北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

厚真村 古老回顧談 下
幸いその地にいた中村トンコが開墾を手伝ってくれた

 

『厚真村史』の「古老回顧談」の後半です。厚真村史は昭和31(1956)年の発行ですが、この時代には原生林に分け入った開拓第1世代がまだ現存しており、貴重な話が残されています。アイヌが開拓の協力者であったことがここでも語られています。

 

アイヌのカミマンテと2人で開拓した

高橋 留蔵(79歳)

伐採木の積み重ね(出典①)

私は、明治29(1896)年、知決辺の永谷木工場を建築するので、大工を頼まれて入って来たが、その後、転々と山稼ぎをやり、明治31(1898)年幌内のマッカウスに移住した。
 
当時、幌内は今の橋から下手は畑になっていたが、上手の方は赤ダモなどの樹木がうっそうと茂り、道という道は無かった。川原のあたりにソバ、イモの畑がわずかに散在してあった。
 
マッカウスで3年ばかり開墾してから、鬼岸辺に永谷さんが牧場を払下げたので村井カミマンテと2人で小屋を立て、その地の開墾に励むようになった。
 
この沢には熊がしきりに出て夜などは歩けなかった。ある日、豚を買ってきておいていたら一夜にして熊に喰われてしまった。
 
また村井カミマンテの豚も熊に襲われたが、カミマンテはその物音に目をさまし、用意していた鉄砲で熊を討ち取った。熊の肉は当時、ミソ漬にして冬などに貯えた。
 
鹿もよく畑を荒したが、馬とはおとなしく遊んでいた。この頃、永谷さんは、上幌内奥地の官林から青木の払い下げを受け、伐採をはじめたので、開墾のかたわらそれを手伝うことになった。
 
伐採した材木は川ぷちに積み込み、春秋の増水期に川に放り込んで流送した。流送した材木は長々と川につづき、今の厚真橋あたりで揚げして永谷木工場に運搬された。
 
また買物はダンヅケ馬を利用し、厚真に店の無い頃は札幌に出て買い物をしたが、4~5日もかかった。物価は10円で玄米3俵買えたが、この3俵にイナキビ、トウキビを混ぜて1年中をしのいだ。
 
明治31(1898)年、大水害のあとに今の幌内橋のあたりの川原で競馬をやったが、遠方からも出場者が集まり、なかなか盛況だった。
 
大正2(1913)年、幌内神社を建てることになり、大工ができるというので、100円で建築を請け負わされされたが、落成して勘定して見ると7円の酒代が残っていた。[1]
 
※ここにある村井カミマンテさんは原文では村井カミマンテンですが、『厚真村史』73pの明治30年の戸長役場設置当時のアイヌ名簿「村井カミマンテ」(22歳)と思われるので合わせました。
 
 

あばらが痛み、妻に肩腰を揉んでもらって寝るのだった

松川敬治(82歳)

採木焼(出典②)

上幌内の奥地に、照井さんが7町歩余の土地を払い下げたが、彼は病弱の身であったので、私に無償で貸すから、一緒に入地せんかと勧められて同行することとなった。
 
5月ではあったが、風はうすら冷たく、山肌にはまだ残雪が光っていた。さいわいに、その地にいた中村トンコが開墾を手伝ってくれることになり、トンコの家で居小屋のできるまで寝食を共にすることにしたが、家は笹とヨモギでかこったものだった。
 
トンコは、屋内に大きな穴を掘り、そこで炊事洗濯をしていたらしく、臭気ぶんぷんと鼻をつき、私は居たたまらずドブをさらい、新しい土を運んで埋め、燕麦ガラを敷いて寝起きすることにした。
 
食糧として持って行ったのは、馬鈴薯13表と味噌塩だけで、米は1粒も無かったので、その夜は塩煮団子をこしらえ、野草の味噌汁をすすった。
 
翌朝の食事は、芋餅と川から釣った山女魚を塩焼きにした。山女魚は、照井さんは100匹くらい釣ったが、私は76匹がせいぜいだった。この山女魚が栄養不調をふせいでくれた。
 
