大正8年 小樽商業 釧路─小樽420㎞踏破
2020年の東京オリンピックのマラソン競技の会場が札幌に決まりました(正式決定ではありませんが)。北海道にとってとても喜ばしいことです。そこで今回は少し趣を変えて、フライング気味ではありますが、オリンピックを記念し、大正8年に小樽商業学校(後の小樽商業高校・現小樽未来創造高校)の生徒たちが敢行した釧路ー小樽420㎞踏破という話題をお届けします。
この踏破により自信を高めた樽商生は、大正11年の全国中学対抗陸上大会で総合優勝。日本の陸上界に衝撃をあたえました。小樽への対抗心から札幌でも陸上競技が盛んになり、世界的アスリート南部忠平を産み出す背景となります。以下『小樽商業100年物語 ONESTA 君よ 正直であれ』(2014)からの引用です。
現役ランナー樽見先生の指導の下

樽見義一先生
大正8年8月3日の『小樽新聞』は「長駆釧樽間を蹴破すべく庁商五選手出発す」という見出しで、スタートの模様を伝えている。
「樽見教諭外、野坂、畠山、米田、橋本、五名の庁商徒歩隊は、釧路運動倶楽部員、支庁吏員、中学校生、その他区有志、約百名のフレー、フレーの凄まじい応援の声に送られ、吉井支庁長がスクートを切り、二日午前六時十分釧路公会堂前を出発した」
8月2日に釧路を出発した本校チームは、白糠、池田、帯広、新得、富良野、旭川、深川、砂川、岩見沢、札幌、小樽と進み、14日間でおよそ420kmを走りきった。
舗装路が当たり前の今日の道ではない。北海道で主要道の舗装が進んだのは戦後も昭和40年代のことだから、大正8年のこの時は市街地であっても未舗装。まして郊外には獣道と変わらないところもあった。実際に草を踏み分けて進んだルートもあり、膝のあたりまで露に濡れ、これが原因で足が腫れて野坂選手が途中で脱落し、回復して再び加わるということもあった。
富良野山部ー上富良野間では、水田の水があふれて道路が川のようになり、腰のあたりまで水浸しになって、チームは手を繋ぎながら渡ったという。
一行を率いた樽見先生はまだ30歳。自身が先頭を走って生徒を引っ張った。予定していた区間を午前中に走り、午後を休息に当てる。マネージャーの近藤氏が宿の支払いを済ませると、汽車に先乗りして、次の目的地の役場や青年団に連絡し、準備をお願いした。
この走破は、陸上部の強化とともにまだ開校して10年が経たない本校を全道にアピールする目的もあったようだ。若者たちの壮挙は、全道的な注目を集め、行く道々で大いなる歓迎を受けた。深川などでは花火を上げて歓迎したという。
しかし十勝では、ランニングシャツ姿で息を切らせながら走る異様な一団を見た住民から、監獄から逃げた囚人として通報される一幕もあった。

