西田天香──失われた北海道のピューリタニズム

六万行願(便所掃除)姿の天香夫妻(出典①)
二十歳にして「必成社」を立ち上げ、栗沢を開いた西田市太郎は、製麻事業に失敗し北海道を去ります。その後、京都で赤ん坊の鳴き声から大霊覚を得て、今も続く社会奉仕団体「一燈園」を立ち上げます。西田の活動は当時のさまざまな人たちに影響を与え、西田自身も天香と呼ばれるようになります。西田が天香として追い求めた思想こそ、北海道開拓の精神、北海道のピューリタニズムそのものであったと思うものです。
■市太郎、資本主義の現実に敗れる
先にお届けした「北海道開拓秘録ー栗沢村必成社の開拓事業」には続きがあります。20歳で必成社を立ち上げ栗沢に入植した西田市太郎についての補足です。
必成社の開墾物語を終わるにあたって、その中心人物たる西田市太郎こと西田天香のことを聞くに任せて少し書く。
西田市太郎は今では「一燈園」及び東栄荘の天香先生としての方がよく知られている偉人である。幼くして神童と称せられ、若い時から老成的な頭脳の所有者で、談座に巧みで、人付き合いがよく、本事業の関係の出会った大越知事や園田北海道長官に特に愛され、当時の有力な人々や学者とも深く交わった。
21歳で北海道で理想郷の建設を志し、開墾時代は筒袖パッチに身を固めて、自ら馬を御し、プラウを手にして、未明より明け方まで満身の元気を発揮して開墾に従事し、労働ばかりではなく日常生活も皆小作人と同様にして身をもって範を示し、人心の鼓舞激励に血の滲む努力を続けた。
中途、製麻事業を企て、また鉱区も数十区所有したなど、事業欲も相当濃厚である。極めて純真でかつすこぶる情熱家で、加わるに理性に富み、理想に生きんとする人であった。
彼は小作人も企業主も共に権利とする当然の報酬を得て、良い農場経営をして、みなが満足した生活を遂げるはずだとの固い信念があった。
しかし、実際にやってみると資本主義経営の困難なる実情が見せつけられて、これを理想化せんとして苦心惨憺、精神的に悩みぬいた末、利息の存在を疑い、銀貨を道中に埋入して若干時間の後、利息が生じたかを実験した[1]。
美しい理想を抱いた青年は、必ずしも優秀な経営者では無かったということです。銀貨を土の中に埋めて利息が増えるかどうかを試したという逸話は、事業のために借金に追われた苦しみを伝える話ですが、資本主義経済という社会システムが立ち上がって間もない頃の空気も感じさせてくれます。
■京都山品につくられた理想郷──一燈園
さて理想に敗れ、失意のまま北海道を後にした市太郎は、京都において西田天香として知る人ぞ知る人になっていくのです。
かかる苦悩を逃れるためであるが、一時製麻業に身を避けたが、これも失敗してついに内地に引き上げ、30歳の頃から一燈園の事業を始めたのである。
彼は北海道を去って、精神方面の研究修養に専念し、長浜の舎那院という禅寺に二晩参拝した朝、赤ん坊の泣き声を聞いて俄然として悟りを開いた。
赤ん坊は本能的に要求を訴え、母はこれに応じて授乳し、赤ん坊の要求は満たされる。そのあいだ何の邪心もなく、利益の争いもない。然り、懐疑は氷解した。
彼は寺を出て、道すがらの人家に流し尿に米粒を発見し、これ飢えを充たすべく彼に与えられたものとしてこれを拾った。次にある家の便所の不潔なのを見て掃除し、その家の主人は感謝して食を振る舞った。また他の家の庭を履いて朝食を振る舞われた[2]。
これが現在も活動を続ける社会奉仕団体「一燈園」の始まりです。京都山品にある一燈園の本拠は、幼稚園から高校までの学舎、修業場や関連会社が軒を連ねる一大拠点となっています。一燈園については、一燈園自身の説明によると次のようなものです。
一燈園は、1904(明治37)年、西田天香(以下、天香さん)によって創始されたもので、自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされるという信条のもとに、つねに懺悔の心をもって、無所有奉仕の生活を行っているところです。
「一燈園」の名は、天香さんと親交があり、その最初期において一燈園生活の可能性を看破した宗教思想家、綱島梁川氏(1873~1907年)の著書に因むものです。
今一燈園では、京都市山科の一角で(京都市山科区四ノ宮柳山町)、天香さんに触れた人達を中心に自然にひとつの家庭のような共同体を形成し天香さんの示された奉仕(托鉢)の生活をしています。(中略)
平和の願行として六万行願というお便所掃除の奉仕を約一世紀にわたって続けることにより、懺悔と下坐からの建て直しを祈っています。願行に深浅の差はありましょうが、老若すべてが懺悔報恩の心を持って捧げた働きをし、それぞれの能力に応じて働き、必要に応じて恵まれる自然にかなった生活の成就を念願しているのです。[3] 『一燈園公式サイト』https://www.ittoen.or.jp
■市太郎、赤ん坊の泣き声に大霊覚し、天香となる
『栗沢町史』は、西田が離れた要因ともなった製麻会社の経営失敗について紹介しましたが、一燈園の説明によると、西田の離道にはもっと複雑な背景があったようです。
天香さんは、1872(明治5)年、滋賀県長浜の商家に生まれました。二十歳にして長浜地方の小作百姓農家を率いて北海道に渡り、500ヘクタールの土地の開拓事業に従事。その将来は事業家としても大いに嘱望されましたが、開拓事業をすすめる中で起こった資本主(出資者)と現地耕作者との間に生じた利害の対立、争いに直面して、天香さんは大いに苦悩し、開拓事業そのものを他人に委ね、人間としての争いのない生き方を求めて求道の日々を重ねたのでした。