荒地の開墾は熊笹が密生して、それを焼き払い、根株を掘り起こすのだが、その固さは火花が散るほどだった。しばらくはあばらが痛み、妻に肩腰を揉んでもらって寝るのだった。
 
開墾のかたわら木炭を焼いたが、雨が降ると岩石は崩れ、道は壊れ、そのうちに縄、莚(むしろ)を腐らし、炭までざくざくになり、とうとう捨て物にしてしまったこともたびたびあった。
 

ツマゴ(出典③)

着物は木綿のモモヒキと短着であった。足袋は妻の夜なべにつくる刺足袋で、これはすこぶる丈夫であった。冬になるとツマゴを履いたが、吹雪の夜など炉辺のあかりで妻がつくってくれた。手袋は手カイシというもので綿を中に入れたものや、藁(わら)でつくったものがあった。
  
 照井さんは、ハッカを1町植えたところ、いよいよ、ハッカ汁を取り上げてみると、4号ビン1本しかなかったので大損した。
 
当時の娯楽としては、開拓の暇を見て、私は囲碁と俳句をやった。また、人が遊びに来ると、お国自慢の歌や踊りで、生活の苦労を忘れることがあった。岩崎さんは少し酒に酔えばタコ踊をやったが、私はオイトコを踊って共に楽しんだことが懐しい思い出である。[2]
 
※松川さんに住居を提供し、開拓を支援した中村トンコさんは在住のアイヌと思われますが、町史に名前は見当たりません。中村イサノクテの別名かもしれません。
 
 

シバレつく寒中でも素足にツマゴばきだった

黒川ダイ(86歳)

採木焼(出典④)

私は4国の伊予から、室蘭に渡り、西鶴吉さんの世話で、明治29(1896)年、幌内に移住した。
 
振老からトニカの問は道路があったが、トニカから幌内は名ばかりの細道がつづき、草木を押しわけて歩かねばならなかった。狐、熊、鹿の足あとがあちこちに発見できた。
 
昼は夫と共に伐木開墾の荒仕事をやった。しかし、大木を切ることのできない私は、熊笹や雑草を鎌でなぎ倒して刈り広げ、これに火をつけた。夫は切った大木を積み重ねて燃やしたが、今考えるともったいない気がする。
 
夜は、手ランプのあかりで、わらじをつくったり、針仕事をやった。年に1度か2度、反物の行商が来たり、富山の薬屋が入ったりするのだが、このことが珍しく子供らがその後をついて歩いた。
 
開墾した畑には小豆、大豆、イナキビ、馬鈴薯を蒔いた。当時はヘビが多く、なかでもマムシがいて噛みつかれて死に目にあった人もたくさんいた。飲料水には裏の沢水を用い、冬には厚い氷を破って水を運んだ。
 
吹雪がつづき、水が無くなる時は雪を溶かして顔を洗い、また風呂を立てるにも使った。風呂は丸太をくり抜いたもので、野天で入浴した。
 
当時の身支度は粗末な筒そでの木綿着に股引かモンペ姿、刺足袋に脚絆(きゃはん)姿であった。夫は大抵素足に草鞋(わらじ)ばき、またシバレつく寒中でも素足にツマゴばきだった。
 
常食はイナキビと馬鈴薯が多く、米は1粒も食べなかった。米の飯は、盆か、正月の時や病人用に限られて、1年に5~6升、黒い砂穂も1年に2斤か3斤であった。
 
秋になるとアキアジが上流にのぼってきたが、それを獲る松明の火が川原のあちこちにあかあかと輝いて美しかった。[3]
 


 

【引用出典】
[1]『厚真村史』1956・厚真村・47p
[2] 同上・48p
[3] 同上・49p
【図版出典】
①厚真村史』1956・厚真村・47p
② 同上・48p
③青森県立郷土館デジタルミュージアム https://www.kyodokan.com
④『厚真村史』1956・厚真村・49p

 


 

 

 
 

札 幌
石 狩
渡 島
檜 山
後 志
空 知
上 川
留 萌
宗 谷
オホーツク
胆 振
日 高
十 勝
釧 路
根 室
全 道

 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。