北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

 

幌延町中寒別

伊藤 儀三郎 

 

中間寒神社

伊藤儀三郎ら尾張団体によって建てられた「中寒別神社」

 
 
 

これまで南の方の開拓者を取り上げることが多かったので、北に飛んでみたいと思います。幌延町字中寒別はJR問寒別駅から道道583号を東に行った場所で上寒別との中間ですが、明治40年代に愛知県人によって開かれました。昭和49年の『幌延町史』に当時のすさまじい話が載っていたので紹介します。主人公の伊藤儀三郎については生家も、どうして北海道開拓を志したのかは伝わっていません。以下『幌延町史』からです。

 
明治40年、愛知団体の移住を計画して道内各地を物色していた伊藤亀次郎がこの土地の有望なことを知り、宗谷支庁へ出願した。当初の出願は30戸分であったが、支庁では1団体に30戸分は支障があるとして31万5175坪(104.18ha)の貸付許可を与えた。伊藤亀次郎は明治6年に愛知県海西郡鍋田村(現愛知県弥富市)に生まれた。
 
伊藤亀次郎はその帰途、瀬棚郡利別村に立ち寄り、愛知県から入地していた伊藤儀三郎や諸戸菊次郎、加藤乙次郎らにこの旨を伝え、これらと共に中寒別へ移住することとなった。伊藤儀三郎らが瀬棚にいたのは1年位で、この土地は小作地であり、かつ狭かったので、手広く機屋を営んでその職業がら道内をよく見聞して歩いていた亀次郎に、かねてから土地選定を依頼してあったらしい。
 
明治40年10月、伊藤儀三郎を団体長として、諸戸菊次郎、加藤乙次郎、牧村庄助、伊藤房次郎、平野辰五郎、加藤房次郎、加藤甚七らが入地した。1年とはいえ瀬棚で北海道開拓に経験のある伊藤儀三郎を長とする先遣隊が先に入地して、後続部隊のために準備する計画だった。
 
先遣隊は、開墾地には秋の末に入地し、冬の間に伐木して用意しておくと春の開墾蒔付がはかどるという伊藤儀三郎の提案で、愛知団体は10月鉄道の終点名寄までやってきた。ところが、荷物係が団体の荷物を持ち逃げしてしまったのだ。
 
寒さは日に日に増すが、そうかといって一冬宿屋住まいは許されない。一行は、ついに意を決して川船を雇い、故郷を出たときの着物のままで現地に入ったのは10月の末であった。すでに雪は1尺以上も積っていた。鉄道は明治44年11月3日には恩根内まで、大正元11年5月には音威子府までしか開通していなかった。それまではすべて終点から歩行と舟便によったのである。
 

JR問寒別駅と旧特急サロベツ号 (出典①)

婦女子は問寒別川口にあった家を借りて越年させ、屈強の男子たちは現地入りをしたが、居小屋を建てることもできない。ようやく付近の杣小屋をゆずり受けて越冬することになった。
 
布団は一家族にわずか1枚。壮年のものはムシロをかぶって夜中火をたき通した。荒れ果てた小屋である。吹雪になると炉辺だけ残して、外と変らないほど雪が積った。人々は席の雪を払って、新しく青木の枝を敷いて乾いた床をつくった。こうして無我夢中で春を待った。
 
春がきた──と、食糧が欠乏してきた。人々は雪の下に黒くなっているフキが食糧になることを知った。それからはフキにちょっと米をまぜて雑炊を食べた。と、こんどは塩がなくなった。ようやく外部と連絡がとれて、待望の荷物がついに川下まで来ていることを知り、背負って出ると、入地したときは雪の下に伏していたササが雪解けとともにみな立ち上がって背よりも高く、入地したときに1日かかった道が2日の道になったという。
 
愛知県の人たちの秋の着物がどれほどのものかは分かりませんが、道北の冬を越すに充分だったとは思われません。衣服のほか大切な生活用具も奪われたでしょう。みなさま、想像してみてください。そうした最低限の装備で極寒の原生林で8人の男が半年近い冬を過ごすことを!
 
それでも愛知団体は一人の脱落者(逃げることはできないので、命を落とさずにという意味で)を出さずに一冬を乗り切りました。伊藤儀三朗のリーダーシップがよほど優れていたに違いありません。
 
かつてペルーの鉱山の坑道崩落事故で32人の鉱員が地下200mの坑道で69日間を生き抜いた事故がありました。この時もリーダーが称賛されましたが、愛知団体の苛酷さはこれ以上でしょう。
 
愛知の人たちには失礼ですが、やはり雪の少ない西国の開拓団の失敗は多いのです。そうした中で中寒別の団体が開拓を成功させたのは、伊藤儀三朗の指導力、そして一冬の苛酷な体験で高めた団結力だったのでしょう。
 
部落民の連帯感が強く,これが長く続いて美風をのこした。
 
と『幌延町史』は述べています。尾張団体はその後、中寒別のまちづくりの中心を担いました。
 
翌41年には伊藤亀次郎をはじめ、尾内勝次郎、加藤宗助、平野粂八、伊藤新助、その後には平野吉之輔、伊藤徳三郎、伊藤留次郎らが移住、4線付近は愛知団体によって開拓の鍬が力強く進められていったのである。
 
明治の末には伊藤儀三郎が馬を入れて始めてプラオ耕法を行なった。明治44年には戸数も23戸となり、教育の必要から部落総出で板を木挽したり柾を割ったりして、基線35番地(いまの伊藤徳蔵の土地)に小学校を建設した。大正3年には4線に日置鍛治屋、大正5年に北川米蔵が雑貨屋、大正7年には伊藤儀三郎、諸戸菊次郎、加藤乙次郎が共同澱粉工場をはじめるなどして、4線付近は部落の中心地となった。
 
伊藤儀三朗は、北海道開拓のリーダーとしてはまったく無名ですが、町史にあるように馬を導入して馬産を始め、澱粉工場を建設して産業を興しました。また中寒別の組合長として学校建設でも中心的役割を担いました。
 
昭和に入ってからは問寒別産業組合の監事として若い世代の相談役となったようです。没年は不明ですが昭和35年に産業開拓功労者として表彰されていますから、開拓を全うし、幌延で亡くなったようです。
 
この開拓精神は息子に受け継がれ、次男の伊藤幸一氏は満洲開拓実験農家として満洲輿安東省布咽旗札蘭屯に入り、現地の指導員として活躍したそうです。しかし、終戦時の混乱で命を落としました。
 
伊藤儀三郎──地元の人でも知る人がいないと思われる開拓者ですが、このような多数の無名開拓者によって私たちの北海道が築かれたことを覚えておきたいものです。

 

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【出典】
『幌延町史』1974・幌延町町役場
【写真出典】
①幌延町HP >まちの観光>観光施設紹介>幌延町内の各駅ご紹介
http://www.town.horonobe.hokkaido.jp/www4/section/kikakuseisaku/le009f000001b9ca.html
 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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