北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[音更]出発の日 富山団体の渡道記

 
 

明治30(1897)年、富山県砺波郡山王村字矢部より、音更原野区画地6~8線・2~3線に25戸が入植しました。リーダーの田守太吉は、宮崎独卑と田村宗四郎と先立って渡道し、準備を整えました。一行は明治30(1897)年2月26日に伏木港を出発。十勝の大津港を目指しました。大津までの船賃は大人4円80銭(約18万4千円)、荷物1個30銭(1万2千円)であったといいます。以下は、『音更町史』(1980)掲載の「矢部の生い立ち」からの引用です。町史は「それは単に矢部の入植者だけが味わった労苦ではなく、当時の移住者のすべてが体験せざるを得なかった苦難の第一歩だったからである」と述べています。私たちの父祖の多くが同じ道のりをたどりながら北海道に渡り、そして私たちが生まれました。

 

音更の農村景観①

 

■別れの日

きょうは故郷矢部に別れる日、そして苦しくもあり、また楽しい懐かしいことも多かった故郷での生活の総てに終止符をうつ想い出の日である。
 
一家そのまま移住する人達は何十年か自分たちに雨露をしのがせて育くんでくれた懐かしい家の中で赤飯を炊き、出発を荷物の間で祝い合った。
 
若い男は結婚して渡道した。それは一家を形成しなければ1戸分5町歩の土地の貸付を受けることができなかったことによるが、こうした理由で即製の花嫁が幾人かできた。この花嫁たちは親のもとを離れると同時に故郷をも離れたのである。
 
伏木へ通ずる5里の道を移住者たちは悲喜こもごもの思いを胸に歩いた。もう3月も近いとはいえ、故郷の空はうすら寒かった。高岡が近い。後を振りかえってみると朝日に映えた立山連峰が白銀に輝いて美しい。砺波平野の空が焼きついたようにはっきりと頭にのこる。
 
どの顔も決意と希望にみちていた。もちろん見知らぬ土地へ行くための不安は隠せるものではなかったが、「やるぞ、きっとやる」という決意でそれを吹き飛ばすのであった。
 
親戚のあるものを除いて移住者たちは一夜の宿を放生津の寺に求めた。天井からさがった薄暗いランブの下で人々は内地とはいえ肌寒い2月の夜をうずくまるようにごろねじて明かした。
 

■日本海を北上

明けて26日、いよいよ乗船の日である。午前9時最初のハシケが沖に停泊している「奈呉ノ浦丸」へ向かっていた。

 

最後のハシケがを離れるまで送ってくれた人々は手を振り声を張りあげて別れを惜しんだ。海は朝から荒れており、ハシケから本船に乗りうつるための梯子のぼりも容易なことではなかった。
 
「奈呉ノ浦丸」は午後一時漸く出帆した。日清の戦に輸送船として活躍していたというこの船に乗客は船倉といわず甲板といわず溢れるほどであった。海は荒れ上下左右に揺れてはやくも船酔を始める者のではじめたころ、船は能登半島の七尾港へ入港した。
 
ここでさらに積荷した「奈呉ノ浦丸」は日本海を一路、十勝の大津港目指して出航したのである。
 
波は意外に高い。船酔いで生きた心地もしない人々は食欲のありようはずもなかった。朝とも夕とも区別のつかない毎日、灯火のゆれる暗い船倉で1日も早い上陸を願うだけだった。
 
伏木港を出て幾日目か、一行中の鷲北喜七郎の妻ヨキが産気づいたという報せが船内の移住者たちの間に伝わった。だが幸いにも船に同乗していたある産婆の手を借りて無事男子を分娩した。
 

■函館港

伏木港を出てから5日目の3月2日、船はようやく函館についた。ところがここでまた思いがけない問題にぶつかってしまった。それは、大津までと約束した「奈呉ノ浦丸」がこの先は航海しないという絶望的な知らせであった。
 
移民団は当惑した。このさきどうして十勝までの航海を続けるかという心配と、「奈呉ノ浦丸」の仕打に対する不満でいっぱいだった。
 
幸い午後になって大津ゆきの「後志丸」のあることを知り、交渉の結果、移住者たちはその船に乗ることができたが、ここで「後志丸」は定員超過。すかさず函館税関では臨検のハシケを出した。これをみた「後志丸」はあわてて港を出てしまった。
 
