは左(下)記の一つに該当する者あるときは、衆議の上、総代人より一応説諭を加え、なお改めざるときは2円以上の違約金を徴し、これを完納ためさざる者は、本団体員たることを除名す。
1 ゆえなくして開墾に従事せざる者。
2 ゆえなく他に転住する者。
3 農期間他人を誘導し、出稼をなす者。
4 相互救護の義務を果さざる者。
5 本団体の面目を汚す行ためある者。
第13条 違約徴収金は、他の貯金と共に保管し、団体の公共の事業に費消するものとす。
第14条 除名者の貯蓄したる金品は、これを返付せざるものとする。
第15条 他日移住者中において、本規約の改正を必要とする場合あるときは、団体全戸数3分のー以上同意をもって、改正することを得。この場合においては、当初本規約の認可を得たる、村長および北海道庁の承認を得るにあらざれば、実施せざるものとす。ただし、全部移住後において改正するときは、北海道庁のみの承認を受くるものとす。
第16条 団体者各自本規約をこれ認し、これを履行することを誓い、しかるに記名捺印するものなり。 [6]
団長の統率力、自助共助の精神、そして高い倫理感──これらが開拓成功の要因でした。
【引用参照出典】
[1]『西興部村史』1973・西興部村・245-246p
[2]同上・245p
[3]同上・280-281p
[4]同上・82p
[5]同上・283-284p
[6]同上・281-283p
①西興部村公式サイト https://www.vill.nishiokoppe.lg.jp
②『西興部村史』1973・西興部村・280p
③同上