そして、とうとう「争いの因となるものは食べまい」と決意し、三日三晩の断食籠坐の果て、赤ん坊の泣き声を耳にして大霊覚、そこに争わずとも恵まれる食があること、生命の原点を見出し、世にいわゆる「一燈園生活」を創めたのでした。
それは、無一物・路頭を原点としての懺悔・下坐の奉仕、許されて生きる「托鉢」の生活でした。その事実に立って1921(大正10)年、『懺悔の生活』が出版されるや、天香さんと一燈園の名は一挙に世に知れるにいたり、多くの人が道を求めて天香さんのもとに集まるようになります。倉田百三、尾崎放哉といった当時を代表する文化人も一燈園生活を送ったことで知られています。
1929(昭和4)年には、京都の山科に財団法人として認可された財団法人懺悔奉仕光泉林(現、一般財団法人懺悔奉仕光泉林)を創設しました。戦後は1947(昭和22)年の参議院選で当選。一燈園生活者にさまざまな導きを残し、昭和43(1968)年2月29日、96歳をもって帰光(逝去)しました。[4] 『一燈園公式サイト』https://www.ittoen.or.jp
このように栗山を出た西田市太郎は京都で仏教を開いた釈迦その人のような生活をおくりました。このことが知られるや全国的な反応を呼び、支援者たちによって社会奉仕団体「一燈園」がつくられるのです。そして西田市太郎も西田天香と呼ばれるようになりました。
■西田天香の一番弟子が創業した「ダスキン」
天香さんが無一物、無所有、無尽蔵の一燈園生活を始められて100年余り、最初は一人だった天香さんの一燈園生活は、たくさんの追随者、賛同者、縁者に恵まれ、真に争いのない平和な世界を希求する大きな潮流へと育ってゆきました。[5] 『一燈園公式サイト』https://www.ittoen.or.jp
この賛同者の一人にダスキンの創業者、鈴木清一がいました。鈴木は明治44年、愛知県碧南市に生まれ。昭和13年に一燈園に入り、托鉢求道の生活におくります。一燈園の托鉢生活では人の嫌がるトイレの清掃などすすんで行いますが、ダスキンが清掃用品の会社として立ち上がったのは、一燈園の経験があるからです。
鈴木清一は西田天香の旅行に随行するなど一番弟子として活躍しました。戦後、鈴木はダスキンの前身であるケントクを創業。「『道と経済の合一」を願う祈りの経営を生涯追求』しました。
市太郎時代の西田天香が栗沢時代に果たせなかった起業家としての夢を、見事に実現したのが鈴木清一ということができます。
■西田の光明祈願──北海道開拓のピューリタニズム
「北海道開拓秘録」を著した若林功氏も西田に生き方に強く共鳴したようです。天香となった西田の思想を次のように紹介しています。
彼は「大木は自らの力で倒れる。所有が多なるほど、要求が大なるほど、己を苦しめることが大きいのだ」と考えて自分の所有要求をゼロにした。
英国の文豪カーライルが「実数0=無限大」なる数式から、自分の所得をゼロにすればその報酬は無限大だと説いているが、古来これを実際に行なった人は、キリストと釈迦といった人くらいのものであろう。
天香はカーライルを知っていたかは別として……かくのごとく己の要求をゼロにして、なおよく生を保ち、無限の精神的享楽を感じ、如実にカーライルの学説の真理を裏書きした。彼の多くの同志と共に浸っている現在の境涯は、この延長拡大に他ならぬ。
世人は天香は事業に失敗した反動で精神生活に入ったというが、彼は先天的に純真で、たまたま事業失敗が精神生活に入る契機を与えたに過ぎない。おそらくは必成社は彼に大きな道場を提供したのであろう。
必成社は、偉人天香が理想郷の建設を目指した、本道開拓事業に一異彩を放つ一大事業であったが、道半ばで彼が退かなければならなかったことは遺憾の極みである。しかし彼の精神的感化と遺訓とはどこかに潜在しているだろう。クラークの北大におけるが如く
それにしても彼をして必成社に踏みとどまって、理想の実行に努力を続けさせ、上手くいけば理想郷がアメリカのピューリタンのようにできたか、できなくてもいかなる実行難があるかの有益な拓殖資料は得られたであろうに……。[6]
西田は市太郎時代に、理想都の建設を夢見て何もない北海道の原野に分け入り、敗れて北海道に渡りました。そして天香となり、日本でも最も古い歴史持ち、すべてにおいて恵まれた京の都で〝何ももたない生活〟をはじめます。
何もない中で多くを求めた栗沢時代、恵まれた中で何もない暮らしを求めた京都時代。西田にとって栗沢と京都はネガポジ反転の関係だったことがわかります。
両者に共通するのは無の中に新たな価値を切り拓こうとするフロンティアスピリットです。後年、西田天香と呼ばれるようになった崇高な精神は、市太郎と呼ばれた時代に北海道開拓のうっそうたる原生林で磨かれ、鍛えられたものであることは間違いありません。
おそらく西田にとって一燈園は20代の時に北海道に渡り夢見た理想の実現だったのでしょう。そう考えれば、西田天香の一燈園も北海道開拓が産み出したもの、西田が一燈園生活の基本として定めた5カ条の光明祈願は、若林功が言うように、アメリカのピューリタニズムに代わる、ついに私たちが見ることのできなかった、北海道開拓の精神であったかもしれません。
【引用出典】
[1][2][6]若林功『北海道開拓秘録』1949・月寒学院 44−55p
[3][4][5][7]『一燈園公式サイト』https://www.ittoen.or.jp
【写真出典】
①『一燈園公式サイト』https://www.ittoen.or.jp