小樽商業学校徒歩部
意気だ。意気が私共にこうさしたのだ
あちこちで開拓の槌音が響いている北海道を縦断し、生徒たちはいよいよゴールの小樽に向かいます。
走破チームの一員、3期生の野坂留蔵氏が『樽商』第4号に、この時の様子を詳細に書き残している。8月15日、札幌ー小椿間を残すだけになった最終日の記述である。
今日は最後だ。
今日一日で百二十有八里は走破せられるのだ。そう恩うと心は何となく浮き立つ、と同時に心が緊張してくが部屋の中が薄明る<見え出した。昨日の来し路、今日の行く手のことがおぼろげながら頭に浮かんでくる。小樽に着いたらとうだろう。私共ばかりではない。小樽で首を長くして待っている彼等は喜ふだろう。そして喜し涙に私共は湿るであろう。
上ったり下ったり、張碓に達した。道はここからますます急になるのだ。小石を避け、道を選んで走った。脚は上がらなくなる。息は切れる。頂上はまだ遠い。ここが頂上だと思えばまだ上がある。小樽に待つ友のことなと恩うとひとりで足は動く。けれども長くは続かない。
朝里に入ると雨が降ってきた。
今日は最後の日だというのに足は滑る。身体は寒い。石を踏む。しかし、沿道には傘をさして僕等を迎えてくれる人が多かった。こうしたことは今日までいくら示されたかわからない。日はちょっと姿を見せてくれた。張碓にはたくさんの人が迎えていてくれた。その中には長田君も来ていた。彼等は今日のこ日を指折り数えて待っていたのだ。
小樽に入ると、街は雨で上滑りがする。人垣の中を万歳を浴びて駈けた。公園通りも常より容易のようであった。三町、一町、十間、おう、もう終点を踏んだ。釧路と小樽を結んだ。完全に釧路と小樽を結んだ。釧路・小樽間に私共の足跡が印せられたのだ。折れてもと言った足はまだ折れなかった。
意気だ。意気が私共にこうさしたのだ。この意気があったから小樽の地を踏み、この壮挙をなし得て、目的を達したのだ。意気……意気の前には何ものもない。意気は何にものも打ち砕かねばやまぬ。
私ともを援助してくださった大なる力の集合が集合がこうせしめたのである。大なる感謝をこの力の集合に捧げます。
北のスフィンクス小樽商 全国大会総合優勝
小樽商業の北海道横断走破は全道的な注目を集め、陸上部に強い自信をあたえました。この翌年、樽見先生は小樽を去り、新潟県の新発田中学(現県立新発田高校)に転任しましたが、鶴見先生の蕉陶を受けた生徒たちが、全国で躍動します。

全国大会で優勝し神宮外苑を行進する小樽商徒歩部選手
大正11年10月、東京駒場の農大運動場で開催された全国中等学校対抗陸上競技大会に本校は主将・近藤勇、副将・畠山ニー三、長井一栄、橋本清治、米田隆吉、松波辰次郎(以上6期)、新田十郎、竹崎徳繭(7期)、岡田三郎、金田幸一郎(8期)のメンパーで出場した。
樽見先生のいないチームを、2期の木種金三氏が付き添い監督となって率いた。
当時は北海道予選がなく、北大で開かれた運動会に招待され、札幌師範に負けたものの、中学生ながら健闘したことで全国大会への出場が勧められたものという。
競技では、走り高跳びで橋本選手が1m60cmを飛び1位になったことでチームが勢いづき、砲丸投げで畠山選手が3位、400mリレーでは13得点を獲得。続く800mリレーでは、暁星中学の下馬評が高かったが、本校のトップランナ一畠山選手が暁星中学の選手を追い抜いて独走、そのままバトンを受け渡し優勝した。他の競技でも順調に得点を重ね、本校は初出場ながら第1部低勝の栄に輝いたのである。
この時、本校が獲得した点数は61点。2位の新潟中学(現・県立新潟高校)が33点、3位東京の暁星中学(現・私立暁星高校)が22点だったことを見ると、本校の成績がずば抜けていたことが分かる。
関東、関西の強豪校を中心に争われていた中等学校陸上に突如として北方から新星が現れたのである。本校の優勝は全国の驚きを誘った。
大正11年10月14日の報知新聞は次のように伝えている。
十一日、十二日の両日、東京駒場の農大運動場で催された全国中等学校対抗陸上競技大会に小樽商業が第一部で優勝し、札幌師範が第二部で第三位を占めたことは、埼玉師範、新潟師範、新潟中学等の善戦と共に少なからず東都連動会に脅威の焦点となった。
今回の如く遠く北海道から二校が押し並んで攻め上ったことは従来例を見ざる所であった。特に小樽商業は、2位の新潟中学と3位の暁星中学との得点を総計してもなお6点を勝ち越しているというにいたっては、初めて東都の競技界に出現しただけに小樽商業が斯界から一つのスヒンクスだと見られたのも当然である。
この小樽商業の活躍が小樽に対して強い対抗意識をもつ札幌を刺激し、北海道が生んだ世界的アスリート、北海中学の南部忠平選手を産み出す背景となります。
【引用出典(写真とも)】
『小樽商業100年 ONESTA 君よ 正直であれ』2014・北海道小樽商業高等学校・84−87p