北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【八雲】尾張徳川家の北海道開拓 (2)

入植旧家臣 背水破瓶の決心

 

北海道開拓を決意した尾張徳川家当主徳川慶勝は吉田知行を北海道に派遣します。吉田知行らは道南の遊楽部川流域に広大な原生林を見つけ適地として復命。慶勝は即座に遊楽部への移住計画を決定しました。北国の暮らしも、農業も経験したことのない旧藩士に慶勝は何を求めたでしょうか?

 

■徳川慶喜 北海道開拓を決意する

明治10(1877)年10月、徳川慶勝は旧藩士救済のため北海道開拓を決意しました。徳川家に残る文章はこのときの決意をこう書いてあります。
 

愛知県旧名古屋藩士の年を追い頻りに貧困に陥る者多しをもって、旧藩主徳川慶勝深くこれを憂うるところにあり。まさにその就産の道を図らんとし、まずこのために第十一国立銀行へ5万円の持金を加入し、その利子をもってこれを費用にあてんと保す。しかししてその方法の規図するにあたり、これを北海道に移し、開墾に従事せしめは上は皇国の交易となり、下は士族の恒産を起こすにたるべきを以て遂に義を決す(1)

 
これは平成17(2005)年に出版された高木任之著『北海道八雲村の開墾』からの引用ですが、これは高木任之氏が東京の尾張徳川家に残る「八雲史料」を解読したものです。高木氏は尾張藩移住者の子孫で、八雲高校から建設省に進みました。退官後、徳川林政史研究所に保存されていた八雲関係文書の研究に取り組まれています。
 
さて、この文書を見れば慶勝にとって北海道移住は、単に旧藩士の救済だけではなく、明治という新しい時代を迎えた日本に貢献するできる道であったことがわかります。このために5万円という当時としては巨額な資金を出資しました。この5万円を現在の金銭価値に直すと24億相当の金額となります。数字の上からも徳川家がこの事業にかけた決意がわかります。
 

徳川慶勝①
北海道開拓が始まった明治12年に撮影された写真

 

■吉田知行の北海道探査

徳川家として北海道開拓の意志決定を行ったのは明治10(1877)年10月ですが、慶勝はこの3カ月前の明治10年7月、家臣の吉田知行を北海道探査を命じ、入植適地を探させました。吉田の調査には角田弘業と片岡桐助が同行しています。
 
吉田知行は天保14(1843)年(1843)12月生まれ。尾張徳川家の家臣として御馬廻組、御小納戸、御小性頭等を努めた後、幕末維新には側用人・軍事懸の要職にあった慶勝の側近中の側近です。八雲に徳川農場が拓かれてからは開墾委員として八雲に在住し、開拓の基盤を築きます。その後、主家に呼び出され、愛知県長久手に戻り、明治39(1906)年には長久手村初代村長となりますが、晩年病身をおして再び北海道に渡り大正2(1913)年5月に71歳で八雲において亡くなりました。
 

吉田知行②

 
角田弘業は、天保5(1834)年11月生まれ。御馬廻組、留書頭などを歴任し、維新時は東方総管参謀の要職にありました。吉田知行とともに北海道調査し、翌年に弟の弟彦とともに移住、開墾委員として八雲開拓の基盤を築きます。
 

角田弘業③

 
片桐助作は嘉永4(1851)年5月生まれ。調査後も函館に残り、移住者のための住宅用材の確保など準備を進めます。調査後に名古屋に戻りますが明治17(1884)年10月、徳川農場の幹部として北海道に移り住み、農場の発展に貢献しました。
 

片桐助作④

 

■当時の遊楽部

明治2(1869)年、北海道開拓を統括する役所として開拓使が置かれましたが、開拓使だけでは北海道・樺太の経営は困難であるとして、各省庁・大藩・寺院などに道内各地を分割統治させ、中枢部分を開拓使の直属としました。後に八雲となる山越郡は明治2(1869)年9月兵部省の管轄となりましたが、翌年斗南藩の支配に移ります。しかし、廃藩置県とともに斗南藩は廃止となり、山越郡は函館出張開拓使庁の管轄となりました。
 
吉田知行は、札幌以南の渡島半島全域を3ヶ月に渡り詳細に踏査して10月に帰京。そして胆振国遊楽部を適地とする復命書を慶勝に答申しました。
 
若林功著『北海道開拓秘録』(1949)はこの頃の遊楽部地域を次のように紹介しています。『北海道開拓秘録』は北農中央会の前身である北海道農会に勤めていた若林が道内各地の開拓功労者に取材した農会報連載をまとめたものです。
 
遠く文化の頃に松前氏が亀田の関所を移して蝦夷地との境界とした場所で、明治2(1869)年に開拓使出張所が置かれたが、当時はアイヌ30戸と和人10戸位いて、海浜から2里の奥に殺人犯の工藤喜三郎なるものが数年前から妻子とともに人目を忍び隠れて、農民とは名のみの原始生活を営み、その後は金太郎のように熊の子を唯一の友達として遊び興じたと言われるその一家があったのみで、鬱蒼たる森林に覆われた海浜であった。(2)
 
八雲は遊楽部川の河畔に広がる豊かな地ですが、この当時海岸部にアイヌの人々と和人の集落があっただけで、逃亡者が隠れて住む内陸部は原生林だったようです。
 

■徳川家開墾試験場の設置

遊楽部川流域に広がる八雲は道南地域には少ないまとまった平野です。明治10(1877)年、まだこの時代には原生林が生い茂るだけの場所でした。道内では比較的温暖で札幌と函館の中間、海にも近く海路も利用できる。吉田知行は他には考えられない、他に奪われる前にすぐにご決断をと強く推したのでしょう。吉田知行が10月に帰京すると慶勝はすぐに移住を決定しました。
 
