[士幌町百戸] 蕗(ふき)に食べられた麦
北海道ではアイヌ語地名ばかりが話題になりますが、もちろん開拓に由来する地名もたくさんあります。十勝管内士幌町「百戸」は、士幌町の北部、上士幌町との中間に広がる農耕地帯です。熊本県人に解放された百戸分の開拓地でしたが、実際に入植したのは岐阜県の5戸でした。一体何があったのでしょうか? 『士幌村史』(1962)よりお届けします。

■失敗した開拓を引き継ぐ
明治36年5月、熊本県人松本清三郎が中士幌原野タンネップ、幹西1線23号から32号までの未開地の無償貸付を受けた。タンネヌップはアイヌ語「タンネ・ヌプ」のことで「長い野」の意である。
音更川に沿いに東に55戸分、西に45戸分、計百戸分(500町歩)あったところから「百戸」または「百戸分」の名が出た。
この「百戸」の地は、開墾されないまま岐阜県武儀郡中有知村(現:岐阜県関市)出身の中田宮五郎と西部民太郎に讓渡されて何年かが過ぎた。
それより先、明治33年、武儀郡菅田村(現:岐阜県関市)出身の星屋理助が、近くの鈴木農場(農場主は岐阜県人鈴木有三,今の音更町追分付近)の小作人として入殖していた。
やがて星屋理助は郷里に移住勧誘の手紙を出し、その長男理八が同志を募ったところ、計16戸の賛成者がまとまった。
16戸は、それぞれに移住手続をすませ、郷里から青森までは汽車、函館を経て釧路までは汽船、帯広まではまた汽車で10勝国にはいった。帯広着は明治39年4月16日であった。
一同は帯広町大通4丁目に家を借り、男たちは移住地を求めて歩き廻ったが、これぞという土地はなかなか見当らなかった。ここのところがはっきりしないが、一同は「百戸」を一応の移住先として手続きをとり、実際にはより条件のよい土地を探したものであろう。
だが、そういつまでも居食いはできない。そこで16家族のうち、長瀬金弥、波多野小三郎、藤村要助、長尾貞助の4戸が、星屋理助の案内で百戸に入地することになった。
星屋の家と美濃開墾の小川市太郎の家を基地にして小屋掛に着手したのが4月26日。小屋は5月5日に完成、家族たちは7日に入居した。
星屋を加えた5人が1戸分40円ないし45円の価格で分割購入したが、同時に1戸当り5町歩の未開地の無償貸付を受けた。民有地を買っただけなら「移住民」としての恩典がないはずであるから、この未開地貸付出願を眼目として手続きをとったものであろう。
※入植者に貸し下げられた植民区画は原則として転売は禁じられていました。ところが長瀬金弥らは熊本県人松本清三郎が貸付をうけ、投げ出した植民区画を買いとったようです。禁じられていても、いろいろと抜け道があったのでしょう。
なお「美濃開墾」とは明治31年に士幌に入植した「美濃開拓合資会社」のことです。士幌の開祖であり、いずれ紹介したいと思います。
■5年の期限を3年で
この地域の開拓初期の特性は、成功期限が短かかったことである。分割購入した土地は明治36年の貸付であるから、その期限は約3年より残っていなかった。開拓の労苦16年の貸付であるから、その期限は約3年より残っていなかった。
通常5年かかって開墾するところを3年で成功させようというのであるから、その苦労はなみなみでなかった。しかも、見渡す限り音更川ぞいの樹林地帯である。
伐木したものを積みあげて焼くのが普通であるが、枝をおろし、その枝を根のまわりに積んで火をつけ立枯れにする場合もあった。
人手不足のため請負仕事で頼むこともあったが、1本始末する手間賃は15銭であったという。馬耕を頼むと反当1円ほどかかつた。新墾地は4頭曳、再墾地は3頭曳のプラオでおこし、整地には木のハローを使った。入地初年は馬鈴薯、イナキビ、長ウズラなどの食料を作り、しだいに販売作物に手をのばした。
初期の衣類は、そのことごとくが自製もしくは古着であったが、これは各地に共通した風俗であった。男は膝までの着物に股引をはき、裏を幾重にも厚くして木綿糸で刺した足袋に脇絆(きゃはん)をつけて畑に出た。女はモンペに手甲という姿であった。