この「後志丸」の予期しない急な出港に田守太吉一家の半分は乗りおくれ、「奈呉ノ浦丸」の甲板上で途方にくれてしまったのである。
 

■大津港

函館を出港した50トン足らずの「後志丸」は3月4日、大津港に到着した。故郷伏木港をでてから7日目のことであった。
 
土の上こ立った移住者たちは体がフラフラしてなかなか歩けなかった。家も、道路もゆらゆらゆれている。
 
とある宿で一夜をあかした翌朝、食事を運んできたそこの親爺は誰にともなく
 
「誰かたよっていく人があるけの」
 
と聞いた。
 
「帯広の近くに故郷の人がいるんや」
 
茂古沼七が答えて会話になった。
 
「そうけ、んだばええがよ、越中はいつ発った」
 
「大将、おらあ越中だってようわかるな」
 
「それわからんで北海道の宿屋ができるかぇ、うん北海道へ来たからにゃ、一旗ふんばって挙げれでよ。中途で内地さ逃げて帰るようだば十勝川さ飛び込んでしまへでや──そうもいかんてやな。さぁ、姉さん方やさむいべ、豆腐汁を炉にかけてとくで、あったまれでや」
 
親爺は親切だった。言葉をさらについで激励もしてくれた。
 
「ゆうべは暖かいと思ったらきょうもまた海霧や、ことしはきっと作がええベえ。おめえだも元気出してふんばれでや、北海道さ来たからにゃ、故郷へ威張って帰れるようになるまでなんでもかんでもふんばれでやな。帯広までゆくんならワラジの4、5足もいるで、そこらで買って行くこっちや」
 
朝飯をすますと、移住者たちは男の買い求めてきたワラジをはいた。1足5銭(1900円)だった。男は青や赤の毛布、女はウダワラというダルママントのようなものを着て、下は男女ともに股引に白足袋だった。3月とはいえ北海道の朝夕は冷える。その鋭い寒さがモモヒキを通して痛いまでに肌をさした。
 

 

■拓植地に到着

北海道の雪は内地とは違って固まろうとしない。
 
「北海道の雪道はなんでや歩きにくいのう」
 
内地の道路ではかって経験したことのない困難さであった。移住者たちの疲労もひととおりではない。ワラジも何度かとりかえた。子供を背負って歩く女の足はなおワラジの切れるのが早い。
 
「ワラジ切れてしもたや、新しいのくれっしゃいや」
 
「ようきらすこっちゃ、1時間に1足じゃが1時間に5銭ずつかかるわ」
 
疲れた足をひきずるようにして一行はやがて三ノ小屋の駅逓へ到着した。数十人に達する移住者を迎えた駅逓の主人は慌て薪割りを始めるのだった。
 
この夜、せまい駅逓はいっぱいで横になる場所もない。囲炉裏の焚火に顔をあかあかとてからせて座ったまま夜明けを待った。
 
翌日はまた前日に倍する苦労を重ねながら歩いた。晩成社の軒並にようやく目的地へ着いたというよろこびもつかのま、途中まで迎えにきてくれた田守吉次郎たちに
 
「伏古はこれからまだー里ほど歩かなければならない」
 
と教えられ全身から力が抜けてしまいそうにさえなった。
 
ようやくめざす伏古へ着いた。何戸かの家がまばらに建っている。
 
「ここじゃぞ」
 
移民たちはよたよたとその小屋へ入っていった。そして挨拶もそこそこにぐったりと座りこんでしまった。
 
「おうおう、よう来たよう来た。今日あたりは着くやろう思ってけさから待ち続けておったんや。故郷の話も聞きたかったでなぁ」
 
待ちわびていたらしい宮崎独卑はそんなことをしゃべりながら、のび放題のひげを箸で持ち上げて酒をのんだ。
 
その夜、25戸の移住者は、この伏古の知人宅に落ち着き、郷里を発ってから10日ぶりの旅装を解いたのである。
 
一方で函館から後志丸に置き去りにされた田守太吉の家族は花咲丸に乗ったが、襟裳沖の荒波にたえられず寄港した日高の幌泉で下船。8日から12日まで雪のため閉じこめられたが、広尾から15日日方川、16日湧洞、17日大津、18日茂岩と歩いて、19日ようやく伏古村の武部宗三郎宅にワラジを脱いだ。
 

■土地の選定

伏古へついて真っ先にしなければならないことは、土地を選定して貸付を受けることであった。
 
すでに連絡で宮崎独卑はいまの矢部地区と、然別の中島、それに売買村の3地区を予定していたが、そのどれかに決めなければならない。
 
調査がはじまった。まず札内付近をみた。立木が太く開墾困難とみる。ついで芽室のビバイロ付近、この原野は残雪多くこの現状からみて低温地帯と断定。加えて25戸入地に必要な25戸分には土地が足りない。
 
続いて行なった調査では然別中島付近の原始林をいまの矢部地区と誤認。再度地形にくわしい人夫としてこの地帯の測量にあたった奥菊次郎に依頼。江波団体入地予定の7号までくわしく調査して帰る。
 
この結果最後に調査した土地を候補地として貸し出し出願の手続きに入った。4月17日25戸の貸付地が決定、抽選で希望の地番も決められた。
 
こうしてさらに厳しい開墾生活が始まるのです。
 
 
 


【引用参照出典】
『音更町史』1975・76ー80p(一部省略)
 ①音更町グリーンツーリズム『OTOFUKETIME』http://www.tokachigawa.net/otofuketime/about/

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