事業計画をさらに煮詰め、翌明治11(1878)年5月、慶勝は山越郡遊楽部の150万坪(約500ha)の国有未開地を無償貸し下げするよう開拓使に申請しました。当時の開拓使長官は黒田清隆。慶勝の申請は1カ月後には許可されました。
 
こうして徳川慶勝は、遊楽部に土地を確保しましたが、藩士たちは雪国の暮らしはもちろん、農業の経験すらありません。事業の成功はまったくの未知数。そこでまずは「徳川家開墾試験場」というかたちで、旧家臣の中から決意の固いものを選んで試行的に北海道に送り込むことになりました。
 

■入植士族が結んだ「郷約」

徳川農場の成功も失敗も、この者たちの頑張りにかかっています。慶勝は、北海道行きに名乗りを上げた者たちに「郷約」を結ばせて不退転の決意を求めました。この「郷約」は徳川農場の憲法のようなもので、移住者たちがどのような気持ちで北海道に赴いたかよくわかります。全文を示しましょう。序文と第1条には、北海道開拓にあたっての決意が示されています。
 

従一位公至厚の御恩慮より吾輩北海道に移住開墾試験に従事する上は毫末も御主意に違背せず奮発勉強終始一貫、上は皇国の利益を図り、従一位公植民御方法の端緒を開き、下は諸有志の目的となり、自家の産業を起こし、家名を無窮に保存し、頃刻も御殊偶に報酬する所以の道を忘却すべからず

 

一 移住の上は相互に団結、北海道を墳墓の地と定め顧後の念慮を断つべし。家物など必需の品は持ち越し、無用の器は売却し背水破瓶の決心を第一とす(3)

 
先祖伝来の名古屋の地を捨てて北海道に永住の決意を求めるものですが、旧尾張藩の重臣であった吉田知行が晩年に八雲に戻ってこの地で亡くなったのもこの約定を守ろうとしたからでしょう。北海道に渡ろうとする尾張藩士たちの並々ならぬ決意が伝わってきます。
 

一・移住人の内学力ある人を依頼し、日並を定め講席を開き、人道を研窮すべし

 

一・学校を起こし、子弟を教育するなかるべからず(4)

 
決意に続く2条に「教育」を置いたところに、アジアの一小国であった日本が世界有数の先進国に発展していった理由を見る思いがします。
 

一・各伍はもとより移住人一同父子兄弟のごとく相親睦し、御主意に違背する等の事あるに当たっては相互に忠告し、懃難疾病相救助し、一毫も随意あるべからず

 

一・移住地において熱田神宮の分社を建築し、敬公の神霊を合祀し、移住人の氏神とし協力、春秋の祭典をなし、敬神報本の道を守るべし

 
旧藩主徳川家への忠誠の元に一致団結することが求められています。熱田神宮は徳川家康が戦勝祈願を行った社で、尾張徳川家によって庇護されてきました。「敬公の神霊を合祀」とは、このときはまだ存命でしたが、徳川慶勝が亡くなったら合祀してお詣りするという意味で、明治19(1886)年に創建された「八雲神社」は全国初の熱田神社の分社となりました。大正15年には徳川慶勝の合祀も行われています。
 

徳川慶勝御霊社⑤
明治16年8月に慶勝が亡くなると社を建てた祀った

 

一・地券状を受領し、独立自主の民となるとも、従前の無産困窮の時を忘れず、節倹を旨とし、なお条例郷約を確守し、いたずらに他の工業商法をなしあるい転籍移住等なすべからず。

 

一・積金条例ありといえども、艱難疾病相救助するにおいては平素遭難の念を絶たず、協議をもって貯金の増加に注意すべし

 

一・拝借金15円5カ年賦の条例なれば、減縮すべからずといえども、各自産業相立たる上は、別に報酬の挙げざるべからず。しかししてその地出産の物品多少を論ぜず献納の方法を設くべし

 

一・恒産に従事し、余りかあるにかに当たっては各自随意といえどもも農業養蚕製麻牧畜に属する工業の外、欲しいままにすべからず(5)

 
倹約に努め、農業に専心することを求めています。移住に当たって徳川家から資金として15円(現代換算71万円)を5年に渡って貸し付けることになっていました。この資金を返済した後も主家への恩返しとして献納を行うことを誓っています。
 

一・欲しいままに旅行するを許さず。一泊以上は伍長に事故を具陳し、委員の許可を得て出発すべし

 

一・家物運送については、宰領に員を依頼する上は協議をもって多少の謝議をなすべし

 

右確守すべし。もし違背のあることあれば一伍はもとより移住人一同深切に説論匡救すべし。その上でも悔悟せざる者は破廉恥の人にして倶に齢すべらかず。条例の処分を委員に申し出るべし。(6)

 
厳しい生活制限、約定への遵守を求めています。この徳川農場の「郷約」は後の屯田兵制度に大きな影響を与えました。
 
明治11(1878)年5月、この厳しい「郷約」に吉田知行以下54名が署名。翌明治12(1879)年、第1回移住者22名が名古屋を発ちました。
 

八雲開拓に活躍した徳川農場の若者たち⑥
明治19年頃の撮影。尾張藩士族の血を受け継ぐこの若者たちが八雲を拓いた

 
 

 


【引用出典】
 
(1)高木任之『尾張徳川家による北海道八雲村の開墾』2005・自費出版・16p(一部漢字とカタカナを平仮名に改めた)
(2)若林功『北海道開拓秘録 第1編』1989・財団法人月寒学園・95
(4)(5)(6)(7)高木任之『尾張徳川家による北海道八雲村の開墾』2005・自費出版・45-47p(一部漢字とカタカナを平仮名に改めた)
  ①②③④⑤⑥徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』2014・吉川弘文館 
 

 

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