冬になると、半袖で腰までの綿入れを着こみ、足には赤毛布(赤ゲット)を巻き、トウモロコシや藁(わら)で作った「つまご」をはき、頭には6尺ほどのフランネルをかぶり、その余り布を首筋に巻きつけて伐木作業などを行なった。
食生活にも苦労か多かった。味噌、醤油は2年目から自製するようになったが、初年は塩だけであった。イナキビ・馬鈴薯・麦を主食としたが、野菜かないのでもっぱら野草を食べた。
「久しく野菜を食べていないので、雪がとけるのを待ちかねてフキノトウをとり、焼いて塩をふりかけてロにいれたら、にがくてどうにもならなかった」という話が残っている(長瀬健市談)。蓮音更川には魚が多かったが、開墾に追いまわされて、なかなかとるひまがなかったという。
■百戸の人たちは越年に全部死ぬだろう
帯広市街から北上して、美濃開墾で人家はなくなる。それからさらに奥へ2里、大樹林のただ中に入地したのであるから、生活の不便は予想のほかであった。
西部重助の表現を借りると「移住当時は交通も不便につき、原始林でまるで狐の牧場のようなもので、狐は毎日夜昼なく屋敷まわりをうろついて、たまには家の中まではいり込んだ事もありました」といった状態であった。
最初の住宅は、1間半に2間ぐらいの拝み小屋であった。丸太を土間に並べ、その上に草をしき、そのまま上に筵(むしろ)をひいて寝起きした。中央には炉を切り、自在鉤に鍋をかけて煮炊きし、暖をとった。もちろん、屋根裏は黒々と燻し上げられ、風の日などはすすがとこかまわず落ちてきて困ったという。吹雪の夜は、布団の上に雪が積もるので、寝具のその上に筵をかけて眠らなければならなかった。
『波多野銀市聞書』によると「明治39年8月、いよいよ食料が底をつき、父の小三郎と長瀬金弥の2人が帯広まで麦を買い出かけたが、その帰りが遅く、すき腹をかかえて母親と待ちわびた記憶がある。世間からも『百戸の人たちは越年に全部死ぬだろう』といわれたが、さいわいその年が豊作だったので生きのびることができた」という。
『百戸開拓50年史』に次のような話が収録されている。「蕗(ふき)に食べられた麦」とでも題すべき挿話である。
主食の麦は貴重品だった。ある家庭で昼食用にと、ゆであげた蕗と麦とを鍋にいれ、囲炉裡にかけて畑仕事に出た。留守のあいだに煮込む算段である。
ところが腹をすかせて帰宅して驚いた。鍋の中は蕗ばかりで麦は1粒残らず姿を消していたからだ。さては忙しさにまぎれて麦をいれ忘れたのかと思い返してみたが、いれたに間違いはない。そこでよくよく眺めたら、少量の麦はことごとく蕗の穴のなかに潜りこんでいた。
……現代人にはピンとこないかもしれませんね。貧乏人は麦を食え──という話がありましたが、百戸に入植した人たちは麦すら満足に食べられなかったというお話でした。
■幸栄ノ事ニ御座候
このような苦労を重ねた百戸地区の開拓団ですが、第1期入植者の長瀬金弥が残した文書によれば、
明治四拾弐年ヨリ有リテ、大正拾年四月一日分村、川上村六百余戸二相成タルハ幸栄ノ事ニ御座候
とあります。村は戸数600戸を超える集落となり、大正10年、「上川村」として音更村から分村しました(大正15年「士幌」に改称)。
百戸の草分け、長瀬は分村運動の先頭に立ち、最初の村議に選ばれている。波多野小三郎は、分村の頃、粥川折蔵、山田銀七らと出仕して、村で最初の劇場「共立座」を設けるなど、市街地の発展に貢献しました。「共立座」は観客席40坪のほどの粗末な劇場で第2次大戦中に腐敗がひどくなって取り壊されています。おそらく辺鄙な開拓地にすこしでも娯楽を届け、苦難続きの村人に一時のやすらぎを与えようとしたのでしょう。
長瀬金弥文書はこう締めくくっています。
然ルニ当地方、百戸分卜称シタルハ(中略)、其土地ヲ我等ドモ右四家内ニテ分割買受ケ開始シタル事故、百戸分ノ名称ハ経暦に残続スルモノトス。永久保存シ置ク事
熊本県人によって始まった百戸分の開拓計画は失敗に終わりましたが、その跡地に入った4家は苦難を乗り越えて開拓を成功させ、士幌町の基盤をつくりました。その原点として「百戸」の名前を地名として残したというのです。この気持ちは、私たちの代になっても受け継ぎたいものです。
【引用出典】
『士幌村史』1962・士幌町役場